30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2009年09月

えびを飼い始めました




昨日が、運動会。
翌日の本日は、日曜日。

朝から出かけた。

ここ最近、土日も遊んでいないので、5歳の長男とたっぷり遊ぶ日にした。

川あそび。
近所の川へ、あみを持っていく。

嫁さんの話では、この川で、おたまじゃくしをつかまえたらしい。
そのおたまじゃくしが、ベランダの水槽に入れておいたら死んでしまった。
猫が来たようだ。

マンションなので猫はいないのかと思っていたら、どこかが無断で飼っていらっしゃるようす。
マンション自治会の「管理組合ニュース回覧板」に、猫の飼育を認める、認めないで会議をしているくだりが長々と資料として添付されていたが、おそらく、その猫、であろう。

(規則だから、守るべきだと思うが、ある老人が猫を飼っている。その老人は「猫を愛することは自然を愛する心を育てることだ」と言っているようだ。老人は、マンションのルール自体がおかしいのだ、今のご時世で、環境問題に関心を寄せる必要があるのと同じように、猫を愛する心にも関心を寄せるべきなのだ、と持論を展開。結局、ルールを無視して、猫を飼い続けているらしい)

猫におたまじゃくしを食われた、と4階の人に話すと、
「それ、管理組合に言いなよ。回覧板に載せてくれると思うよ」
と言った。



それはさておき、川へ行って、敷布をしいて、ごろりとする。
シートの上に、乳児の次男を寝転がらせて、おむつ交換。
このあたり、手慣れてきたなあ。

妻は、長男といっしょに川へ入る。
わたしよりも積極的なのだ。

「ああー!エビがいる!!」

ふたりで叫びながら、懸命にあみをふりまわしている。




そう、そこまで、でいいんです。
ですが、エビを大量につかまえやがった。
そして、飼うのだ、と言い張る。
妻と長男で。
二人攻撃。


多勢に無勢で、根負けしてしまった。
乳児の次男とタッグを組んで「めんどうなことはやめよう」と言いたかったが、無理だった。


しかし、しばらく100円のおにぎりをほおばりながら、虫かごの中のエビたちを見ていると、ふと先輩教師の顔が思い浮かんだ。

先輩は、理科が大好き。虫が大好き。昆虫の授業になると、眼の色が変わる。
そして、イキイキと話しだす。クラスの子にもそれが伝染するようで、クラス全体で、虫を追いかけ始めるのだ。

先輩は、自宅に蝶を飼っている。みかんの木を鉢で育て、キャベツも育てながら、アゲハやモンシロチョウをさかんに飼っている。
それを写真にとり、プロジェクターとパソコンを使って、クラスの子供たちに何度も見せている。

そういう光景が、パッと思い浮かんだのだ。


よし、エビを飼おう!



わたしの突然の心変わりにぎょっとしたようだが、家族も喜び、みんなででかい水槽を飼いに行って、おまけにエアーポンプその他も購入。
すべてをセットすることの、楽しいの楽しくないのって、こんなに飼育が楽しいものだと思いませんでした。

さて、水をきれいにして、エビをはなす。

エビが買ったばかりのキラキラした水槽の中、これまた購入した外国の名前の水草にからまりながら泳いでいる姿の美しさ。すばらしい!

夕食を食べる前に、みんなでエビを見つめ、食べた後にまた、エビをみつめて感想を言い合いました。



さて、夜になり、嫁さんが一言。

そんなに水槽を見つめているのって、本当は心が癒されたいからなんじゃないの。


ウッ。


そうかもしれない。
なんだか、水、そして半透明のエビのおよぐ姿を見ていると、なんだか疲れがとれる気がして・・・。


自分では気づかないけど、相当、心がつかれているのかなあ・・・。

まあ、3日後には、どうなっているかわかりませんが。



コメントありがとうございました。
エビ水槽の写真をアップしました。
手前左の黒い筒は、竹炭です。
ショップで衝動買いしました。

さらにあく抜きした、流木。
衝動買いです。

水草は、なんという名前か知りません。ちゃんと育つのかなあ。




「運動会でがんばったことは」を話してもらう




「運動会でがんばったことは」を話してもらう。

子どもに、ではありません。
運動会の反省会、つまり、夜の飲み会で、です。
これが、宴会を成功させる秘訣ではないか、と。



今回、幹事として宴会を仕切った。
幹事として、この会がどうであったかを振り返る。


スピーチ。
現体育主任は、トリにのこしておく。
幹事としては、徐々に、盛り上げていく方策をとる。

スピーチをお願いする順番はこうだ。

?初任者、新人
?本校の運動会が初めて、という人
?元体育主任
?前体育主任
?保健養護教諭、あるいは事務の先生など(目立たないが様々な準備をされてきた方)
?再任用の超ベテラン
?現体育主任

