30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2007年10月

遠足実行委員会




遠足がある。
今年は、学年主任の先生と相談の上、遠足の実行委員会をつくることにした。
各クラス、2名の選出。
資格が要る。
クラス全員が、楽しめる遠足にするために、みんながよくなるように考えられる人。
ひとりよがりでなく、みんなが楽しい遠足を実現する為に、ルールをつくることのできる人。

やりたい人がたくさんいた。

資格が要る、ということと、自分からルールを守れる人、ということで念押しをすると、やめとく、と座る子も出た。
自分で判断したのだから、かなりすごい。
自分で自分のことを、客観的に判断したわけだ。


実行委員会で、ルールをつくった。
昼休みに集まって話し合う。それだけで、なんだか子どもたちの動きになっていく。面白い。

行き先は、水族館だ。
静かな声で話す。
他の人が水槽を見ていたら、その人のうしろ側を通る。
ゴミはかならず自分で持ち帰る。
一人で行動せず、トイレも班で行く。(今の世の中、危険なことがあるため)

絵も募集した。
遠足のしおりをつくるので、そこに載せる、カット。
紙をくばると、たちまち教卓に数点、提出がある。
次の日の朝、わたしが行く前にすでに、さらにたくさんのカットが出ていた。
すごい。


その絵を集めて、第二回目の実行委員会。

「今日は、実行委員会あるからね」
というと、なんだか嬉しそう。
ちょっと、高学年になった気分だ。

絵を見ながら、どの絵がふさわしいか、検討する。
実行委員会の児童の意見ももちろんだが、教師としても意見を出す。
大体、おおきくは意見が分かれず、集約されていく。
ていねいなものが、選ばれる。結局は、そうなるなあ。

遠足までの一週間、廊下を走らない特訓をする。
廊下を走らないでやれたら、水族館でも走らないでいけるだろう、と話したのだ。
わが校は、高学年でもまだ走っている子がいる。
走ってL字型の廊下で衝突し、前歯(永久歯)をぐらぐらさせた子もいる。
高学年の見本が、こうだ。
中学年も、そういう空気がある。その空気を、打破したい。
今のうちになんとかしないと、それが学校の雰囲気になり、さらには来年、さ来年が厳しくなる。

明日も実行委員会がある。さて、子どもたちの遠足づくりが、始まろうとしている。
児童は、それぞれ、どんな一役ができるか。
それを教師は、どう準備できるか。




運動会の絵 その5




さて、色塗りのつづき。

肌の色を塗っていき、次に、服を着せる。
たいそう服は白いが、地に、肌の色がすでに塗ってある。
だから、白色を、肌の色の上に、重ねるようにして、塗ることになる。

これの効果は、次のように現れる。
つまり、たいそう服がちょうど、土で汚れたように見える。

べつにねらったわけではなく、今回のようにやってみたら、たまたまそうなった。
白を、かなり濃く塗った子は、洗ったばかりのたいそう服の色、白、である。
あまり何も言わなかったので、それぞれの子の表現になった。

服を塗り、目、口、髪、を完成させる。

そして、背景、の順で進めた。

最初に人間、人体を完成させたのは、子どもたちの意識が、人間に集中しているうちに完成させたかったからだ。


教室の様子を見ていると、目がでかくなりそうで、こわかった。
せっかく、漫画を脱して、少女であっても、目に星がない人物が描けそうであったのだ。
ここでひきさがるわけにはいかない。
土壇場だ。ここでいきなり、「目の中にキラ星」のスタイルが復活してもらっては・・・


そこで、目を塗る際の、筆を限定した。
0号。
いちばん、細い筆、である。
これに限定。

そして、つぎの指示。
「目は、点、でいいです」

それを聞いて、少女漫画派の何人かから不満らしき声がでるが、そちらをキッとにらむと声はやんだ。
ホッとした。




英語学習法 その4




ミニマム10分の英語学習法を考え始めて、いろいろしらべてみたところ、中学生の教科書レベルの教材として、つぎの本が見つかった。

「英会話・ぜったい音読入門編」 監修/國弘正雄

中学校の教科書のCD教材を使う手もあるが、上記の本には、英語の学習法がかなり詳細に記されているようであった。

そこで、改めて、この本を購入することにした。
英語学習の方法について、なにか参考になるかもしれない、と考えたからだ。
CDもついているし、教科書会社のCD教材だと、一冊分で2000円以上するが、この本は1260円で済む。これも、気分のよいことだった。

