30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2008年07月

初任者のお茶くみ義務




初任者の会で、話を聞く。

学校ごとにしきたりがある。
初任者は朝、お茶くみをする。
職員室の人数分、40杯。
事前に、湯飲みを温める。

それを聞いて、おどろいた。
率直な疑問をぶつけてみる。
「それって・・・湯飲みを全部、誰のものかとか、覚えないといけないですよね。」

「そうなんです。でもだいたい覚えました。最初、教頭から、こんなのすぐに覚えるから、と言われたんですが、本当にその通りでした。すぐに覚えちゃいましたよ。」

朝、7時30分からやる。
それも、時間が最初から決められている、とのこと。

「じゃあ、朝のうちにプリント印刷しておこうとか、できませんね」

その日の授業準備で、朝のうちにどうしてもやっておかなくては、ということがあったら、どうするのだろう。

「そうなんです。だから、7:00前には出勤します。それで先に自分の仕事をするんです。その後、初任者の仕事をして。。。。という感じですね。」

5時30分に起床、だそうだ。

「その、初任者の仕事ってなんですか。」

「廊下のモップがけと、そのお茶くみですね」

初任者の集いでは、いろいろな話題がでる。

「お茶くみなんてしたことないなあ」

そう言うのは、また別の学校の先生だ。

「せいぜい、同じ机の列の先生とかかなあ」
「あと、会議の時はいれたり、運んだりする」

早朝のお茶くみ義務は、半分くらいの割合だった。



わが校では、そういうものはない。

「そのかわり」

会の終盤、早朝組の一人が言った。

「早くにくると、いろんな先生の仕事が見えてきますよ。教室の朝の様子が見えますしね。。。。その日授業で使う道具が机の上に乗っているから、あれって何ですか?とか、聞いたりして教えてもらっています」

なるほどなあ。




やっぱり、理科教育。草花の観察。この力。




前項からのつづき。

子どもが、自らをふりかえる。

さて、そんなことができるのだろうか。
学級の子どもたちを想像して、考えてみる。

彼らは、自分のことを、自分の思いやイメージでとらえている。
だから、底が浅い。
将来、漫画家になるんだといって、せっせと漫画を書いている子が、

ぼくって漫画大好き。

と言う。

そうじゃあない。

自らをふりかえる、というとき、
「ああ、ぼくって漫画大好き」
というレベルのことを言うのではないのだ。
決してそれが悪い、というのではない。
むしろ、このあたりが入り口なのだろう。
みんな、この入り口から、スタートだ。

漫画が好き、と思ってみるから、そう見えるだけのこと。

むしろ、筆が進まないなあ、と感じるときも、自分のことをみてほしいし、描くのがおもしろい、と思えるときと、そうでないときと、ずいぶん波があるんだなあ、ということも見てほしい、感じて欲しい。

キメツケで、固定的にみるだけでは、いけない。
なにか、大事なことを落とすような気がしてならない。
いつも、つねに、自分をふりかえられる力。

例えば、ぼくは○○は苦手だ、○○が得意だ、○○がやりたい、と思っている。
そう思って、そう言ったとしても、そう思っているから、そう言ってたから、「実際にそうだ」とは限らない。
思う、言う、とかでなく、その人の「実際」はどうだろうか、ということ。

「いや、本当です。本当に、心底、そう思っているんデス」
と言うかもしれない。

それが、「ウソ」だとか、「本心」だとかという問題でもないのだ。
心底そう思っているとしても、「その人の実際はどうだろうか」というもの。

夢は漫画家だと思っていたら、案外そうでないかもしれない。
・・・と考え続けていて、いや、やっぱり漫画家だぁ、と再発見するかもしれない。
そのうちに、もっとちがう力量を見つけるかもしれない。
驚くほど、好みが変わるかもしれない。

変わるものを発見し続けていると、今度は、変わらないものを発見するかもしれない。
好みはどんどん変わるが、これだけは変わらないなあ、と思うものがあるかもしれない。

実際をしらべるためには、つねに、ふりかえり続けることしかない。
つぎの瞬間には、自分の内面が変わっていることだってある。

「男子三日会わざれば刮目して見よ」

大事なのは、つねに、ということだろう。
つねに、常時。
ふりかえっていく。
自分を観察していく。そうして、自分に迫り続ける。自分を、知ろう、とする。
それをさぼると、またたくまに、自分についての情報が古くなってしまうのだろう。

自分で自分の古いイメージを持ったまま、新しい日々をすごしているのだとしたら、もったいない。自分の方向性とか、内在する可能性などというものは、こうした日々の「ふりかえり」の営みの連続でしか、見えてこないように思う。

では、ふりかえるには、どうするか。

感情や印象を入れないで、草花の観察のように、自分を観察するのだと思う。そうして、過去から現在に至る、現状ありのままの自分を、素直に見て、知る。

「先生、ぼくって、こんな(・・・中略・・・)・・・人なのかなあ。ずっと自分を見てきて、今こう思うんよ。」

卒業前、こんなふうに切り出す子ばかりだったら、進路相談も簡単だろうなあ。
だって、自分をちゃんと、知っている子ばかりだもの。
勘違いしている子や、なにも自分のことを知ろうとしてこなかった子ばかりだから、進路相談がむずかしいのだ。

自分のことを知らないから、失敗がこわい。
料理の道に進む、と言っておきながら、
「飽きたらどうしよう」
と言う。

自分を知らないから、決められないのだ。

「うまくいかなかったら、どうしよう」
事柄の達成しか眼中にないから、苦労する。

進路相談にかぎらずとも、自分自身をふりかえる癖のある子は、強い。
いろんな場面で、強さを発揮できる。
自分が、いろんな状態になることを知っているから。むしろ、大事なのは、いろんな状態や気分になる、その表面的なことよりも、自分の本当のねがいの方だ、そちらが大事だ、とわかっている。気付いている。

自分の本心、本当のねがいが大事だ、と考えることができるようになっていること。ここまでいけた子は、自立して、自分で自分の人生を、つくっていくことができるだろう。自分の内面、自分の本音は?自分の本当のねがいは?と、つねに内面・中身に立ち戻って、考えていける。

さて、では、どんな力を、子どもにつけていくのか。

ふりかえってみる力。

それはそうだ。
それを、どうやって?