以上。


実践報告。

?の人には、気楽に話してもらうように事前に一言伝えておいた。
「○○のことをがんばりました。途中でこんなことがありましたが、機転をきかせて○○をしたら大丈夫でした。自分でもよくがんばったと思います」などと、話の形を伝えておくと気楽になれるようでした。

一番のポイントは、自分なりにがんばったこと、を話してもらうこと。
例年、新人なのに運動会を総括するような話しぶりの人もいるし、子どもの様子をたくさん話す方もいる。それはそれで話自体はとても大事なことですが、ここは、「反省会」だ。本人が運動会にどう向き合ったか、努力したか、がんばったか、ということを話してほしい。なぜなら、それをみんなで認めあって、心から、「おつかれさまでした」と言いたいから。

?新人が、話の型にそって、「○○をがんばりました」と短くまとめてくれると、あとの人は、それに続いてくれるからありがたい。基本は「自分ががんばったこと。できれば、人知れず苦労したこと」がいい。

司会、ほんの一言、「内容は、人知れず苦労したこと、でお願いします」とやわらかく口をはさみながら進めた。


?、?、とつづく。
ここで、体育主任の男性が続いたので、ちょっと雰囲気を変えてみたくなった。だって、元主任も前主任も現主任も、みんな男だから。
養護の先生が目に入った。ひらめいた。急にふっても、耐えられる人か。大丈夫だ。よし、あの養護の先生のやさしい雰囲気を借りて、むくつけき男だけのスピーチから脱却しよう。雰囲気を変えよう。
そういえば、と、またひらめく。このインフルエンザつづきの流れの中で、運動会に向けて人知れず苦労した、と言えばこの人なのではないか。そういえば、健康観察簿を届けるときも、いつもクラスの様子を気にされていた。運動会ができるか、と心配されていた。人知れずご苦労もあったのではないだろうか。

そこで、?に急きょ、養護の先生と事務の先生を入れて、「実はこんな苦労がありました」ということを話していただいた。これも結果としてすばらしかった。みんなで、素直に、「ありがとうございました」と言いたくなった。会場の雰囲気が、たいへんにやわらかくなった。

?も、ひらめいた。
これまで数々の運動会を見聞きされてきた人なのではないか。比較して、わが校の運動会はどうであったか。
一言、のはずが、どうやらしゃべりたかったらしく、楽しいお話をたくさんしていただいた。会場が笑いであったかくなった。

?そこで、現体育主任。満を持しての登場。
がんばったこと、苦労したこと、を話してもらう。しかし、謙虚すぎて、「あれもこれもうまくいかず、申し訳ありませんでした」というあいさつばかり。
「がんばったことを話してください」と途中で無理やり訂正をせまると、笑いが起きた。この笑いにも救われた。


「いろいろなことがあったにせよ、今、わが校ができる最高の運動会ができたと思います。N先生、運動会の計画運営お疲れさまでした。一人ひとりの頑張りに、もう一度乾杯!」

となりにいた、特別支援コーディネータの先生が、

「今できる最高の・・・。本当にそうだったねえ」

とおっしゃった。うれしかった。


わが校の反省会には、出し物などはない。ただ、会話をするだけ、である。だからこそ、スピーチを光らせる手立てが要る。みんなで共感しあえるものを、一つ一つ積み重ねて確認しながら、会場の空気を一つにしていく。こんなふうに、お互いの率直な話を聞きあう機会は、日常ではほとんどないのだから。

基本、だれがなにをしゃべってもいい、自由におしゃべりしたらいい。それが飲み会。それはそうだ。
でも、幹事としての一工夫があれば、もっとそこが、「聞ける場」になる。
骨太の、ぶれないテーマ。
だれが何を言おうが、幹事が編集して、また全体に投げかけていく。そのくりかえしで、反省会に、一つの見えやすいわかりやすいテーマ・ストーリーがあぶりだされてくる。
映画やテレビ番組と同じで、ストーリーがあれば、その続きが見たくなる。知りたくなる。

幹事としては、ストーリーの内容はどうなるか分からない。どの人のスピーチも、話す内容は話終わるまでわからないから。
しかし、「ストーリーをつくる」という骨太の方針はある。ストーリーをつくるために必要なものが、底に流れるテーマなのだ。

今回のテーマは、「運動会で、人知れずがんばったこと」であった。



「どうなってもいいや、だれかしゃべってれば」
というのでは、ない。
脱線しないで、「全体の反省会」としての矜持を保つのだ。
それが、幹事の仕事なのかな、とふりかえっている。




インフルエンザで気をもんだ運動会が明日開幕!