本屋で早速購入し、さて、と考えた。
このCDを、電車の中で、どうやって聞くか。
SONYのウォークマンだろうか。
古い頭なので、こんな商品名しか浮かんでこない。

しかし、まてよ。

この教科書を、毎日、電車の中で開いて読むのか・・・。

実際の朝の風景を、思い浮かべてみた。

けっこう、混んでいるのだ。
この教科書を、取り出すだけで、ひと手間、かかってしまうな・・・。


「うーん、できるのかなあ・・・・」


ウォークマンを聞きながら、という図を想像すると、ちょっと躊躇することがあった。
それは、
1)ウォークマンを聞くのはよいが、英語学習をしている以上、ひんぱんに一時停止をするだろう、ということ。つまり、操作性が指一本で、簡単確実にできなければならないこと。
2)ウォークマンを聞きながら、片一方では、テキストつまり本を開いて、目で文字面を追わなければならない、ということ。つまり、自分の右手も左手も、本を持って開くことに使っている、ということ。

込み合う電車の中で、次の動作をすることになる。
1)かばんから本を取り出し、
2)両手で本を開き、
3)それを片手に持ち替える。
4)さらにウォークマンにスイッチを入れ、
5)聞きたい場所、聞き取り練習に該当する箇所を探し出し、
6)再生や一時停止を頻繁に操作しながら、
7)片手で(本が手から落ちないよう、指に力を入れながら)持った本のテキスト文を目で追う。

これを、(くどいようだが込み合っている)電車の中で、体勢を変えながら、行う、ということだ。



「面倒くさいなあ。挫折しそうだ」


頭の中で、黄色信号が点灯している。

おそらく、最初の3日で、めんどうでやらなくなるにちがいない。
もとのもくあみだ。
今から、容易に想像できる。
きっと、挫折するだろう。


操作が、複雑すぎるのだ。
過程をかんたんに。
もっと、シンプルに、簡便にしなければ、英語学習の夢は実現できそうも無い。


経験上、勉強するときの「ひと手間」というのは、かなりの障壁になることは分かっている。

「あ、めんどう」

と思った瞬間から、実現は一歩、遠ざかるのだ。

小学校教員資格認定試験のための、国語の勉強。
あるいは、ダンスの練習、鉄棒の練習、面接の練習。

そして、教員採用試験のための、教育法規の勉強。
あるいは、教育時事の勉強、面接の対策、実技の練習。

すべて、「あ、めんどう」であった。

ついでに思い出した。

4年間通った、通信制大学のレポート。
これらは、いかに、「めんどう、やめよ」の回路から脱するか、がテーマであった。


「めんどうだ、やめよ」とならないために、ひと手間ずつ、工夫して、削っていくのだ。
この作業が、夢の実現へ向けて、一歩ずつ、進んでいく秘訣なのだ。


しかし、どうすればいいんだ・・・・・。




英語学習法 その3




英語学習でラジオでもきいてみるか、とも思った。
しかし、ラジオ番組(NHK)のテンポで、ついていけるかどうか、自信がなかった。
毎月、テキストを買って、ついていけるのだろうか。

教員の免許を取るときのような、切実感があまりなかった。
とりあえず、今の、現実のくらしの中で、できることでやっていくしかないかな、と思った。
時間が、足りなさすぎる。

睡眠時間を削るかどうか。
体力に自信がなくなりはじめている。
翌日の授業に、差し支えたくない。

となると、やはり、朝晩の通勤時間、それも自転車をこいでいる時間以外、電車に乗っているわずかな時間だけだ。

このわずかな時間で、こなせる量。
それも、負担に感じないような、量と、リズム。
そう考えると、毎月テキストを買わなければならないような、ラジオ番組だと、気が重い。
やれる、という自信をつけてから、そちらに進みたい。
それまで、最小のハードルでよい。
それすら、やれるかどうか、ぎりぎりなのだから。


