30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2009年02月

チョロチョロしないの!




電車の駅。
ターミナルなので、人がたくさんだ。

雨ふりもあった。
雑踏。

肩をすくめて、足早に通り過ぎようとする人々。


人待ち顔に、壁際にたたずむ人。
その人の群れの中に、ひと組の親子がいた。


子どもは、まだ3歳、4歳くらいだろうか。ちょうどわが子くらい。

その女の子が、お母さんの周りをチョコチョコと歩き回っている。
親は、壁を背にして、じっと立っている。
ようするに、女の子としては、お母さんと早く、どこかへ行きたいのだ。
目的地があるのならば、早くそこへ着いて、ホッとしたいのではないだろうか。
あるいは、なにかおもしろいことがないかと探していたのだろう。
チョコチョコと、母親の周囲を行ったり来たり、をくりかえしていた。

お母さんは、誰かを待っていたのだろう。
携帯電話を片手に、足を止めて、ずっと立ち止まっていた。

私が通りかかるとき、ちょうど、女の子が歩調を強めて、通路の真ん中あたりにまで、と・と・と、というように出てきた。

こちらは、あ、という具合に歩調を緩めて、さっとよけた。

その瞬間。

「チョロチョロしないの!!!」

という怒声が聞こえて、思わず私は金玉がちぢみあがりそうになった。
叱られたのかと思ったら、その女の子が叱られているのだった。
つまり、母親が、娘に向かって、怒鳴っていたのだ。


とっさに思ったのは、子どもってのは、チョロチョロするものだろう、ということ。
そういうものだ。
それをするな、ということは、子どもであるな、というに等しいよね。


しかし、それでわが身をふりかえってみると、教室で、同じようなことを言ってる。

「そこ!じっとしてなさい!」


人間は、育てられる中で変化していく。

よく動く子は、賢く育つ、という。
そうかもしれない。

駅の雑踏の中で、大人の足早な群れの中でも、チョコチョコと歩こうと活動せんとしていた女の子は、けっこうな賢い子になるかもしれない。身体を使って、移動することで目から入る景色を変え、無意識にも脳を刺激しようとしていたのかも。

「この子は、おとなしくて、手がかかりません」

と笑顔でいう親がいたら、その子をしっかりと見た方がいい。
仮面の下が、泣きそうな顔をしている。
子どもは、本来、活動する本性だからだ。

さわる、うごく、あるく、つまむ、動かす。

こういうことをしながら、世の中を試そうとしている。
それが子ども。

それに、

「さわるな、うごくな、チョロチョロするな、つまむな、動かすな」

と言ったら。



粘土をとことんやると、すっきりした顔で、よく寝る。
ぐにゃぐにゃするものを、とことんさわって、満足して、よく寝る。

教室で奇声を発する子に、
あるいは、どうもエネルギーが不足しがちな子に、

なにか、こうしたことをとことん、やらせてあげたいと思う。


陶芸。
これ、必須教科にならないかなあ。




将棋メソッド




以前、学級で将棋をやっていることを書いた。
学級に、将棋盤が用意されてあるクラス。星の数ほどあるにちがいない。
私のクラスも、その何万とある学級のうちのひとつにすぎない。

「子どもが激変する将棋メソッド」という本が出た。
Eduブログのオフィシャルブログ、「教育マグマ日記/樋口 雅子」の樋口編集長が、ご自身のブログ内でも紹介されている。
このような本が出されていることを知ったので、さっそく購入してみると、


いやあ、将棋、はやらせて、よかった!!!

と思う。

クラスの何人かは、ほとんど毎日将棋盤に向かっている。
中には、県の新聞社が主催する、小学生の大会に参加した児童もいる。

トラブルが多く、クラスの中で、あまり心の許せる友達がいなかった児童なので、ほっとした。
おかげで、仲間ができた。
喧嘩をあまりしなくなった。
自信がついたからだろう。
強いのだ。
他の子に手加減している姿もある。
ちょっと前からは、想像できない。

「先生が将棋をおしえてくれたので、家でやるようになり、おかげで父親とよく話すようになった、ありがとうございます」
と保護者からうれしいお褒めの言葉をいただいたこともある。

将棋、これからもやりつづけるぞ!