先に、「感情や印象を入れないで、草花の観察のように、自分を観察する」、と書いた。

草花の観察。




そうか。

それを、やれる力が、まず必要だ。

素で、みる。
みる、ということが、できるか。

今の子どもたちが、学級の子どもたちが、そもそも、「見る」 の力を、持っているかどうか。


やっぱり、理科教育。
草花の観察。この力。
みる、力。


みる力。必ず、理科の力にとどまらない。自分を知る、自分の人生を知る力に、通じていく。
また、そこを描いての、理科教育であり、草花観察。そのレベルにしていく。教師がしていく。




子どもに一番つけたい力とは




子どもに、どんな力をつけてやりたいか。

国語算数、理科社会、音楽図工・・・
いろいろ浮かんでくる。

教科外でも、友だちとつきあう力、集団で暮らす力、意見を言う力、聴く力、書く力。
コミュニケーション力、といろいろあろう。

いやいや、根本はもっとちがうよ。困った人を助けようとするやさしさだよ、という人もあろう。
一番困っている人に寄って行こうとする心根(こころね)を育てるのが一番だ、という声も聴かれるだろう。

そういういろんな力をすべてひっくるめて、さて、いちばんは何か。

こんな問いを、初任者の仲間にしてみた。

実は、夏休み期間中、仲のよい初任者どうしが集う機会があったのだ。(つまり呑み会)
全員集合するまでの間、時間があるのでいつものようにダベリングしているときのこと。

「結局、どんな力をつけたいか、ですよねえ」

という会話のあと、ふと気になって、じゃあ、一番、というと、ナンなのだ、ということになったのだ。実は初任者の仲間うちで、1学期の間にかなり悩んだ問題があった。それが、学級経営目標だ。それぞれが、どんな学級をつくりたいのか、と考えたのだが、それほどハッキリと何かが描けているメンバーはほとんどいなかった。

そのときの会合でも、「何かにしぼるの、むずかしいですよねえ」ということで終わったのだ。
前段で、こういった話し合いがあったので、ちょっとマジメな話し合いになると、「どんな力をつけたいのか」ということが、焦点化されてくる。


どんな力をつけたいのか。
自分なりに、ずっと考え続けている。

今の時点で、どう思うか整理する。

「自らをふりかえる力をつける」
こう考える。

最初、こう思った。
いわゆる、「生きる力をつける」
じゃ、生きる力とは何か。

思考を、ギュッと濃縮する・・・。


自分のめざす方向に、自分をいざなう力。


つまり、こう考えた。
子どもが、自分の足で、自立して、生きることができる。
それは言葉を変えると、自分のねがいを成就させながら、この社会の中で自分のあり様をコントロールしながら生きていくことができる、ということ。

そのためには、

まず、自分の夢を知る。
自分が何をしたいのかを知る。

そのために、
自分がどんなふうに物事をとらえ、感じ、考えるのかを知る。
自分は自分のねがいに一致する方向に進んでいるかを知る。

自分が今のままでよいか、ふりかえることができているかどうかが、カギとなる。




夏休み、心境の変化




もっと思い切り、やりたい。
そう思うようになった。

職員室で遠慮している自分。
子どもの前で、遠慮している自分。

そうではないはずだ。
なにかが、自分を止めている。


思い切り、このことを、子らに学ばせたい、と願うこと。
それを、教室で、ドラマティックに展開したい。
子どもたちから、出てくる、さまざまな疑問や意見、考えを、しっかり、ひろってあげたい。
また、知的な質問が出てくる教室の環境を、準備してやりたい。


子どもたちから、たった数日間、離れただけで、なにか、心境が変わる。
これまで、守りの姿勢だったかなあ。


思い切り、今、描いていることを、進めてみたい。




子どもから出た、ピカドンの疑問




恩師、岩下修氏にならって、学期末に本を読んだ。
ヒロシマの原爆、ぴかどん、の絵本である。

そこで、さまざまな疑問が子どもたちから出てきたのだが、それを書き留めておく。
なにしろ、ヒロシマさえ知らない子がいる。
原爆という言葉さえ知らない子がいる。

自分が小学生だった時代とは、すっかり、ジダイがちがっているのである。

アメリカはいくらなんでもひどいことをした、という子もいれば、ちがうよ、日本が悪いことをしたから、アメリカが攻撃したんだ、という子もいる。
これらはほとんど、家庭の親が話して聞かせているのだろう。

戦争、ということについては、いろんな要素がからみあって情報となっているようで、子どもたちは複雑な問題をできるだけ自分で解釈できる情報に翻訳して理解している。だから、聞いていると、え?、と思うようなことも言う。

前述の、日本が悪いことをしたからアメリカが攻撃したんだ、ということを言う子に、

「もう少しくわしく説明できる?どんなふうに、戦争のお話を聞いたの?」

と聞いてみたが、あまりくわしく説明が出来なかったのは残念だった。
(朝鮮や中国、という言葉が出るのかな、と思ったのだが)

両親や親戚、祖父母から、いろんな話を聞くのだろう。
それを、その子なりに翻訳して解釈して、聞いている。
今回、「ヒロシマのぴか」を読むことで、また子どもたちに、戦争についての情報を与えることになっただろう。


子どもたちから出てきた疑問。

「本の中で、ヒロシマにはもう何十年も草木も生えないだろう、と出てきたけど、本当は草も木も生えてきている。どうしてですか」

正直、先生もわからないなあ。

・・・であった。



これをきっかけに、ちょっと原子力を調べてみた。

原子力、あるいは放射能、についていうと、十年ほど前の東海村臨界事故が記憶に新しい。
このとき、『臨界』という言葉をはじめて、知った。

岩波理化学辞典によると、

「核分裂反応が一定の割合で維持される状態をいう」

とある。

東海村の事故は、ウラン235を濃縮する過程で起こったとされているが、なぜ原子力発電所ではウラン235を使うのだろう?
また、何のために濃縮するのだろう?
そして、なんで放射能は怖いのだろう?

こうしたことが分からないと、原子力について子どもたちから疑問が出てきたときに何も反応ができない。少なくとも一年に一度、ヒロシマの話をするときには少し、こういったことも知識として持っていなくては、と思ったのだ。


いろいろ調べて、こんなことがわかった。

(1)ウラン235の発熱量は石油の230万倍
(2)天然にわずかしか存在しないウラン235のみが核分裂を起こす。
(3)そのウラン235はそのままでは燃料にならないので、濃縮する必要がある。JCOはその濃縮行程を請け負った。
(4)ウラン235は中性子を吸収すると質量の約10000分の9を失って膨大なエネルギーを発生する。(これが核分裂、原子力発電の原理)

・・・他にもあるが、かなり複雑。


しかし、なんでまた、草木も生えぬ(と言われた)ヒロシマに、草木が生えてきたのか、自分には説明できない。知りたいと思う。




牧野富太郎氏の赭鞭一撻(しゃべんいったつ)




赭鞭一撻(しゃべんいったつ)。
日本の植物分類学の父、牧野富太郎氏が、17歳の頃に書いた勉強心得のことである。
植物学を志すようになった彼は、この抱負を生涯をかけて実践し通した。

十五 造物主あるを信ずるなかれ
で終わるのだが、
この直前の

十四 書を家とせずして、友とすべし

という文の紹介がしてあるのを見つけた。

「本は読まなければなりません。しかし、書かれている事がすべて正しい訳ではないのです。間違いもあるでしょう。書かれている事を信じてばかりいる事は、その本の中に安住して、自分の学問を延ばす可能性を失うことです。新説をたてる事も不可能になるでしょう。過去の学者のあげた成果を批判し、誤りを正してこそ、学問の未来に利するでしょう。だから、書物(とその著者)は、自分と対等の立場にある友人であると思いなさい。」(現代語訳)

真理の探究。


これが絶対だ、という自信は、悪自信である。
自分の考えは決して誤り無く、判断する能力に死角はない、と言い切るものだ。
こうした考え自体が、マチガイだ。
脳が全能完全な機械ではない限り、脳は本来、「間違えて当然」の機能なのだ。
誤りの多い人間本来のあり様からすると、悪自信そのものがすでにマチガイであるわけで、それを恐れた牧野氏の、心底謙虚な、理想の研究態度を示していると思う。