ここまで考えて、出した結論。
以下の内容を、できるかどうか、まずはやってみる。
やってみて、できそうなら続ける。できなさそうなら、さらに簡単にする。

1) テキストを読み込む。
2) テキストに準じた音声を聞きながら、くりかえし音読する。
3) そのためのテキストは中学生教科書。音声もそれに準じたもの。
4) 毎日の取り組み量は、最小。時間にして、10分程度。


これを、せまい電車内で、どうやってやるのか。
つぎは、その先を考える。
これを、どうやって実現するかを考えた。




英語学習法 その2




同僚の先生に、尋ねてみた。
語学上達のコツ、というのはあるのか。
英語をどうやって勉強したのか。

職員室で、英語勉強法を、かたはしから、尋ねて回った。

「いやあ、私もぜんぜんしゃべれませんから」

ほとんどの先生が、苦手だ、ということを言う。


ところが、先日、外国人講師の先生がいらした際に、びっくりしたことがあった。

1年生を担任している、年配の先生だ。
通りがかりにふと目に入った。

廊下で、話をしている。
外国人の先生が、あきらかににこやかに、ホッとしたような表情で話をしている。
会話は、流暢、という感じではない。
だが、その先生は、わたしがわからない言葉で、きちんと対応していた。

おお!!!ちゃんと、話している!!!

そのままなにげなく観察する。

そのうち、双方が同時に笑って、じゃあ、という感じで別れた。

すごい!!!

あんなふうに、なりたい。
少しでいい、カタコトでもいい。
せめて、日常のあいさつ、プラスα、というくらいは・・・。


そこで、その年配の先生に相談してみた。
すると。


語学を身につけるコツは、中学校の教科書だ、という。

教科書を、100回音読するのだそうだ。

見なくてもいえるくらいにする。

「つまり、暗記するってことですか?」
「うーん、暗記しようと思ってやったんじゃないんだけど・・・。結果として、覚えちゃったかな。わたしの場合は・・・」


ほほ~う。

念のため、再確認する。

「それだけ、ですか。」

「そうねえ。姪っ子の中学校の教科書を、1年生から3年生までのを、全部それやって・・・」
「ということは、3冊」

昔を思い出すような目つきで、ななめ上、天井をみながら、話をしてくれる。
「そうだね。それ3冊やって・・・、それから、ラジオ聞いたよ」

福島の出身ということなので、ラジオ、という単語の、ジ、の音にアクセントがある。

ラジオ、うーん、ありきたりだが、それが王道、ということなのか・・・。


「たまに英語の局に、カーラジオの周波数が合って、聞こえるときがあるでしょう。私の車って、それに合わせてあるのよ。聞いているうちに、天気予報くらいは分かるようになるわよ」