ライン入力と、マイク入力のちがいがあるらしく、放送機器をいじっているうちに、音がやけに割れたり、雑音が入ったりした。

それで、昨年までの写真を見直してみると、なるほど、ぜんぜんちがっとる。

反省し、やりなおし。


放送担当になって、ほとんどまかせてもらっているが、やはり機械が変わるとさっぱり不明である。
業者が丁寧に教えてくれるわけでもなく、たよりなのは機器に書いてある様々な文字だけ。
Ωが書いてあるが、それが複数あり、数字もバラバラ、単位もバラバラで、どこの穴にステレオプラグをさせばいいのか、さっぱりわからない。

まあ、いろいろ試しているうちに、できました。



ともあれ、インフルエンザで右往左往し、体育主任までがインフルエンザ疑いで倒れそうになった運動会が始まります。
気をもむ運動会、こんなの初めて。


でも、インフルエンザはなくならないだろうし、来年も同じように、このシーズンはインフルエンザで苦しむことになるのだろう。

もしかすると、9月下旬に開催、というスタンスが、かなり変わるかもしれない。
近隣校のように、勤務校も5月にやるようになるのかな。
今年、これだけ、インフルエンザで苦しんだから。




学級閉鎖を早く!




低学年の先生が、悲痛な面持ちで声をかけてきた。

昼休みの忙しいさなかである。

保健室へつづく廊下と階段の、その途中ですれちがいざまに声をかけられた。

「今回の対応は、まずいことだらけ」

インフルエンザ、である。


学級の中で1割の子が感染したら、閉鎖にする。
これは、指標であったはず。
となりの若い先生のクラスから、感染した子が出てきた。
1人、2人、とかかり、次の日もまた1人増えた。
ところが、管理職は「まだまだ」とがんばった。

5人、7人と増えて、ようやく学級閉鎖になった。

そのとき、となりのクラスの担任であったその先生は、管理職にこう申し出た。

「学年閉鎖にはなりませんか」

学年閉鎖にした方がいいのではないか、という意味であった。
なぜなら、その先生のクラスにも、1人、感染者が出ていて、他の一人は原因不明だが高熱で休み、さらに授業中に気分がすぐれず、発熱で保健室へ行く子が2人もいたからだ。

徐々にひろがっている。
新型インフルエンザだ、と確信した。

ところが、管理職は、「父兄をいたずらに不安にさせないため」に、学年閉鎖を見送った。

翌日、インフルエンザの確定者が4人に増えた。
そして、不明だが高熱、という子が、3人。
朝から発熱で保健室、という子もでた。

がっくりと肩を落として、
「対応が全部後手後手。おそすぎるわよ」

管理職としては、なんとかこのシルバーウイーク、連休まで持ちこたえさせればなんとかなるのでは、という判断があったのだろう。
しかし、たとえ金曜日一日だけでも、閉鎖にすべきだったのだと思う。

なぜなら、インフルエンザにかかった低学年の子の、兄弟に感染がはじまったからだ。
高学年の子に、増え始めた。
それは低学年に兄弟のいる子たちばかり。
確実に、至近距離でくらす、弟、妹から感染している。

今度は、高学年の番か。

連休になっているが、連休明けには運動会も予定されている。
そこで、しっかり参加できるかどうか。
あるいは、罹患にきずかないまま、体調の悪いままで運動会に参加してしまう子がいないか。
さらにその後の感染拡大につながることだけは避けたい。


こうした感染への対応と判断は、管理職にかかっている。
管理職は、父母からの批判をおそれず、閉鎖にふみきってほしい。




児童相談所




児童相談所の人と話した。

詳細は一切書けないが、落胆する結果になった。

子どものことに関して、こんなふうに進んでいくのか、と勉強をした。

心配。
悪いことではない。
最悪のシナリオを想定して、それに陥らないために、予防策をとる。
その意味も、意義も、わかりすぎるほど、わかる。

でも、なにか実態にそぐわない気がしてならない。

危機感はわかる。
でも、それは、いろいろと感情を不安にさせる「危機感」だ。
危機感を感じすぎるあまり、もしかしたらもっと、その危機感を感じなくてはならない部分には疲れて不感症になってしまう、そうした笑えないブラックな状況が出てきはしないか、という不安がある。