だから、自分の考えも、書物の考えも、対等だ、というのである。

対等、という測り方、そのものが、むずかしいのが実際だ。

えらい人の言ったことだから正しい。
先輩の言ったことだから正しい。
本に書いてあることだから、正しい。

こうなり易い傾向の人は、逆に、

子どもの言うことだから信用できない。

となりがちなのだろう。

同じ観念で、とらえているから、えらい人、子ども、と見上げたり見下したりする。

そうではない、というのだ。


対等。


対等、と見えるか、どうか。


真理の前では、対等なのだ。
探究せんと努める立場に、あらゆる格差はない。

さて、この夏、どんな読書ができるだろうか。
へちまも朝顔も、夏の草木はどんどん生長する。
同様に、教師の力も伸びる、夏だ。




チャイムを鳴らしてほしい




勤務校は、チャイムがあまり鳴らない。
鳴るのは、3回。
・朝始業の5分前
・中休み(20分)の終わり5分前
・昼休みの終わり5分前、
である。

歴史があるそうだ。
先輩に聞いたところ、昔はチャイムがよく鳴っていて、なにかのたびに鳴っていた。
5分前も、ジャスト0分前(つまりちょうどの時間)も鳴っていた。
ところが、鳴りすぎだ、子どもをしばっている、学校全体が管理的だと思われる、との意見が出てきた。

管理教育が批判された頃だから、昭和の終わりごろだろう。
今、批判されている学習指導要領が始まる前だ。

その頃から、チャイムが「管理のシンボル」のように言われて、だんだん縮小された、とのこと。

しかし、今や、時代は変わった。
(常に変わり続けているのが教育界で、変わるのが頻繁だ、ということ自体が批判されているようだ)

学習指導要領が変わるのと、時を同じくして、またふたたび、チャイム議論が巻き起こっている。

チャイム推進の意見を持つ先輩がいる。
年配の男性の先生。
最大の理由は、子どもが変わったから、という。

「今の子は昔とちがって、時間を見て動くように育っていないよ」

つまり、規範意識があまりに希薄なので、1年生のときからしっかりとチャイムでしつけなきゃ、というのだ。

いささかそれに疑問符を投げかけるのが、年配の女性の先生。
二十年前のチャイム論議が、またよみがえってくる、という。

「あのころも、チャイムが職員会議で話題になったけど、やっぱりチャイムはあくまで補助。時計を見て動くようにしつけていくのが仕事でしょう」

チャイムの音が、子どもを管理している、というイメージが強い。音でしつけたところで、ろくなことはない、という。


興味深いのは、どちらも「しつけなきゃ」と思っているところだ。


分からない。
どっちがどうなのか。
私にとっては、今が最初なのだ。
過去にどんな議論がされたのか、さっぱり知らない。

とにかく、教育界としての結論はまだなく、おそらくこれは全国、どの小学校でもいろんなスタイルがあるのだろう。
それぞれの学校の実態にあわす、ということになっているのだろう。


わが校で考えてみると、・・・どうなのか、わからない。
自分がいえるのは、わがクラス、わが学級にはどうか、という点だけだ。

その点でいえば、チャイムはほしい。

「ほら、チャイムがなったよ」
「チャイムがなったから、授業始まるよ」

と、いえるからだ。


初任者にとって、チャイムは便利な道具だ。
それが管理的に思えるものであっても、目の前の、子どもを席につかせ、学習に向かわせるのには、とてもよい機能であると思う。

初任者の会で、他の先生に聞いてみると、

「うちも鳴らないんですよ。あった方がいいですよね」
という声と、
「今、あまり鳴りませんから気にならないですけど、頻繁に鳴るとうるさいと思う子がいるんじゃないでしょうかね」
という、子どもに配慮する声もあった。

「うちの学級はがやがや落ち着かないので、毎時間、最大ボリュームで鳴らして欲しい」

これは、先般から登場している崩壊学級で苦労されている先生のセリフ。
こんなことまで言えるようになったから、夏休みに入って、ちょっとは元気になってきた様子だ。




猿投温泉の湖について




愛知のローカル話。

愛知には、東海道自然歩道などが本当に丁寧に用意されていて、ハイキングは年中楽しめる。子連れの家族にとっては、とてもよい環境だ。

猿投、という地域がある。
ここに、温泉があるので、行ってきた。

あと、ついでに猿投山のハイキングにも。

高速は猿投グリーンロードで猿投インター。
温泉はどこかの社長ががんばって作ったそうで、なかなかの充実した設備。
お客さんもたくさんで、繁盛していました。

温泉の上の、山の方をのぼっていく道(木の階段)があったのでのぼっていくと、大きな湖?のような場所に出ました。


ぽっかりと、湖があったのです。


音のない、不思議な空間。
他のお客さんも、ここまで来る方はめずらしいようで、我が家だけ、という時間もありました。

目に映るものはすべて自然。
電線も目に映らず、なんだかぽっかりと桃源郷に来た気分。
下の方へ10分もおりていけば、あのにぎやかな温泉宿に着くのに。

いったいここは?

きこえるのは、ピーヒョロローのとんびの声と、魚がときおり、はねる水音。

「むちゃくちゃ、しずかだねえ」
「湖の表面、水面が、音を吸収するんでないの」
「なるほど」

本当かうそか、そんなことまで信じてしまいそうになるくらい、静かな空間でした。
イスを持ってきてすわっていたら、何時間でも寝てしまいそう。
湖の上を吹き渡る風が涼しく、気持ちよい空間でした。

もしかすると、あそこでキャンプとかする人がいるのかもしれないな・・・。




事実に焦点を当てる 理科教育




目黒にある国立教育研究所の図書館に、多くの資料が保存されている。

このことは、以前から知ってはいたが、一度も行っていない。
時間があればなあ、とずっと思っていた。
さて、夏休みがはじまった。
ふだん、脳みそが回転するのとは、まったくちがった角度から、教育、という営みを見直してみたい。
そうでもしなければ、何かしら、日常の思考パターンにとらわれてばかりいることになりがちだからだ。
澱を溜めることなく、白紙にもどる、ということを毎年やっていかないと、十年後にはえらいことになっているだろう。
コチコチの頭でっかち、キメツケと固定観念で、苦しむ日常には陥りたくない。


さて、目黒にある国立教育研究所である。

ここに、次なる題名の、書物がある、というのだ。
それは、

『日本理科教育史』(東京法令出版/板倉聖宣・永田英治著)

これには、明治から今日まで文部省、民間を問わず日本で科学がどう教えられてきたか、その際、どんな資料が使われてきたのか、調査したデータが網羅されている。

「子どもたちに何を教えたらよいのか」
「学ぶに値するものはなにか」

これは現代の課題でもあるが、敗戦直後の日本でも問われていた課題だ。
一億玉砕、天皇に仕え、国のために死ぬことが正しい生き方だとされていた日常から、いきなり「民主主義」の日常に変わっていく中で、しかしこれからどんな社会になるのか、誰にも見当がつかなかった時代。

価値のあり方など、それまで固定化されていたものが崩れたとき。

何が判断の拠り所になるのか、できるのか、わからなくなってしまったとき。

多くの教師が、迷い、手探りの中から、何かをつかもうと必死だったにちがいない。


しかし。

どんな社会になっても、かわらないものは、ある。

それが、真実であり、真理であり、目の前に展開されていく、事実の集積だ。

子ども達の中に安定した判断の拠り所、思考力を育てておきたい、と願い、基から考えていく力、科学的な思考力を養っていくためにも、理科教育が注目されたのだ。

この書物を、ぜひ、見て見たい。

ここ、7,8年来の夢であった。


科学的思考力。
これをつけてやりたい、と願う教師は多いだろう。
世の中は迷信ばやり。
自分でたしかめる力のないまま、知識を鵜呑みにしていく子ども。
事実を見ないで、自分の思いやイメージで、物事をとらえようとする子がほとんどだ。
うわさをすぐに信じる体質。


さて、インターネットの流行する現代だからこそ、理科教育が堂々と、表舞台に登場すべきなのでは?