そういうことか・・・。
しかし、わたしは、車通勤ではない。

ふだんの生活の中で、中学校の教科書を開いてみるような時間はとれるのだろうか。語学上達のために、そんな勉強時間を、どうやってひねりだそう。


わたしにとって最適な、外国語上達の道、とは・・・。

そこを、さらに、詰めて考えた。




英語をおぼえなければ




新しい学習指導要領が登場するらしい。
どんな変容があるのか、知りたい。

職員室で、周囲の先生が、

「せっかく、総合って何か、わかりかけてきたと思ったのに」
とか、

「せっかく、生活科になじんできたところなのに」
とか、

「せっかく、五日制に身体がなじんできたところなのに」
とかおっしゃっているところに、
何がナニやら、ちんぷんかんぷんの私が、うなずきながら会話に参加している。





ともかくも、学習指導要領が変わるようだ。



そこで、いろいろと調査を試みてみた。
どうやら、英語を週一回、おしえていくことになりそうだ。

職員室では当初、

「英語ってさあ、だれが教えるの?」

という会話がとびかっていたが、それを聞いた教頭が、

「みんなだよ、みんな」

というので、みんな目をむいて、驚いた。
湯のみ片手に、給湯ポットを囲んでいる先輩たちが、声をそろえて教頭に向かい、

「英語を教えるなんて、きいてないよ~」

といっせいに叫んだのが印象的だった。


間 髪を入れず、定年間近の白髪の先生が、
「英語の免許なんて、持ってませんけど!」

と叫ぶと、職員室でほとんどの先生が、

「わたしも!!」


そこで、私は英語をマスターすることにした。
不安でたまらなくなったからである。
いてもたっても、いられなくなってきた。
英語を、いったい、どうやって教えたらよいのか。
まったく見当がつかない。

これまでの総合の時間では、たしかに英語の授業があった。
しかしそれは、市から派遣されてくる、外国人講師が、半分勝手に授業をしてみせてくれるスタイルであった。
私は、クラスの子に、ほんのちょっと指示したり、けんかの仲裁をしていればよかった。

今後は、そういうことでは、すまなくなってきそうだ。

・・・・・

私は、大学時代から、ほとんど関わっていなかった英語に、挑戦することにした。

さて、どうしたらよいのか。
どんな計画を立てていけば、よいのだろうか。




ねずみくんのチョッキ その2




私は、チョッキが発見されないことを天に祈った。


だがしかし、物語は非情である。

案の定、ねずみはゾウの着ているチョッキを発見し、飛び上がって驚く。


「うわー、ぼくのチョッキだ」



次のページは、ねずみが、自分の体のはるか何十倍にも伸びてしまい、縮まなくなった赤い紐のようなチョッキを、ずるずると引きずりながら、うなだれて帰る姿である。

せりふは一言も書かれていない。

ただ、ねずみは頭をふりふり、首を前にたれ、顔には血の気がなく、蝋で固められた人形のように頬をぴくりともさせず、唇だけをかすかに動かしながら歩くのであった。

人生の矛盾、無意味さ、虚無、といった言葉が、幼い私の脳裏をかけめぐる。
善意はうらぎられたのだ。


だが、かといって浅はかな動物たちを責めることはできない。
みんな、すばらしいチョッキに魅せられた結果、思わずとってしまった行動なのであろう。


私は、ここに登場するすべての動物たちにとって、どうすることが一番良いのかを考えた。

すべてがまるくおさまる、どこをきっても幸福になるという、すべはないものか。

ねずみの気持ちをくみ、また鵞鳥から象にいたるまで、この事件にかかわったすべての動物たちが、生きることの矛盾を感じないですむように、この障壁を知恵で乗りきることができるように、と・・・。



私は、ふるえる指で最後のページをめくった。


そこには、出版社の案内が載っていた。発行日や印刷日、製版会社や本の定価などが印刷されていた。
まごうことなく、これが最後のページなのである。
ねずみがうなだれ、人生の矛盾と悲しみを背負ってとぼとぼと歩くシーンが、今更に思い起こされた。

やはり、人生は苦しみに満ちているのか・・・!




思わず顔を上げようとした途端、私の視線の先にうつった一枚の小さな挿絵。
私は驚いてその絵を見つめた。
そこに顕されていたすべての知恵の結集に、愛の表現に、思わず頬がほころんだ。
そうだったのだ、すべてがうまくいく、知恵の働かせ方があったのだ。





涙は新しく生まれ変わった。

もはや、私の頬を伝う涙は、明るくさわやかなものだった。

読者諸兄で、このイラストをぜひ見てみたいという方は、ぜひこの小さな絵本を読んでみられたい。
動物たちが最後の土壇場に見せた、真のヒューマニズムを実感させられることは間違いのないことである。




時間のない方にだけ、こっそり。
つまり、象は、のびきったチョッキをうまく活用して、ねずみと仲良く遊んでいるのです。
どうやって遊んでいるかって?
それは読んでからのお楽しみにしておきましょう。