山の上のコーヒー




4歳の息子は風呂場で自作の歌を放歌するアホである。(親子でうなっている親子バカ)
わが子を伴い、山の上へえっちら、おっちらと登ってきた。

TOPPOというおやつに惹かれて、ホイホイとついてくるあたりがニクい。
TOPPOを一本ずつ、小出しにちらつかせると、ガルルルル!という感じでくらいついてくる。
そのわが子を叱咤激励しつつ、山頂へ。

しかし、その途中で、リタイア。
もう頂上か、と息切れ寸前、ひざがふるえるさ中に、


「この先山頂<20分>」


という看板を見たからだ。
20分、という数字はかすれており、消えかかっていた。
そのことが、さらにやる気を萎えさせた。

あと20分。

もう、・・・ダメだ・・・。



予定を変更。
山路の途中で目的のコーヒーを飲むことにし、
コッヘルとガスバーナーで、湯を沸かす。
ぐらぐらと煮立ったお湯を見ながらミルでを挽く。




息子「あ、コーヒーのにおいしてきた」





こんな休日が楽しめるのも、2月の中下旬だからこそ。
年度末の忙しさの前の、つかの間の休息だ。
来週あたりから、クラス学級編成の打ち合わせ、要録、成績、といった怒涛の忙しさが始まる。

こう考えると、教師が心を休める休日というのは、年間の中で、この日とこの日、という具合にほぼ、定まっているのだナア・・・。




ついに間伐材が使われはじめた




カートカンがにわかに注目を集め始めたようだ。
検索エンジン、ヤフーのニュースに掲載されていたのをはじめ、近所のスーパーでも実物が並び始めた。
http://www.morikami.jp/cartcan.html

10年ほど前、大学生や若い社会人向けのイベントがあった。
間伐・枝うちを経験する企画であった。
下草を刈る、草刈り十字軍のようなイベントに似ていたが、こっちは枝打ちと間伐が主だった。

林業のプロが、間伐のてほどきをしてくれた。
3人の組で、ロープを引っ張り、のこぎりで少しずつ切れ目を入れて、進めていった。
女の子も、勇気を出して、取り組んでいた。
(今振り返ると、なかなかの体験をした)

森の地主が、好意で森に小屋を建ててくれた。
そこに若者を集めてキャンプがてら、地球環境を考えようとするイベント・ワークショップを開催したのだ。

ところが、この話。
仲間、参加者を募ろうと大学に話を持ちこんでも、
「はあ?枝うち?」
と、学務課の人にもまったく話を聞いてもらえない。
当時から、地球環境に関するイベントは盛んで、リサイクルや温暖化のことなど勉強会はあったのに、実践活動となると、興味を示してもらえない。

つまるところ、「よくわかりません」という対応が多かった。

「なんでそんな林業のことなんか、大学生に呼びかけるのですか」
と聞かれ、先のカートカンの紹介ページにあるような、林業と地球環境のつながりを説明するのだが、わかったようなわからないような、珍しい動物でも見るような目つきで見られて、甚だはがゆい思いをした。

帰り道、

「おれたちのこと、林業の土木作業員としか思ってないよ」
と愚痴ると、仲間の一人が、
「やがて、世界中がそうなる」
とつぶやいたことを記憶している。

そうとしか、しようがないのだから。
循環するしか、生きる道はないのだから。
林業を守るしか、生きる道はない。
そう思って、時代がついてくるのを待とう、と考えたものだ。

ところが、どうだ。
やはり、そうなった。
スーパーに並んだカートカンをみて、快哉を叫びたくなった。
人間は、やはり正しいことにエネルギーが向かうものなのだ。

これから、カートカンが見直されてくると、それに応じて林業のサイクルや、森を育て間伐材を生む活動が見直されてくるだろう。
そして、若者が森に足を運ぶようになるにちがいない。
さらに、間伐材そのものが生み出されずに廃棄されている、荒れた日本の森の実態を知ることになるだろう。

荒れた日本の森。
手遅れになりかけている日本の林業。
そこに、若者がかけつける日が、きっとくるにちがいない。


教師の仲間に、よびかけたい。

このことを、授業にしていこう!!