こうした直感から、理科の授業を工夫したいと願いつつ、何も手につかないまま、時がすぎる。

理科教育に、何かしら、現代病理の突破口がありそうだ、この予感をどうにかして確かめたいが、手ごたえを感じるために、自分の頭も、時間も、整理を進めなければならない。

この夏休みが、チャンスだ。





しかし、おそらく、こうした本をじっくり読む機会は当分、めぐってこないだろう。
この夏休みも、研修だらけ。
嫁も子どももいて、夏休みだといってうかうか休んでいられない。
先に読むべきなのは、

『おすすめ!親子で行くオートキャンプ場東海地域版』 (題は適当。おそらくそんなような本があるにちがいない・・・)
である。

さて、初任者研修の合間をぬって、どこへ出かけるか。
家族サービスの計画を練らなければならない。




採用試験面接の答え方 その4




○授業中、急にとびだした児童生徒をどのように指導しますか
教室を他の先生にまかせる、学校から出ていないかどうか、危険なことになっていないかをみる、原因によるが、身体にふれて落ち着かせる、落ち着いた声で声をかける、呼吸をあわせる、休ませる

○明日から夏休み、子どもたちになんと言いますか
けがをしない約束、絶対安全、9月3日は先生が先かみんなが先かどっちだろうね、窓を開けてくれる人、暑かったら扇風機をまわしてくれる人、たのしみだなあ

○始業式、最初にどんなあいさつをしますか
水泳部で水泳がとても速いです。水族館が好きです。魚が大好物です。水曜日に生まれました。水が大好きな、○○先生です。

○LD児、ADHD児、アスペルガーの児童にどんな指導をしますか
個別の症状、状態をつかむ、
視覚優位の児童にはその助けになるような指示を工夫する、
医師の診断に気をつける

○学習意欲を引き出すためにどんな工夫をしますか
朝一番にほめることからはじめる、姿勢をほめる、教科書を用意していたことをほめる、声をほめる、そろったことをほめる

○保護者からうちの子がけがをさせられた、ということで連絡があった。どうしますか。
お子さんが心配だ、という気持ち、現状を知りたい、明日さっそく聞いてみること、朝のうちに一報入れること、どちらにも子どもの言い分を双方よく聞いてみてわかったこと、学校での対応を話す。

○保護者に対して注文がありますか\t応援団だと思っています。子どものよいところをたくさん教えてください、といいます。

○公務員の禁止事項はなんですか
信用失墜行為の禁止争議行為等の禁止(地方公務員法)

○教員の禁止事項はなんですか
信用失墜行為の禁止争議行為等の禁止(教育公務員特例法)

○教員の服務規程はどんなものですか
すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当っては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。




大掃除が楽しい!




明日が終業式。


プリント類をくばって、それから大掃除をした。

なぜ、大掃除になると、子どもたちがものすごく熱くなるのだろう。

ふだんはさぼりがちな子も、いい顔をして、

「先生!こんなにきれいになった!」

ぞうきんを片手に、一生懸命にみがく。


棚をきれいにしなさい、と口をすっぱくして言い続けたことも、
今日は見事に、整理整頓される。

落し物が見つかると、それが人をつたって伝播し、その子のもとへわたる。

ふだん目に付かないところを、ここもよごれている!と拭きはじめる。

水をつかうのが楽しいのだろうか。
夏だからか。


日常と、非日常の差、か。

子どもたちをストップさせて、帰りの支度をさせるのに苦労するくらいだ。

「もっと、やりたいな~」という子どもの声に、苦笑いしながら、そうじを終える。

教室がピカピカだ。
満足げな表情がいくつも。

「窓が、もう少しだあ」

窓をきれいにするのは、かなり難しい。
でも、やりきった充実感、顔はみんな輝いている。


うれしい。
こんな学期末。

大掃除が、楽しい。
いいなあ。




「Aさせたいなら、Bと言え」




ここで思い出した。

「Aさせたいなら、Bと言え」
という本がある。

実は、小学生の時の恩師、岩下修先生が、書かれた。

保護者会で話題になったらしい。
当時、私の母親が、

「ちょっと、びっくりよ。先生が、本を出したんだって」

と言って、さっそく本屋で買ってきていた。


岩下先生の趣旨は、表現の微妙さ、メッセージを伝える上での技法、ということだったと思う。
子どもがAという現象を生み出す、その原因は、かならずB、という言い方にある、というような、限定した意味合いのものでは、まったくない。
多くの原因がある、それを構成する、多くのピースがある。
その中で、「指示の仕方」、「○○しなさい」という言い方に特化して、考察した、ということなのだ。Aさせたいなら、Bと言え。そして、しかるべき対応をできるかぎりせよ。



やせたいのなら、この薬を飲みなさい。
この薬を飲んだら、やせますよ。

という、短絡的な思考の意味合いとは、まったく異なる。
セリフをそのまま真似て、それでよし、というのではない。


当時、岩下先生はおそらく30代か。
愛知は、長野、千葉とならんで、管理教育の王国、と言われた。


おそらく、そんな情勢の中で、闘っておられたのだと思う。


体育館のステージの上で、灰色のジャージ姿で、ぴんと背筋をのばして、いい姿勢をなさっていたのを思い出す。
全校生徒が、岩下先生の立ち居振る舞いに、何らかの影響を受けていた。
体育館が、ぴりっと小気味のよい、緊張感に包まれる。

その後、音楽教育の会の歌。
チポリーノの冒険、森から森へ。
1年生から6年生まで、全身で熱狂して歌った。
地声、大声を、だんだんときれいで透き通る声にしていくのも、岩下先生の腕前だった。

ほめ上手だった。


最近、よく岩下先生を思い出す。

夏休みの前、岩下先生は、よく広島、の話をされた。
ヒロシマ。

ぴかどん。

教室で、絵本を、ずいぶんと繰り返して読み聞かせていただいた。
教師になって初めて、思い返すこともある。
先生の記憶は、貴重な、貴重な、自分自身の「財産」だ。




Bしたければ、Aをせよ




今日は靴箱をそうじする予定にしていた。
代表で6人くらいか。
早くドリルが終わった人にやってもらおう。

「靴箱をきれいにしたいと思います。でも、今、ドリルをしている人にはお願いできません。ドリルが終わってしまった人に、やってもらいたいのです」

やりたい人!と言って、だれもやらないかな、とふと思ったが、杞憂だった。
「あ、おれ行く!」と十数人の手が挙がる。

すごぉーい・・・。ホント?と思いながら、指名してやってもらう。


やり方。
最初に、ミニほうき係が、ミニほうきとちりとりを持って、細かい砂を取る。
そのあとを、最初の水拭き係が、濡れ雑巾を固く絞って、ふいていく。
次に、乾いた雑巾係が、かわいた雑巾で拭いて行く。