 
ねずみくんのチョッキ
作・なかえよしを 絵・上野紀子
ポプラ社




ねずみくんのチョッキ その1




幼い頃から冒険譚が大好きである。

ポプラ社から出ている絵本「ねずみくんのチョッキ」を読んだら、遠い記憶の過去帳がめくられたようで、当時の興奮までリアルによみがえってきた。


私はこの本を幼い頃に読み、ずいぶんハラハラドキドキしたものだ。

内容はたわいもない。

「お母さんがあんでくれたぼくのチョッキ、ぴったり似合うでしょう」
と始まり、ねずみが赤いチョッキを着て得意そうに立っている。
そこへ懇意にしている鵞鳥が訪れて、いいチョッキだから自分にも着させてくれ、といって借りようとする。

ねずみは、うん、と気軽にこたえて貸してやる。


用心深い幼児なら

「ダメだい、これ、せっかくお母さんが編んでくれたんだもの」

などと、シビアな展開を想像しがちではないかと思う。
幼児の私は当時から老人顔負けの用心深さを身につけていたもので、ページをめくりながら、このねずみのお気楽さに目を見張る思いであった。


ねずみはいともやすやすとチョッキを貸してしまう。
ここから悲劇が始まるのである。

物語は進展し、鵞鳥が「ちょっときついが似合うかな」と言いつつ嬉しがっているところへ、今度は猿が現れる。

猿は、「いいチョッキだね、ちょっと着せてよ」とさっきの鵞鳥と同じことを言いつつ、鵞鳥の着ているチョッキの袖を引っ張る。

しかし、これは、鵞鳥のチョッキではない、ねずみの物なのだ。


私は当然、鵞鳥が断るものだとばかり思った。


「ダメだい、これ、ねずみくんのチョッキなんだもの」

などと言い、所有者をはっきりさせるのかと思ったら、驚くべきことにこの鵞鳥は、うん、と気軽に貸してしまうのだった。

私は、あまりのことに驚愕して、ねずみに早く知らせなければ、と焦った。
いつの間にか、チョッキがたらいまわしにされ、他の動物たちのいいように弄ばれているのである。

私が鵞鳥の軽率さに歯ぎしりしながら次のページをめくると、もはや想像の域を越えるがごとき暗黒の展開が始まろうとしていた。

かすかに頭をかすめた嫌な予感はズバリ的中し、猿の次はアシカが、アシカの次はライオンが、という具合にねずみの所有物であるチョッキは、次から次へと第三者の手に渡されていった。
私の心臓は、ページをめくるたびに動揺し、心拍数が増し、指が震えた。

幼い私は、これほど興奮させるストーリーに、それまでめぐりあったことがなかった。
ねずみの赤いチョッキは、ライオンの次のシロウマ、シロウマの次のゾウの手にまで渡っていた。
ゾウの着たチョッキは、みるも無残に伸びてしまい、今にもちぎれんばかりの状況に陥っていた。


ねずみの不幸は火を見るよりも明らかである。


私はこのような状態を、ねずみに悟られてはならない、と思った。あまりにも軽率に鵞鳥にチョッキを貸した、そこにねずみの非はあるものの、すべては善意から起きたことである。こうした事実を知ったら、ねずみはどれほど傷つくことであろう。(つづく)




運動会の絵 その4




色塗り。

絵の具、水彩は、久しぶりだ。
子どもたちに尋ねても、あまりやったことがない、という。
低学年では、クレパスなどが中心なのだろうか?


肌の色は、何も言わないと、絵の具のチューブから、「はだいろ」を取り出そうとする。
「それは、お化粧したときの色で、本当のきみの、肌の色とはちがうね」
「うん」

それで、肌の色からつくっていく。

赤、黄色、白、だいたい、この3色でつくるが、ほんの少し、あいいろ、をまぜる時もある。

それぞれ、なっとくのいく色をつくる。
ここでのポイントは、その色を、たくさん、つくる、という量の問題だ。

というのは、だいたい、気に入った色ができたら、大方の子は、それをすぐに塗りたがる。

しかし、パレットに十分な量の「肌の色」ができあがっていないのに、すぐに塗ってしまってよいか。
すぐに、その色がパレットから、なくなってしまう。当然だ。作った量が、ほんの少し、なのだ。