よるくまくるよ 回文 言葉遊び




よくいろんなお話をしてくださる先輩の先生に、絵本を紹介していただいた。

「よるくまくるよ」
ことばあそびの絵本だ。
文●石津ちひろ
絵○藤枝リュウジ

サッカー、勝つさ。

ねだる猿だね。

泣いたりうるさい猿、売りたいな。

象、からかうぞ。


いっしょに描いてあるイラストの魅力なのか、不思議な空気が生まれている。
とぼけたクマや、動物、さかながいろいろ登場する。


これは、低学年、中学年、高学年、
どれでもいけるのでは???


ひさしぶりに、いい授業の予感がある。


ただし、ただの読み聞かせにせずに、どう授業にしていくか。
何の教材とぶつけるか。どこの単元でやるか。
朝の時間にやるか、・・・


迷うところ。
しかし、これはしっかりと、言葉の文化なのであるから、国語の授業として、やってみたい。
昔から日本人が得意とし、励んできた言葉あそびの文化。
それらを紹介しながら、未来にもその良さを伝え、継承してほしい。
そんなところか。




通信教育のコツ その6 足元の部屋の整理




6・自宅の机の周囲をかたずける気になれない
7・会社から帰宅し、会社用の鞄を置くと、どっかりとねそべってしまう
8・レポート用紙の置き場所を決めていない

これらについて書く。


転職組が勉強していくのに、最大の敵が、『疲れ』である。

「こんだけ疲れてるからな。今日は無理やな」

何度、このセリフを口走ったことだろう。
会社から帰宅し、かばんを玄関におろした瞬間、どっと疲れが自覚される。

ふふぃー

溜息にならない、悲鳴のような声まで出てくる。

腰、目、肩、それぞれに独特の、疲れ感が。

椅子に腰をかけると、もうダメである。
ねそべったりすると、もうダメ、だ。

立ち上がる気になれず、


「いいや、なあ!今日は!!!」

と自分に言ってみながら、結局、風呂に入って寝てしまう。

レポートは、今週中には無理だったのだ。
ほらみろ。


こういうことが多い。というか、ほとんど、こういうことが原因で、サラリーマンの通信大学卒業は困難だとされているのだろう。


そこで、自分をだますことにする。
どうするか。


部屋を、むちゃくちゃシンプルにすること。
余計なもの、は、すべて、というくらいに、省いていく。

まず、新聞をとらないことにした。
新聞は、けっこう、カサがある。量がある。
そして、机の上などに無造作に置かれてしまう。
これはよくない。
つまり、視覚によく入るものは、極力、なくしていきたい。
あたかも、不動産屋といっしょに、部屋の様子を見にきた、シンプルなあの当時の状態にできるだけ、部屋を近づけていく。

といっても、そんなには現実、無理である。

買い物をできるだけ、しなくなった。
雑誌も買わない。
余計なものが増えるからである。
必要最低限のものを、食料品だけを買うことにした。

すると、新聞の広告チラシや雑誌で埋まっていた居間が、そうではなくなってきた。
いつも表面が見えなかった机の上が、いつもスッキリするようになった。

また、これはもしかすると要らないな、と思うものを、1年かけて、廃棄し、整理していった。
春夏秋冬、要るか要らないか、という視点で道具を見つめ直した。

すると、また、ごっそりと整理されて、無くなるものがいっぱいあった。

1年すると、毎日、部屋がきれいで当たり前、という感覚になった。

今ふりかえると、これが第一関門であった。
要するに、サラリーマンが激務から帰宅して毎日疲れの限界を感じながら、夜間に机に向ってレポートをしあげたり本を読んだりするための、第一関門は、足元の部屋の整理だったのだ。




YOSAKOIソーランの長谷川岳さん




「YOSAKOIソーラン」について、よく見かけるようになった。
以前、教育テレビでも放映していて、私は目が釘付けになった。
YOSAKOIソーランを始めた長谷川岳さんが映っていたからだ。

長谷川岳さんとは、高校の同窓生である。
がくちゃん、と呼ばれていた。
向こうは、こっちを、そうちゃん、と呼んでくれていた。

高校生のころの私は落語に夢中で、受験はそっちのけで、落語クラブをつくることに燃えていたから、かなり変わった男だとして周囲に認識されていた。
岳さんは、当時から周囲にアピールすることが上手で、文化祭や体育祭には、役員として一役買っていることが多かった。