この3人1チーム、を結成して、横列でやっていってもらうことにした。
縦方向だと、人間同士が混雑するからだ。

そうしたら、一度も見に行かなかったが、あとで見たら、ものすごいピカピカ。
驚くほどだった。


何がよかったのか。

・・・それは、分からない。
こうかな、ということは、ある。
しかし、それはほんの、ささいな、一部のピースでしかない。


指示がよかったのか。
趣意説明がよかったのか。
事前に、カルタで遊んでいたので子どもたちの機嫌がよかったのか。
指名したのが、まじめな子だったからか。
ドリルを終わった子だけ、という限定がよかったのか。
プライドをくすぐったのがよかったのか。
やり方がよかったのか。
やり方の説明がよかったのか。
横移動がよかったのか。
中休みの前で、終わらせよう、という気になっていたのか。


答えは、一つではない。
原因は、特定の何かに、収斂されるものではない。
「靴箱が、ぴかぴかになった」という現象が起きた、その原因は、○○だから、というある一つの特定の事象に決めることができない。
Bという現象の原因を、Aだから、という一つの理由に結びつけることはできない。


この薬を飲むと、やせますよ。

Bしたければ、Aをすると、よいですよ。

Aをする、というのは、ごまんとある原因の、ある一つの要素にすぎない。
それを、Bという現象を、引き起こした、たった一つの原因、あるいは主原因だ、と決めつけることはできない。

しかし、世の中の広告の、多くは、

この薬を飲むと、やせますよ、という種類のものが多い。

すなわち、Bしたければ、Aをせよ、という類の、文句が多い。

そうではないはずだ。
Bという結果にいたるまでの、道筋は、一つではない。
それぞれのピースがうまくはまって、結果が生まれるのだ。
そのピースが、多く見える場合と、そうでない場合とがあり、だから、同じようにやったつもりでも、あらわれてくる結果が異なるのだろう。

同じ、
「上手だネエ」
というセリフにしても、
言い方、微妙にちがうはずだ。
それは、言葉、あいうえお、は同じでも、
イントネーション、情感の込め方、間の取り具合、表情、大きさ、呼吸との関係、身体の動作、その後に続くセリフ、発せられるタイミング、直前の指示、すべてが少しずつ、異なるのだ。

だから、あの人と同じように言っているはず・・・でも、ぜんぜん、違っている。


考えてみれば、当たり前のことだ。


Aをしたから、Bとなる。

すべて、世の中のことは、そんな、単純なものでは、あるまい。




学級経営「手綱をしめる」とは

初任の先生と話す機会があった。
6月の後半、そろそろ1学期のまとめに入ろうか、という時期だ。

以前、崩壊寸前の学級を任され、保護者からクレームが来て苦しんでいた同僚のことを書いた。(授業の進度が遅いというクレーム)
そのとき、

「手綱をしめる」という言葉が出た。

苦しんでいる同僚ではなく、他の初任者の言葉だった。

教師をあたかも友だちのように考えて接する子ども。
けじめのない、礼をわきまえない児童に対して、

「けじめをつけようと思って、4月の最初からぐいぐい手綱をしめてるんですよ」

ということだった。
2年生の担任で、厳しすぎるかな、と思いながらも、前年に臨時任用教諭として崩壊間際に至った苦い経験から、そうしている、と。

それを聞いた6月の下旬に感じたのは、
「そうだなあ、崩壊しないためにも、けじめをつけるためにも、手綱を締めなきゃナア」
ということだった。


ところが、昨日あたりから、どうも感覚が変わってきた。
それは、

本来、学級経営とは、あるいは子どもに対して、
「手綱を締める」
ということが、フィットしないのではないか、という感じ方だ。

この感じ方が、自分では初めてだったので、ちょっと記録しておく。


それは、たとえば集会の時の整列。
頭がふらふらしたり、おしゃべりをしていたりする子。
あるいは、しっかりと並ばないで、遅刻する。
並ぶのに時間をかける。
そういった子たちに対して、「手綱を締める」というわけだが・・・


野放しにするのではない、という意味では、それはそうだ。
注意をするし、何がふさわしい行動なのかを教える、ということもある。
立たせて、これから気をつけます、の一言くらいは言わせるだろう。

しかし、こうしたことを、「手綱を締める」というだろうか。

何か、違う気がする。

これは、当たり前のことだ。
別に、締める、でもなんでもない。
注意をして、気をつけます、と言わせたあとは、すっかり何もなかったかのように、にっこり笑って授業がスタート、だ。


ここまで書いてみて、わかった。
「手綱を締める」という表現に、こだわっていたのは、自分だ。
あたかも、怖い顔をして、つねにピリピリと注意をしている教師像を思い浮かべていたが、「手綱を締める」というのは、必要なときに、必要な指導をする、ということなのだろう。

・・・

しかし、そうであれば、教師は必ず、常に、一年中、手綱を締めているのが当然、ということになる。手綱を締めたり、ゆるめたりする、ということが、無い、「ない」、のが本当だ。

緩めることは、ゆるされない。
逆に言えば、手綱を締める、ということなど、わざわざ言う必要のないことだ。
教師として、当たり前の姿勢だからだ。


結局、手綱を締めたり緩めたりする、ということが重要なのではなく、
必要なことは注意するし、注意するとき以外は、楽しそうに授業できるのが本当なのだろう。

「手綱を締めていかないとね。とくに学年のはじめのときにはね」

という会話に、ふむふむ、とうなずいていたが、今はそれには違和感がある。

「手綱は必要なときには締めるし、そうでないときは緩める」

いや、クラス全員に対して、手綱を同時に締める、緩める、という場面も少ない気がする。

いつだって、まじめにやろうとしている子はいるだろうから。

となると、手綱、という表現自体が、違和感のあるものとなる。

一人ひとり、必要なときには注意をする。

それだけ、という気がしてきた。




採用試験面接の答え方 その3




昨日からの引き続き。
2次試験対策。
面接での答え方。(もっとよい回答もあるはず。以下は、最低限の、参考程度に・・・)


○今の教育に求められているのはどんなことですか
一人ひとりの教育的ニーズにこたえる
LD児、ADHD児、アスペルガー児への対応
発展的な学習への対応

○自閉症の児童についてどう対応しますか
個別の症状、状態をつかむ
視覚優位の児童にはその助けになるような指示を工夫
医師の診断に気をつける

○豊かな心を育むためにどんなことをしますか
受けていること、してもらっていること、に意識が向くように、声かけをしていく。
よかったね、うれしいね、ありがたいね、と共感する場面をのがさず、児童と共に豊かさをしっかりと受け取り、感じていく。
図工の鑑賞教育、物語の鑑賞、音楽の鑑賞など、鑑賞教育に力を入れる

○どんな子どもを育てたいですか
自己肯定できる児童、ナイストライで、あきらめない子ども

○あなたの長所と短所はナンですか
どんな仕事でも断ったことが無いこと、何でもためになる、
引き受けてしまってから力不足のときがある

○自分が児童のときとくらべ、今の児童についてどう思いますか
モノをよく知っている、興味の対象が広い、チャレンジする子が多いが、一方で、わかった、とすぐに言う傾向がある