それで、また一から作り始める。どうなるか。色が変わる。
極端な子だと、さきほどまではわりと白い色だったのが、いっきに茶色日焼け系の顔色にかわる。顔の半分が白人で、顔の半分が南米系、ということもある。

だから、このとき、肌の色については、たっぷり作成させる。

それで、人間の形をした部分に、ていねいに塗らせていった。
パレットでは、ちょうど、やわらかめのマヨネーズ、くらいの粘度がよい。
それを、色画用紙の上に、「のせていく」という感じだ。

ゆるすぎると、うすくなり、迫力がない。
また、濃すぎると、筆の先がすぐに乾き、パサパサになる。油彩のようになってしまう。
ちょうど真ん中くらいの粘度、つまり、「マヨネーズくらい」がちょうどよい。

さて、今日は、その人型を、それぞれ子どもが自作した、「肌の色」でぬっていく作業で終わってしまった。


子どもが集中している間は、ていねいにすすむが、集中力が切れると、とたんに、クラス全体が、フワッ、となってしまう。
かなり、ストレスがかかる。集中力が要る。
なぜなら、かなり、子どもたちにとって、なじみのない作業があるからだ。
色作り、粘度調整、穂先の使い方、画用紙にのせていく感じ、など、経験がないのだ。

子どもも、色作りだけでも、フーフー、言っている。


さて、今後、どうなっていくのだろうか。




運動会の絵 その3




ねんどを作り出して、十分。
何人か、大きな人型ができはじめた。
よしよし。

腕の細い子、頭部の異常にでかい子。
特徴が出る。
それらに小さく声かけしながら、ダイナミックに手をうごかす子をほめる。
頭のひねりだしができたことをほめる。
先生の言うことにすなおにやってみようとする姿勢をほめる。

授業終了後、見渡してみると、先ほどのキャラクター人形焼のようなねん土はほとんど見当たらない。つい、うれしくて歓声をあげてしまった。

崩さず保管するため、ねん土をテーブルに置かせた。
クラスのほとんどが、なかなか立派にやりとげることができていた。

べたぼめして、この時間は終わってしまった。


翌日、時間をやりくりして、図工の時間をつくる。
ねん土をもってこさせ、色のついた画用紙を選ばせて、下絵に挑戦させた。

目も鼻も口もなし。
服もきせない。
人間の形だけを、うすく、えんぴつで下書きさせた。

おどりをおどっているときは、腕も曲がっているし、脚も曲がるし、腰も曲がる。

ねん土では、うまく表現できた。
それなりに、人間が動いている様子が、つたわってくる作品になっている。
今度は、これを、絵に描く。

どうだろうか。

十分後、机間巡視をしていて、総じて、見えてきたことがあった。
大発見だった。
それは、



頭部が でかすぎる!


ということだ。

キャラクターの絵を描きなれているからだろうか、頭部はでかい、と思い込んでいるようだ。
身体はとてもほそく、腕や脚は、やはり綿棒のようなヒョロリ棒がついている。

「ねん土は、そんなふうに、頭が大きいかな?」

そうやって声かけをすると、

「そっか」

といって、やりなおしをするが、それがクラスのほとんど。

うーむ、といって、考えてしまった。
3年生。
目の前のねん土をみながら、その輪郭線をとる、というのは、かなり高度なことなのだろうか。難しいことを、要求しているのかな。
3年生だったら、キャラクターやお人形さんのような絵で、仕方がないのかもしれん。


「先生!できた」

と言って見せにきた子の作品を見て、

「頭が大きいように思うけど、どう。半分くらいにしたら」

「えー!頭、半分にするのー!!」

これを、あと30人、やらねばならない。
どうしたらいいのか。
やるべきか、やらないべきか。

「好きなように、しな。みんな。みんなの描く絵から、運動会の楽しい様子が伝わってくるよ。どんどん、その調子で、描いていっていいよ。バッチリ!」

といえたら、どんなに楽だろうか。

目が顔面の半分ほどであっても、これもまた個性、ということで、ほっといたらいいのだろうか。目の中に☆が宿っていても、それもまた個性。腕が綿棒でも、脚がまっすぐでも、よし、とするか・・・。