文化祭で、落語をやった。
その後、落語クラブをつくるために、校内にビラを貼った。
その、手伝いをしてくれた。

名古屋の東海ラジオが、「なごやか寄席」という番組をもっていた。
毎月、かならず公開録音をしていた。
往復ハガキで応募すれば、まず当選した。
無料であった。
これに、何度も、何度も、毎月のように通った。
おそらく、高校生という年代で、応募してくる人が少なかったからだろう。
私はいつも当選して、必ず通っていた。
南山大学の落語研究会の人たちも、かなり足しげく通っていた。

キラ星のごとく、実力派の名人たちが、力のこもった噺をきかせてくれた。
円楽と米朝が、2つずつネタを打ってくれたときもある。
こんなことは、今考えれば夢のような、と思う。

その落語会に、YOSAKOIソーランの長谷川岳さんを誘ったことがある。

何度か誘って、行くと言ってくれたが、
ついに一緒に行くことができなかった。
私が他の友人にも声をかけていたので、抽選の枠に限りがあったのを知って、譲ってくれたのだった。

YOSAKOIソーランの、テープが見つかった。
放送室の、古めかしい段ボールの箱からだった。
7、8年は前だろう。そのころから、YOSAKOIソーランに、取り組む学年があったのだ。そして、それを指導した担任の先生がいたのだ。

教育という現場に身をおいて、こんなところで、旧友に出会うことになった。
なつかしい、という思いと同時に、友人の活躍をうれしく思う素直な感情が湧いた。
高校生の頃の、あの笑顔と声が、箱の中から聞こえてくるようだった。

放送室を出ると、窓の外が染まっていた。
ちょうど西陽が入ってくる時刻の、オレンジ色のガラス窓の感じが、
高校生のころを思い出させた。




コラーゲンが不足している人はまずいない?




55万部を超えるベストセラーになった、「生物と無生物のあいだ」。(講談社現代新書)
その著者である、福岡伸一さんが、こう書いている。

「女性にブームのコラーゲンは、プラセボ効果以外のなにものでもありません。コラーゲンはそのまま吸収されると思われがちですが、実はたんぱく質ですからアミノ酸に分解されて身体に吸収されます。」

ここで、私の妻のように、コラーゲンの効果をうたったサプリメントを高い金を出して買っている人は、???となる。
現に、この福岡伸一さんの文章を妻にみせたところ、

「よくわかんないけど、これだけ世の中でさわいでいるんだから、効果はある。たとえプラセボであっても、肌がツヤツヤになるんだから、とりあえず飲んどくよ。ま、また買うかどうかはちょっとわからなくなったけど」

それはそうであろう。小さな段ボール箱にいっぱい、サプリメントが届いているんだから。
これだけ、全部、体内に入れようと思ったら、それなりの日数がかかる。

福岡さんは、つづけている。

「ですから、不足していると思われている細胞と細胞の間に、食べたコラーゲンが到達するということは、生物学的にあり得ません。」

おまけに、

「何かが不足しているから不調だと思うのは、多くは幻想だと思います」

だとのこと。
妻に対してこのくだりを読んで伝えると、
「よくわからんなあ。でも、なんだかんだ、コラーゲン不足だって、みんな言ってる」

しかし、福岡さんは、不足、不足、というかけ声には、ちょっと立ち止まってみるべきだ、という。

むしろ、過剰であることに気づくべきであり、過剰であるかどうかを気にするようになるべきだ、というのである。

しかし、現代人の多くは逆手を行っている。
つまり、

「不足していると思い、不足しているかどうかを気にしている」。



肥満やアルコール依存などに見えるのは、過剰、という意識であろう。
やりすぎ、ということだ。
食べすぎ、飲みすぎ、働きすぎ、過労、ワーカホリック。

世の中には、「過剰」があふれている。

しかし、なぜか、人は不足が気になる。
不足、不足、とかけ声をかけつづけて、いつの間にか、過剰であることを忘れてしまっている。


このことを、いつか、授業にしてみたい。

でも、サプリメントそのものを授業化することに、まだ躊躇がある。
それは、授業を受けた子どもたちから、情報をまた聞きした保護者から、どんな意見がくるか、不安だからだ。

子どもたちに、どこまで考えさせるべきか。
食育と同じように、自分たちの生活に目を向けさせる授業として、洗練されたものにしていくために、まだまだ越えなければならないレベルがある。