○家庭教育が本来担当する躾ですが、学校はどこまで躾にかかわるべきですか
もし必要なら、ハンカチで手をどうやってふくか、から教えていくしかない

○児童生徒との信頼関係をしっかりしたものとするために、あなたはどのようなことを念頭においていますか
予定や見通しを立て、児童にもつたえる、それを守る、変更はできるだけしない、やる、と約束をしたらやれるようにしていく

○長い間休んでいた児童に、どのように対応しますか
学校に来てくれてうれしい、と伝える。体調を気にしてあげる。さりげなく身体の様子を観察する。ずっと気にしていた、見ているよ、安心してねと伝えるために、気持ちをつたえるとともに、一日の中のほめる場面を見逃さずほめていく。

○不登校の児童に対して成すべきことはナンですか
みているよ、わすれていないよ、伝えたいことがあるよ、という姿勢で、学級のことを知らせ続ける



つづく。


先日書いた、自校の教育実習生の彼。
「模擬授業も見てください」といわれて、昨年の自分の姿がフラッシュバックする。
でも、そのやる気が、一番。
丁寧に頭を下げてくる姿も好感できる。
他の、学年の先生にも見ていただけるように、できるだけ動いていきたい。




採用試験面接の答え方 その2




2次試験、面接のコツ。つづき。(その2)


○児童の気持ちをどうやって理解するのですか
観察、ともに行動する、つきあう、意図を考える、行動調査、作業員さん、養護教諭に尋ねるなど

○講師の体験から印象に残っていることを教えてください
やんちゃな男の子とはできるだけ昼休みや中休みに遊ぶようにした。サッカーの審判をしてほしい、と頼まれるようになった。子どもの真剣な表情や、仲間を励ましている姿など、ふだん見ることのできない意外な面を発見することができた。またあまり話をしない女子にもできるだけ声をかけるようにしていたところ、登校してすぐの朝の時間に必ず一言、二言の会話ができるようになっていった。こちらから、話しかけて行くことで児童に伝わる姿勢があるなと実感できた。

○どのようなクラス目標を掲げていますか
あきらめないクラス けじめのあるクラス 協力するクラス

○講師としてこれだけはやってきたぞということはありますか
不登校児への手紙、連絡、返事を大事にする

○講師として、これは成功したなということはありますか
朝のスピーチをNHKのアナウンサー風にして、「今日のニュースです」と始めさせたところ、大いに盛り上がり、朝から元気に学習をスタートすることができた。

○これまでにどんな力をつけてきましたか\t
社会人として、仕事を人と協力して進める力です。

○やってみたい授業はありますか
道徳の授業。グループエンカウンターを取り入れ、人とのかかわり方を実感を得ながら学べる授業をやってみたい。具体的には・・・

○愛知の教育プランについていかがですか
あいちの教育に関するアクションプラン、がある。
「自らの人生をたくましく切り拓き、社会に生かすことのできる人間」を育て、めざす「あいちの人間像」に迫るために、家庭・地域・学校が行う取り組みがある。私は教師という立場から、児童に確かな学力を身に付けさせるため、授業力の向上に全力を尽くす。児童の知的好奇心を刺激し、満足させることで、人生や社会に関わろうとする意欲や力を引き出すことができると考えるから。


○授業についていけない児童にどうしますか
さりげなくやれるようにしむけたい。ノートにヒントを書いてやる。机間巡視をしながら指で押さえてやる、など。簡単なことでもできることをくりかえし、できる体験を増やしていく。


○わかる授業をどう進めますか
わかったことをひとつひとつ確認して進める。確認して評価し、ほめる。
ショートステップを意識する
視聴覚機器も試す




採用試験面接の答え方 その1




教員採用試験が始まっている。
(世の中では、大分県教委の不正事件が話題になっているようだ)

もう7月中旬。
1次試験が終了し、そろそろ受験生は、2次試験の対策をとる頃だろう。



私が以前、面接の質問集として書いたものに、
「2回目の2次試験 面接のコツ」がある。

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ほめる、を考察する




ほめたら育つ、と思って、ほめている。
すると、育たない。

なぜか。

「ほめねばなりません」
「たくさんほめてください」

こういうことを、初任研でも、授業研でも、研修会議でも、いろいろと耳にしている。
なるほどな、と思う。
子どもの自信を育むのが仕事なんだから、当たり前のことだ。
しかし、子どもを本気でほめているか、しっかりほめているか。

「もっと、思い切りほめないと!」

これは、実際に、初任研の授業を見ていただいたときに、担当の方に講評していただいたときのセリフだ。

一応、ほめる、というレベルから、抜き出て、

思いっきり、ほめる、ということをしてみたい、と思った。



しかし、ほめるのだが、なにか、うわすべり。
表面だけ。
あまり、子どもに響いていない気がする。


いや、そんなことはない。
必ず、うれしいはずだ。
心に、響くものがあるはずだ!


そう思って、ほめている。


しかし、ほめても、期待した変化は訪れない。

なぜか。


行為の元、
ほめる、という行動の、原点にあるものが、何かちがうのだ。


なにかを、子どもは、かぎとる、のだ。


作為。
操作。


「なにか、オレを操作しようとしているな」

これでは、どんなほめ言葉も、通らない。

教師が、本当にそう、心の底から、そう、思わなければ・・・。




ほめる、がどうも、うまくいかない




タイトルに書いた、

「ほめる、がどうも、うまくいかない」

この発想、それ自体が、すでに思い違いだ、ということらしい。


うまくいかない、と思っていること。
つまり、代償を求めている態度、それ自体が、すでに問題。
代償を求めての行為は、代償によって消え去ってしまう。
あるいは、犠牲となり終わってしまう。


ほめるのは、目的ではない。
ほめて、子どもがうれしい顔をする。それが目的だと勘違いをする。
「子どもの笑顔」
これは、本当に魅力のある言葉だ。
だから、ころっと、だまされそうになる。
ほめて、子どもを笑顔にするのが、目的ではない。
目的は、さらに、その奥になければならない。


子どもの笑顔をみたい、となれば、体のよい言葉で、ご機嫌とる。
子どもはそんなもの、すぐに見破りますよ、です。
だから、「子どもの笑顔を見たい」なんてことでは、すぐに子どもから、「先生、もういいよ」のサインが出て、すぐに足元の穴の底へ、まっさかさま。


こんなことばかり、繰り返している気がする。

再度。
ほめるのが、目的ではない。


人の持ち味、人の、真の価値というものを、これまで、相当、見損ない、見誤ってきていると思う。
自分から見て、価値のあるように思うもののみを大事だと思い、自分の考えではつまらないように見えるものを価値が無いとずっと思ってきた。
一人の人の、子どもの価値・一つの物の真価は、自分の考えなどでははかることのできないもの。はかりしれないもの。

はかりしれない。

それを、はかろうとするから、マチガイが起きる。

はかれる、と思って、なんとかしようとして、ほめたり、叱ったり・・・。
だから、上っ面の、表面だけの、うわすべりな、ほめ言葉しか出てこないのだ。
子どもに、まったく、伝わっていかないから、