ところが、そうは言えなかった。
やらせよう、とする自分がいて、なんとかなるはず、とか、こうでないはずだ、とか、頭がでかいのだ、と心の内側で叫ぶ自分がいて、それも個性だよね!と言う勇気が出ませんでした。

悩みながら、

「だんだん人間っぽくなっているよ!」

頭を言われたとおりに半分にして描いている児童をみつけて、そう叫ぶのが関の山。




「先生、つかれた・・・」

授業後の、ある児童の感想である。




運動会の絵 その2




ところが・・・。

ねんどをこねはじめてみて10分後。
出来てきたのは、やはり、お人形さんだったのだ。

それは、細かい部品に分かれた、お人形さんだった。
ぺたん、と粘土板に貼りついた、小さな胴体。
そこに、細長い腕が、一本、くっついている。
まるで、綿棒だ。


こんなのばかりじゃあるまい、と思って、机間巡視をはじめたが、目をうたがうしかなかった。
ほとんど、こういう状態なのだった。

おまけに、器用な女の子が、得意げにせっせと人形作りをする姿を見て、隣の男の子が、
「おお!すげえ、うまいなあ!」
と感に堪えたように言うのだ。

こうするくらいしか、やったことがないのだった。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」

まず、やってみせるしかない。

そこで、いったんすべて手をとめさせ、注目を促した上で、わたしの手つきを見させた。

まず、ねんどを大きくとり、まるごと円柱状にした。

「先生、ぜんぶ使うの」

そうだ。部品が細かくなるのは、ぜんぶまるごと、ねんどを使って人間一体をつくる、ということが伝わっていなかったからだ。こちらの趣意が、ちっとも伝わっていなかったのだ。

「ぜんぶ、使います。ダイナミックな人の動きをつくりたいのです。ですから、全部、あるだけ、まるごとつかんで、こうやって一つに、まとめてからはじめます。」

「えー」(と、びっくりしたような声)

そうして、首から頭部をひねり出し、肩から腕をひねり出し、手の先をつまみ出し・・・、という具合に、やってみせた。

まず、全員がまるごと固まりの円柱状にしたのを確認し、首から頭部、とすすめていった。

(つづく)




運動会の絵




図工。

運動会の絵を描かせたい。

色のついた、八つ切り画用紙。
色を、いくつか私が選定し、それを並べて、子どもに選ばせた。

そこに、鉛筆で薄く、下絵を描かせた。

ところが、描く絵は、ことごとく、お人形さんのような絵である。
頭がやたらでかく、目がきらきらしていて、あとは棒状の、長ほそい腕と脚。
ただ突っ立っているだけの、人間。


おどりを踊った。
人間の、躍動的な、ダイナミックな動きを感じる、絵。
からだってこんなにやわらかいのか、と感じることのできるような、絵。
それを描かせたい。


どうしたらよいか。
先生方に相談し、まずは下絵からはなれて、粘土で人間をつくることにした。
粘土で立体としての人間を把握し、そこから、絵に入っていこうというのだ。

腕は腹の途中から横にニョキっと出ているのではない。
肩から、腕は出ているのだ。
そのことを、粘土づくりから、わからせたい。

脚は、棒のような、マッチ棒のような、一本のまっすぐな線であるはずがなく、丈夫な下半身があってこそ、上体がささえられているのだ、ということを、わからせたい。

そこで、粘土をこねさせた。
ここまでは、なんとかなるかも、と期待した流れだった。


ところが・・・(つづく)




2次合格の夜




ずいぶん間が空いた。
2次合格が決まり、正規採用がほぼ確定となった日は、朝から落ち着かないかというとわりとそうでもない。
授業がある。10時にはWEBで確認できるとしても、3・4時間目を終えてからでないと、という気持ちがある。