このケースは、なにか極端な気がするケースなのです。(私にとっては)

今回のようなことで、児童相談所があわてふためいていろいろと段取りして動いているが、なにか、(本当に失礼な言い方ですが)、滑稽な気がしてならない。

中学校の先生は、「暴力があった」としていますが、だれも証拠はにぎっていない。

いや、その子の証言を信じるのは第一で、子どもの安全を守るのが最優先だ。

そのとおり。
でも、なんだか、昔の家庭ならどこにでもあったようなことなのになあ、というのは、まちがった考えなのでしょうか。

中学校の先生は、今回のことで、大きな仕事が一つ片付いた、というようなホッとした安堵感をにじませていたが、これもなにか、ちがうなあ、という気がする。
安堵感の正体は、すでにこの問題で中学校の先生方が「疲れ果てている」証拠なのではないか。つまり、情報に振り回されているのではないか。

なんだか、意味不明の文章ですみません。
これも、備忘録として、記入しておきます。

私のクラスから、一人、転校することになりそうです。
残念でなりません。




6人辞めました




今年の初任者の中で、6人が夏休み中に辞職されたそうです。
同じ市内の話で、2学期早々に聞きました。

200人くらいいた採用者のうち、6人、ということですから、3%。

いろんな家庭の事情などもあるのでしょう。
ですが、やはり、一度は教師をめざした人。
惜しい、という思いがします。

中には、初任者研修の担当者とどうにも折り合いが悪く、指導されるたびに心にひっかかりを覚えてぬぐえず、どうにも我慢ができずに辞めた、という人がいます。

どっちのせいだ、ということは、いえない。

しかし、それは、教育界全体の、「不幸」であります。

では、教官が指導をしなければ、その人は辞めずにすんだのか。
だれにも、分かりません。

よかれ、と思ってやっていることだけは、まちがいがありません。

教育界全体にとって、一番は子どもにとって、「よかれ」と判断されて、初任者研修はあるのだろうと思います。

国がそうした制度をつくり、きちんと初任者を指導するべきだ、という意見が多いのでしょう。

でも、初任者を経験した私が予想するに、おそらく、この制度は早晩見直しされて、いつしか無くなっていくのだろうと思います。




方言の授業




5年生の国語教材に、「方言」について学ぶところがある。

さて、教科書を読むだけではつまらない。
方言札など、方言を蔑視していた教育がなされてきたことへの反省が書かれている。
そのことを、どなたか漫画に描いていらしたが、その漫画を見せようか。
また、そうした教育への感謝の気持ちもあるらしく、研究者からしたら
「えっ、そういう教育は批判されているんですけど・・・」と思うが、おかげで標準語をしゃべることができて、就職できた(いいところに就職できた)、と感謝するお年寄りの話なども紹介しようか。
世の中にはいろんな立場、見方があることを示す。

しかし、そこまで考えて、なにかちがう、と思い始めた。
この「方言」の魅力をつたえるのに、このエピソードはほんの一部でしかない。
授業の中心、目玉にもってくるのは、なんだろう?

いろんな指導案をGoogleなどで調べてみるが、ヒットするのは案外少なく、
実践例も、

「いろんな方言のサイトから、音声や映像を流して、意味を子どもに考えさせる」

というものが多い。
つまり、TVのクイズ番組のようなノリだ。

これはこれで、おそらく盛り上がるだろうし、楽しい面もある。

でもなあ、これだけじゃあ、なあ・・。

ちょっと、知的な感じをもう少し入れたいなあ・・・。(つづく)




笑顔について考察を進める




笑顔について、このブログに書くのはもう何回目か。
「笑顔」というカテゴリをつくっておくべきだった。

さて、自分の笑顔について、さらに今日、気付いたことがあるので自分で忘れないように、防備録として残しておく。

・わざとらしい、と嫁さんに言われるのは、どんな笑顔か、気になっていた。
どれもこれも、わざとらしい。
あなたの笑顔は、全部わざとらしいから、ダメなのよ、と嫁は宣わった。
仕方がない。わざとやっているのだから。
オール、わざとらしい笑顔になってしまう。いいのだ。気にしないことにした。