どうもへんだ、となる。

子どもは、ぜんぶ、お見通しですね。

こちらの都合よいように変えようとする。
そのことが先にあるから、ほめられない。
あわてて、ほめなきゃとなんとか形をつくるから、心にいかない。

きちんと、子どもを、見ているか。
真価を見ようとしているか。
一つの原子の中にすべてを吹き飛ばす核エネルギーの蔵されているように、一人の子、一つの物には、一つ一つが社会の主役となり得る莫大な価値を秘めている。

見損なっているから、ほめられない。
子どもを。

その子の本当の価値は、本当の持ち味は、何ができる、とか、こういう能力がある、とか、こんな特技がある、とかにとどまらないもの。
そういう価値が見えないから、

「よくできた!」

の言葉に、何か、がこもらない。

同じ

「よくできた!」
の言葉にも、
心底、なにかがこもり得る、親愛の情がみなぎる、ほめる心がそなわる時もある。

言葉、あいうえお、ではない。
言い方、ではない。


それは、私から発する、すべて。
私の存在や信条、すべてをかけて、発せられる。
それが、ほめる、ということ。


まだ、なにも、子どもが分からない。
ちっとも、分からない。
見ているが、見ていない。
見えてこない。

こんな程度で、ほめられるわけがないのだ。
しかし、ほめている。
苦しいし、子どもに見透かされながら、ほめている。
ほめたつもり。
その程度で、ほめている。

そうでもしなければ、どうしようもないからだ。
せめて、今のレベル、今の自分で、ほめていきたいからだ。
この気持ちだけ、で、ほめていく。それしかない。




自分の考えでやろうとするのか、みんなの考えでやろうとするのか




誰にも言わないで、先生にも聞かないで、保健室の絆創膏テープを、もってきてしまった子がいる。

自分が指を怪我していて、ガーゼを巻いたり、とったりしている。

そのために、ガーゼをまきつけるのに使う、テープが必要だと思ったらしい。

もちろん養護の先生がいれば、ことわっただろう。
しかし、あいにく、掃除の時間が終わったばっかりで、ちょうど、ほんの少しだけ、席をはずしていたらしい。鍵は、開いていた。

そこで、目に付くところにふと置いてあった、絆創膏が目に入る。
「これ、これ」

持ってきてしまった。


当然、叱る。

誰にも言わないで、というところを叱る。
「必ず、先生にことわってからです。勝手なことをしません。物をもってくるなど、もってのほかです。」

こういう具合に、叱ったのが、4月。
何よりも、ルールを徹底させる月だと思っていたから、こういうことも、きっちりと叱った。

「なぜ聞かないでやったのか。もう二度と、同じようなことをしないでください。勝手な行動をしません。どんなことでも自分で判断しないで、それをしてよいかどうか、事前に先生に、聞きなさい。」

それ以後、その子は、自分で判断しないで、なんでも聞いてくるような子になった。

そうなってから・・・


6月ごろから、今度はそれが、鼻につくようになった。

「それくらいのことは、人にいちいち聞かないで、自分で考えて判断して欲しい」

と言ったところ、

「どっちにしたらいいのか、はっきりしてほしい」

というようなことを、つぶやかれた。



4月は何でも人に聞けといい、6月には、自分で判断しろ、と言う。

教師は勝手だ、と。


時と場合によって、聞いてくるように言ったり、聞いてくるなと言ったりするのは、教師の側に、自分に気に入らないことがあっただけで、ずいぶん自分勝手だったなと思う。
形のないものに、本当の価値がある、と考え、そのことを大事にしているはずなのに・・・。


一人ひとり、学級の子どもたちが、もっと自分の頭で考え、行動できるようにしていきたい。
自分の考えでやらない、ということと、自分で考えない、というのは、まったくちがうことなのだ。

「みんなの考えでやっていきたい」
という心からの気持ちになりあわないかぎり、いつになっても、こうしたことは堂々巡りである。



「なんでこんなことするの!」
「この前、これが大事だと言ったばかりでしょ!」
「また、こんなことをして!」

こういうセリフはことごとく、子どもの意思に、ふみこんでいる。
子どもの心に、余計な操作をしようとしている。

子どもをしばることのない、しばりようのない、対応をしていきたい。



そのためには、教師としての力量を、あげていくしかない。
こちらの心、気持ちを鍛えていくのに、あと何年かかるか。

気が遠くなるが、さて・・・。
自分にひきつけて考えてみる。

ともかくも、今、できることを、「すべて」やっていく、ということなのだろう。




考え直すのは何回でも。やり直すのは最低限。




これでよかったか、と思っていることがある。

たとえば、席順。
あるいは、給食のやり方、そうじの当番表。

1学期が終わろうとする今、学級の様々な体制について、ふりかえることがある。

そのときに、自分なりの、考え方の癖があるように思う。

それは、

「どうしたらよいか」

と考える、ということだ。

「こうした方がいいかな。もっと○○のところを変えたら・・・」

現実には、例えば席を決めるにしても、やり方はごまんと有り、組み合わせを考えたらすごい数になろう。
だから、

「こうした方がいいかな」
と考え始めると、次々に組み合わせが思い浮かんでやまない。

結局、考え疲れてしまって、何もしないのだ。


こうしたことが、本当に多いと思う。
教師生活の中で、疲れたなあと思うことがあるが、こうした堂々巡りの思考をすることで疲れている。

この場合、

「どうしたらいいかなあ」

と考え始めたところにおかしさがある。

ふと考えてみると、そもそも、自分の描きの中に、

教室がこうなっているといいな、こうある姿がいいな、実現したいのは、こんな学級だな。

という理想像が描けているかどうか。
これがないのに、だしぬけに、「どうしたらいいか」と事象の操作ばかりやろうとする。
だから、右往左往するのだ。エネルギーを、浪費するのだろう。

「どうしたらいいか」
ではなく、
「どうあるのがよいか、どうある姿が本当か」
を考えなければならない。

これは、何回でも考えなくてはならない。
自分の中に確たるものが浮かんでくるまで。
一度、こうだと思ったとしても、次の理想がすぐに浮かんでくるのであれば、前のはホンモノではなかったことになる。

そうして、やはりこうだ、こうあるのがいい、となったら、やり直す。
やり直しは、最低限、となるのが、理想だ。




今週の一言 NewsWeek誌風に




一度、手のものを離してください。
(日直の言葉 ― 手にモノをもったまま、あいさつをする子に向かって)


聞こえなかったの?何でだまってるの?
(か細い声で話す子と、そこから一番離れている席の子に向かって)


「よ~い、スターーーート。は・じ・め」
(ノートに書き始める際の、かけ声。4秒~5秒ほどかけて、ゆっくりと言う)


「は~い、おしまーーーーい。ストップ」
(ノートに書いている最後に、作業をやめさせようとして)


「自分の心と相談中なんだから、話しかけられたら、迷惑だよ。」
(ノートに自分の考えを書いている最中、となりの子に話しかけようとする子に向かって)


もう書き終わって、十分、最後まで書いた、という人は、その文の絵をかいていてもよいです。
(国語の作文を書いた子に)


そろそろストップかけるよ。ストップかけたら、鉛筆置くんだよ。
(作文タイムを終了する間際に)


ぜひ、という人は手を挙げます。でも、手を挙げていない人もあたりますよ。ぜひ言いたい!という人は、手を挙げています。
(作文を発表する段になって)