しかし、飲酒やたばこなど、過剰であることをやめられない中毒について、その害は授業していかねばならないのだから。

問題は、中毒、という症状よりも、過剰、という意識の方だ。

どこかでサプリメントも授業にしていきたい。




あと30日、のカウントダウン




教室に、カウントダウンの表示が始まった。
八つ切り画用紙に、一人一枚、数字を書かせたのだ。
残り日数。授業日数だ。
カウントすると、あと30日、となる。

大きな数字を書かせたあと、下半分にはそれぞれのメッセージを書かせた。

「のこり30日、楽しく過ごしましょう」
「あと29日だ!みんなでガンバロウ」
「あと少しだよ!5年生になってもみんなでいっしょになろうね」

いろいろと、書いている。

書いている最中に、

「先生のことも、少しは書いてよ」

と、かる~く、つぶやいておいた。


すると、やはりやさしい女の子はいるものである。
気の利いた女の子が、

「先生、ありがとうございました」

と書いてくれている。


美しい別れ、を想定している。
学級の別れは、美しく、あるべきだ。

それは、おそらく、新しい出会いを、美しくしてくれるはずだからだ。

来年度の、あたらしい担任の先生へ、プレゼントする心だ。
贈る心、である。


情感をもって別れ、人と人との出会いの不思議、別れの必然性。
そうした人生の運というか、出会いの縁、その(ふしぎ)にふれる絶好の機会。

そうしたものにふれた子は、また、出会いの季節に、大切な縁を感じ、出会うことができる。
新しい仲間に。そして、新しい師に。




楽しそうでいいねえ、とほめる




音楽の授業が終わって、廊下を帰っていく児童。

さっき、聞いた鑑賞曲、「山の魔王の宮殿」(グリーグ作曲)を、みんなで

「ディディディディ、ディディディー、ディディディー、ディディディー♪」と
歌いながら、行進している。

男子6人くらい。

すごく仲良し、という感じ。

それも、相手の肩をもって、うしろに数珠つなぎとなって・・・


コメントが出ない。
廊下を歌いながら歩くんじゃない!という
否定的なコメントなら、出てくる。

でも、明らかに、これは好ましい光景だった。



しかし、べつにほめる場面ではないな。

そこで、

「楽しそうでいいねえ」

と言った。

みんな、そうやって通り過ぎる私の方を向いて、ニッコリした。


あとで、これも、ほめる、になるのかな、と思った。




ことばの文化と身体の文化




髪の一部に、ていねいにバリカンを入れ、デザインしている子がいる。
ギザギザの雷のようなマークで、耳の上に、ていねいにデザインがある。
さらに、耳たぶに、ピアス。
小学校5年生である。

やたらとつばをはく。
着ている服が煙草くさい。
きいてみると、

「これは兄貴のだよ!」

とのこと。
つまり、家にいる兄が煙草を喫っているので、そのニオイがついてしまった、というわけ。
しかし、やたらと、そのあたりにつばをはく。
なんでそんなにつばを吐くのか?と聞いてみると、

「うぜえんだよ、むかつく!」とのことである。
つまり、そんなくだらない質問には、答えたくない、ということであった。
気分が悪いのであれば保健室に、あるいはよくない病気に罹患している可能性があるから親に話す、と話すと、

「あっち行け!」
とのことであった。
つまり、お前とは話したくない、ということのようである。


つまり、彼は、ことばの文化では育っていない。
会話が成り立たない。
うまく、説明することや、ことばの奥を深く理解しようという意識は少ない。

その代わりに、言葉よりも、身体で話をする。


ベテランの先生が、彼とかかわる方法を見ると、そのあたりが伝わってくる。

まず、彼は、ベテランの先生には、自分から近寄っていく。
さらに、背中を蹴る。
あるいは、タックルする。

要するに、話しかけるにも、ことばがわからない(ピタッとくる言葉、適当な語句が探し当てられない)ので、



いきなり、タックルする。




しかし、通常のタックルではなく、加減がある。
そして、腹部のちゃんとしたところをねらう。急所は外している。
さらに、タックル後に、子どものような(子どもであるが)笑顔を一瞬、する。
最後に、先生の顔をみあげる。