・そのかわり、わざとらしい、と言われない笑顔も見つけた。それは、「あー~~ッ。。。よくないことしてるゾ~~。。。」と、授業がはじまっても本を読んでいる子を見つけたときの笑顔だ。
サッとしまって、あ、しまった、という顔をしている子。その子に対して、向ける笑顔だ。
あるいは、集会で、校長先生がお話をしているとき、体育ずわりでなく、あぐらをかいている子。
こっちと目があって、しまった、とサッと直しても、
うはははぁ、先生は、しっかり、おぬしのことを見ておったのだゾ!というときの笑顔だ。

・いい、ゆるす、ゆるす、という笑顔もある。
こぼしちゃった、と、しまった、という顔でこっちをみる女の子と、ふと目があったときの顔。
絵具、給食、うっかり、ということは、常にある。人間だもの。
そういうとき、自分はかなりわざとらしい笑顔をしているが、これでいいのだ。
だって、コミュニケーションがうまくいくのだから。
俳優みたいだけど、こちらの気持ちをしっかり伝えるための表情だから、わざとでいいのだ。

・授業が始まっても席にすわらない子に向けて、腕時計を見ながら
「1、2、3・・・」とカウントするときも、思いきり、笑顔だ。
怖い顔をしてカウントすると、思いっきり、教室の空気が悪くなる。
いいのだ。
カウントすると、すぐに席につくのだから。
(ちなみに、カウントした時間だけ、授業時間が伸びることになっている)
で、わざと、ものすごい笑顔で、カウントする。
いいのだ。わざとらしくても。

・すべてにおいて、あなたはわざとらしいのよ、と嫁はわたしを攻撃するが、それでいいのだ。


だって、教師だもの。
これが、教師の仕事、でごわす。




けじめのあるクラス 「思い切り」の語り




授業時間は授業をします。勉強をします。
休み時間は、思い切り遊びます。
そうじの時間は、思い切りそうじをします。

思い切りやる、それが楽しい。

思い切りやらない。それは、楽しくない。


人生が豊かで、生きていてよかったなあ、と思えるのは、思い切りやる人。
いつも、思い切りやらない、という人は、「思い切りやる」の楽しさを知らない人。
まだ知らない人は、小学生のうちに、その楽しさを体験するのがいい。

ドッジボール。
どうせつまらないから、てきとうにやる、という生き方がある。
やるときまれば、思い切りやってみる。

思い切りやるのが楽しい。
楽しいから思い切りやる、というのではないよ、
順序が、ちがう。

どっちも同じだ、と思いやすいけれど、実は、順序がちがうと、人生がちがってくる。

思い切りやるから、楽しい。
それを知っている人は、この順番でやれる。
思い切りやるから、楽しい。

でも、不幸にして、運悪くそのことを小学生時代に体験できず、知らないでいる人は、ずっとこう考えながら生きていく。

「楽しいことなら、思い切りやる。でも、楽しくないことは、思い切りやらない」

こういう人は、楽しいことが、増えていくと思いますか。

思う人?
思わない人?

そうだね。
思い切りやってみよう、と思ってやっていく人は、思い切りやるから何でも楽しくなる。
だから、

「あー、○○って、けっこう楽しいんだ~」

と思うことができる。
で、そのうちに、思い切りやることが楽しい、と実感できるようになる。

みんなにはね、楽しい人生をおくってほしい。
その基礎。基礎の基礎を、小学生の今、実はきちんと勉強していく。
これが必要なの。
で、その基礎が、「思い切りやる」ってことなんだ。

授業中は、思い切り勉強する。
そうじの時間は、思い切りそうじをする。
で、休み時間は??

そう。思い切り遊ぶんだよね。

でもね、思い切り、というと、外でドッジボールをやるっていう、体を思いきり動かす、というだけじゃないんだよ。
思い切り本を読むとか、思い切り折り紙をする、ということだってあるんだ。
力を込める、ということじゃないんだよ。

どういう感じだと思う?

集中するとか、心をこめてやるとか、真剣にやるとか、いろんなこと。
思い切りやる、というのは、いろんな姿がある。
それぞれの人の、思い切り、がある。

まずは自分なりに、思い切り、をやってみよう。
それを、日記に、感想で書こう。

そうしていくと、「思い切り」名人になれる。
名人がたくさんいるクラスは、本当にいいクラスになるよ。
よかったなあ、というクラスになっていく。
これが、けじめのあるクラス、のことなんだよ。




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