学級経営とは迫られた問題の決断




あれこれ、といろんな問題が起きる。

昨日まで仲のよかった子が、大喧嘩して、訴えてくる。

クラスの中で、何かが無くなり、探しまわる。

怪我をする。

鼻血が出る。

全校行事の予定が変わった、と放送が流れる。

給食のおかずが一人分、不足する。

図工の作品が、だれかに蹴飛ばされる。



問題が噴出する。
連続して起きる。

同時多発する。


経営とは、迫られた問題の、決断である。

とっさに、何らかの答えをはじき出す。
それを、伝える。全体を、動かす。
決断力、が要る。

次に、その決断の内容の、適切さが問われる。



学級担任は、秘書がいない。
担任をマネジメントする、秘書の仕事も、しなければならない。
つまり、自分自身を、秘書の視点から、マネジメントする。

経営秘書の仕事は、決断に迫られてくる事柄の、抽出作業である。

何を決断すべきなのか。
決断を迫られている事柄、事象、内容とは、ナンなのか。
決断しなくてもよいこと、ほうっておいてよいこともある。
軽重がある。
今は、そのままにしておくこと、とぼけて知らんふりしておくこと、見ておく、というレベルのこともある。

見る、にもレベルがある。

見る。
ただ見る。
少し注意してみる。
ある場合にだけ、注意して見ておく。
常に注意して、観察を続ける。
・・・というように。

そこから抽出して、決断すべき事柄を、決断していくことだ。


決断する、というのが先にあって、
ふさわしさ、適切さ、はその後だ。


オレが決断する、という強い意志がないと、子どもたちの前では、ただの人形になってしまう。

子どもたちは、決断して、進めてくれる統率者を、求めている。




新採・面接での一言




7月に入った。
受験の夏が、始まろうとしている。
身近に、採用試験が間近だ、という人がいる。

いろんな相談を受けている。
今日も、ほんの少しの時間、話をしていた。

そこで、自分でも忘れかけていたことを、思い出したので書いてみる。


面接のこと。

不登校がちの児童が、ひさしぶりに登校してきたとき、あなたは学級担任として、どのような声をかけますか、という質問について。


とっさに、こう答えた。

「身体の状態や、表情や、持ち物など、できるだけ、どんな様子かを把握したいので、よく見たいと思います。その上で、とびきりの笑顔で、来てくれてうれしい、と伝えます。ひさしぶりなので、おうちではどんな過ごし方をしていたのか知りたいです。それで、髪はきちんと洗ってきているのかどうか、服はきちんとしたものか、どこかに怪我はしていないかなど、身体の様子をよく見たいと思います」


この回答が、どんな印象を与えたかはわからない。

しかし、当時、とっさによく、これだけ言えたな、と自分でも思うのだ。
というのは、今、実際に子どもたちと接していて、だんだんと、より強く、こう思うようになってきたからだ。

子どもは、言うことと実際がちがうことがある。
また、虐待など、身体のケアをまず先に、何よりも優先して行わなければならない子どももいる。
あるいは、心のケアをするために、わかりやすい、身体のケアから行う、という場合もある。
心が複雑化していて、素直に表現できない子。
中には、こちらが、相手の身体をいたわる態度を続けていくと、心をふと、開放してくれる子がいる。

いろんな場合を想定して、上記のような面接の質問に対して、児童の身体を気遣う応対というのは、かなり重要なことだと思うのだ・・・。



もう7月だ。
7月の上旬には、多くの受験生が、本番を迎えるのだろう。
ぜひ、頑張ってください。
このBLOGが、少しでも、お役に立てますように・・・。

私も、受験時代に、多くの方に励まされた。
合格した暁には、必ず、何か、返していこうと誓った。

受験生のみなさん、
ぜひ、合格して、志を成し遂げてくださいね。




採用試験の直前に




論作文は、よい見本をたくさん読み、自分の中に貯蓄するのがよい。

書店に並んでいる参考書の中には、

「こう書くのは、よくない」
という論を、これでもか、と長くたくさん並べているものがある。
これはよくない。
なぜか。
読む側に、ヒントになりにくい。

受験生は、ホンモノを知り、これで合格できる、というものに出会いたいのである。
こんなことではダメだ!という文章ばかり読まされても、

「では、何を、どう書けばよいのか?」

と、呆然とするばかりだ。

「ははあ、こんな文章ではダメなんだな」

(内心の独白・・・オレも、しょせんはこの程度。これよりもうまく書ける自信もない。だからこんな参考書を読んでいるのに・・・。この文では、C評価か・・・。おれも、おそらく、C評価なんだろうな・・・。落ちるかもな・・・。)

こんなことになっていないだろうか。

ところが驚くべし!
書店に並んでいる、
「これで合格!論作文対策!」という本の、ほとんどが、こうした類である。

ぜひ、本当に合格した人の文を読んで欲しい。



参考までに、こんな一文が、採点者のハートをつかむ!というキャッチを覚えておくとよい。

「私は、児童が何でも話せるような存在になる」

「私はすべての子どもたちに「わかる喜び」を与えたい。この考えのもと、児童の学力の向上を図るため、以下のことを実践する」

「私は、学習の本質は、学ぶ楽しさやわかる喜びを体感することにある、と考えている。」

「児童が頑張ろうとする姿に惜しみなく賞賛と励ましをおくる」

「クラスの悪い点は時に叱り正すことは必要だが、それ以上に今、児童が持っている良さややろうとする意欲に目をむけ、励まして行くことで、クラスの空気を温かみのある共感的な空気へ変えていく。」



今ふりかえると、もっと工夫できる文だと思うが、
受験当時、私が数少ない論作文添削を受けた中で、「よい」と評価された箇所を公開した。ご参考まで。

あと少し。
最後まで、あきらめずに、がんばってください!!
(はやく寝てくださいね!)




笑顔トレーニング




笑顔が足りない。

嫁にも言われた。

「その顔、笑顔が向いていないよ。そもそも、笑顔って感じじゃないもの」

この言われよう・・・。
顔を、酷評された。



今日、笑顔を意識してみました。
口角をあげ、目をほそめて、昨晩練習したように、心の中で、
「ウイスキー」と言うのです。

効果がありました!!!


Aをすると、Bとなる。
それは思い込みで、いくつかの要素のうちの、一つでしかない。
笑顔がすべてを解決する、と思いたいところだが、事実はちがう。

しかし、それくらいしか、やることがないし・・・。
せいぜい、そんな努力でもしなければ、と思う。


表情の筋肉は、そのほとんどが、口の周りの筋肉と直結しているらしい。
つまり、口の周りの筋肉を鍛えることで、ほぼ表情全体の筋肉に影響を及ぼすことができる。
言い換えれば、表情を豊かにすることができる。


早朝のラジオ、「おはよう一直線」のパーソナリティ、生島さんは、毎朝、びっくりした顔で耳を引っ張る、という運動をしているらしい。
それを、彼は、
「びっくり顔の耳ひっぱり」と言っていた。

もう7年以上前、早朝から車通勤していた時期がある。
「おはよう一直線」が、朝の楽しみであった。


よし、笑顔のトレーニングだ。
笑顔のコンテストにでも出てみようかしら。毎朝、20分早く起きて、表情トレーニングをしよう!

(つづくかしらん)




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