このようにして、要するに、かまってほしい、というサインを送る。

彼は、ことばの文化では生きていないのだ。
身体の文化が、まさっているのだ。

だから、わたしが、ネチネチと、お利口な語彙をたくさん使って(?)、話かけても、ちっとも心を開かないわけだ。
そして、彼なりの精一杯の語彙を使って、

「うぜえ!」

というしかなかったのだろう。
苦しかったにちがいない。

そこが、さすがベテラン先生の腕だなと思うところで、
タックルされた後、彼と同じようなテンションの言葉で数回応酬しながら、

「それでお前、さむくないのかよ、そんな薄着でよ~」

とか、ちゃっかりと相手をリサーチしている。

「お母ちゃんに言えよ、もう一枚、セーターとか出してくれよってさぁ~」

「言うかよ。ってか、そもそもセーターとか、ねえし」

その子が、そう言ったのを目の当たりにしたとき、私は感動して腰が抜けそうになった。

なんと。

家の事情を自ら話して、先生に反応している!!!!



あとで、ベテランの先生に尋ねると、

「うしろから、たまに羽交い絞めしたり、ヘッドロックしたりするといいよ。そういうふうにかかわってくる大人にだけ、心を開くから」

とのことであった。

女子には通じない(というかやってはいけない)が、この手の身体文化少年には、有効な手立てであろう。




何度でも同じことをほめる




「ほめる」をテーマに、考えを続けている。

最近たどりついたのは、

・口先だけの<とりあえずほめ>は、効果なし
・心から感心したり、尊敬したりする気持ちで、ほめる

子どもも人間。
気持ちのある行為や言葉は、心の底にまで響きます。
しかし、気持ちのない行為や言葉は、無効なのです。

また、他のほめ言葉にも、影響が出る。
<とりあえずほめ>を続けると、先生のセリフや指示を聞かない子になるという気がする。

「心から尊敬しながら、感心しながら、ほめる」をやりたい。
しかし、どうもそうはならない。修行が足りない。そこまでえらい、と思えない。
歯が浮く。気持のこもらない言葉、うわすべりのほめ言葉が、続いてしまう。

落ち込む前に、あみだした技が、これ。

「何度でも、ほめる」

あのとき、すごかったねえ
この間、すごかったものね
きのうだって、ちゃんとやれていた
いつもやれるからえらいね
続けているのはすごい

これを、何度でも、何度でもいう。
そうすると、本当に言っている人の気持ちが、こもってくるのだ。

わが学年は、音楽会で、見事な演奏をした。
にもかかわらず、その後の音楽の授業では、緊張がきれてしまったのか、集中力がとぎれるようになってしまった。私語がふえ、すぐにとりかかる、というふうではなくなってしまった。

そこで、

「音楽会のとき、すごかったよねえ」
という話題を、教室に入るなり、何度でも言うことにした。
言っているうちに、いやあ、本当にすごかったなあ、という気持ちが、またよみがえってくる。
その口調や、雰囲気、こちらの感じている気分が伝わるのか、
なんとなく、うれしそうになる子どもたち。

個別にも、いう。
リコーダーの低音がどうにもきれいに出ず、顔が晴れない児童に、

「リコーダー、大丈夫だよ。○○くん、今はそうだけど、あのときの努力知ってるから。先生は。」
(けげんそうな顔つきの児童に)
「ほら、音楽会のときだよ。心配してないよ。あのくらい努力すれば、きっといけるよ。」

こういうふうに、ほめなおす。
何度でも、同じことで、同じように、ほめなおす。

これを今年に入って、かなり意識的にやるようになったところ、
「先生、同じことばっか言ってる」
とかなり言われるようになった。
でも、やはり、その表情はうれしそうだ。
そして、
「でも、あれは本当にえらかったと思うよ。○○さんのよさだと思うよ」
というと、
「知ってる」
と、すました顔だ。

しめしめ、だ。




通信教育にはコツがある その5




1・近くに図書館がない
2・図書館で検索の仕方がわからない。
3・参考文献になりそうな本があっても(見つけても)、どうもピントがずれている本のような気がする。
4・起承転結が書けない
5・そもそも興味関心がわかない
6・自宅の机の周囲をかたずける気になれない
7・会社から帰宅し、会社用の鞄を置くと、どっかりとねそべってしまう
8・レポート用紙の置き場所を決めていない

これらについて書く。

1について

通信教育を続けるために、図書館を味方にする。
少なくとも、私にとっては大変役立った。
なにしろ、そこの図書館は、学習室がある。
大勢の社会人が、勉強していた。
また、ここが一番のポイントかもしれないが、なんとノートパソコンの持ち込みができた。
これが助かった。
私は、階下の書架コーナーから本をさがしてきては、学習室でひろい読みをし、大事そうな部分をどんどんと入力、打ち込んでいった。
順番は関係ない。とにかくも、これは使える、というところを抜粋し、テキストを増やしていった。
すると、読み終わる頃には、レポートが1枚かけそうなくらいの文字数、文章量になっている。
保存し、ちょっと休憩する。
トイレもある。
まわりに、誘惑するテレビもゲームも何もない。しずかに集中する雰囲気と空気が、そっと背中を押してくれる。
よし、と廊下で麦茶を飲んで、またもノートPCに向かう。

すると、一見ばらばらに見えているレポートメモ、が、なんとなく細いつながりになって見えてくる。要するに、これはいったいどういうことか?と白紙に、今度は鉛筆と手書きで、整理していく。これは、昔知った「マンダラート」という整理術を使う。
すると、だんだんと書く内容が整理され、少し深くなり、多少自分の意見もまじる。
あとは、えんぴつで乱雑に書かれた、マンダラートの内容を見ながら、ノートPCの文書に修正を施すだけである。
順序を多少入れ替え、自分の意見っぽいものを加え、ともかくも字数を確保する。

あとは、気合いで、切手をはり、えいっと投函してしまう。

半日で、3通ほどのレポートを仕上げる日もあった。

つづきを細かく、見ていこう。




通信教育にはコツがある その4




レポートでつまずく場合と、試験でつまずく場合。
これまで、私が通信教育部の会合やメール、知り合い、その他、の相談にのってきたとき、この2つの説明をよくした。

○レポートが書けない
○試験で落とされてしまう

実際、この2つの両方をパスしなければ、単位修得ができないのであるから、なんとか手を打ちたい。
できない、無理、と思うときには、問題を細分化し、まず一点を突破するようにすることが黄金律だ。
個別に見ていく。

まず、○レポートが書けない、ということ。

書けない理由がある。

・締め切りを意識していない
・書くための資料が集まらない
・資料を集める時間がない
・集めても、書く時間がない

さらに細かくすると、

・材料をどう選べばよいかわからない。
・レポートの書き方がわからない。
・出だしに何を書けばよいか、わからない。
・最後をどうまとめるとよいか、わからない。
・自分なりの意見がない。
・自宅の机で書く気分になれない
・自宅の机の周りが乱雑すぎて書けない
・会社から帰ると疲れすぎてて書けない
・レポート用紙がどこかにいってしまった

さらに、さらに、細かくすると、

・近くに図書館がない
・図書館で検索の仕方がわからない。
・参考文献になりそうな本があっても(見つけても)、どうもピントがずれている本のような気がする。
・起承転結が書けない
・そもそも興味関心がわかない
・自宅の机の周囲をかたずける気になれない
・会社から帰宅し、会社用の鞄を置くと、どっかりとねそべってしまう
・レポート用紙の置き場所を決めていない

とまあ、・・・こういうことになろうか。

次回、細分化した問題について、ひとつずつ個別に撃破していく。




通信教育にはコツがある その3




履修計画が済んだら、次は、試験日程とレポートの締め切りを決める。

すべての単位について、レポートの締め切りがある。
それを、すべてこれもExcelのファイルに書き出し、さらに壁一面のカレンダーに記入した。
このとき、赤ペンで本当の締切日を書き、緑のペンで、書き始める日に緑の線を入れた。
もちろん、矢印と単位の教科名も。

←特別支援教育について→

というような感じである。

書き始める日は、かならず土日。
その土日のいずれかに、図書館へ行くこと、とした。
図書館で参考文献を探すためだ。


そして、レポートが間に合えば、試験受験ができる(もちろんレポートの段階で不可、書きなおし、ということもあるが)。

試験を受ける日にちもわかるので、1年分はすべてカレンダーに書いた。

これで、時間のマネージメントは80%いける。

次は、レポートでつまずく場合と、試験でつまずく場合の2点について、その対策を述べる。




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