掃除の時間が終わり、お昼休みに職員室へ。
慎重にマウスをにぎり、PCに向かう。
教育委員会のWEBページから、たぐってみると、



・・・ありました。

画面の隅に。

わたしの番号が目に入りました。
採用決定です。

すぐに立ち上がって、見渡し、とっさに目に付いた教頭に報告すると、
「おお~!」という声とともに、
職員室に、パチパチという拍手がわきあがる。
そうじの時間がおわったばかりのお昼で、まだ他の先生たちは、少なかった。
お世話になった先生たちの教室まで行き、その場ですぐにお礼を言った。

みんな、わがことのように喜んでくれた。

校長先生が、握手をしてくれる。
同学年の先生が、冷蔵庫からさっそく、ケーキを出してくれる。

「今日は、お祝いだから早く帰りなよ」

年配の先生が、そう、うながしてくれる。

いいなあ、としみじみ。


これまでお世話になった人、声をかけつづけてくれた人、心配してくれた人、
親、よめさんの親、そして嫁さま。

支えてくれた人、参考書を教えてくれた人、面接官、まっていてくれた人たち。

みんなに感謝、感謝、感謝・・・。



帰宅すると、なにか、かなりうでをふるったらしき料理が並んでいて、よめがハイテンションで台所仕事をしている。そのまわりに、3歳児が、これまたハイテンションで、うろちょろしている。

長い間、おまたせしました。本当に。
そして、待っていてくれて、本当にありがとう。




運動会の打ち上げ




運動会が行われ、反省会(夜の呑み会)があった。
それぞれ、企画の運営をがんばった先生たちの、苦労バナシを改めて聞くと、みんなすごいなあ、と感心する。
学年の枠を越えて、学校全体がまとまる。
体育主任を、みんなが支える。
応援団を組織した若手が、スピーチしながら、思わず言葉に詰まる、というシーンもあった。
タイヘンなことに挑戦し、各自、その分、確実に成長している、という感じがある。

呑み会の、司会をおおせつかった。

いつもよりも、舌がまわる。

感動を共有する、というのが、素直に、気持ちよい。
みなさん、お疲れ様でした。

校長が、最後に、
「明日は休んでいいぞ。おれが全部、授業するから!」

そんなわけないにしても、なんだか校長のうれしさが、それで伝わってくる。
いい運動会ができた。
しみじみ、帰りの電車の中で、そんな感慨にふけった。

ところで、呑み会の最中に、年配の先生たちが、いろんな昔話をされる。
それにもいくつかのパターンがあって、
1)自慢話のみ
2)自慢話+若手を叱咤激励する話→俺たちはがんばっていた。お前たちも・・・
3)将来の悲観話
4)ただの笑い話
5)苦労はむくわれる、という話→おれも苦労したけど・・・

今日は、3)のタイプに付きあった。


これは、聞き捨てならない。

なぜなら、われわれ新人には、分からない範疇の話をされるからである。
新人には見えてない、領域がある。
その、見えてこないゾーンの、話をされる。

聞いているうちに、わからないながらに、なるほど、とうなずくことがある。
将来の教育界が、おかしなことにならないように、よくよく注意されよ、という
しめくくりで話がおわる。

こういう話を、ためにならぬとみるか、どうみるか。
私自身の考えでは、こういう率直な悲観論には、絶対に耳をかたむけた方がよいと思う。

今の世の中、悲観論よりも楽観論が幅をきかせていて、いくら年配の方であっても、先輩であっても、正直な実感を伴った、実際の感覚に近い、悲観論はなかなかおっしゃらない。
悲観的な話を、なかなか聞くことができない。

貴重なのである。

楽観論ばかりを耳にしている人が、将来、教育界を考えることができるだろうか。
幅の広い見方をすることはただでさえ、むずかしい。
近視的、短絡的、単純割り切りの見方は簡単だ。
しかし、全体をみわたす、ということは、よほどの鍛錬がないと、みえてこない。

だから、悲観論は聞くべきであり、一応は、そういう見方でみてみる、ということをしないといけない。
そんなことを思いながら、先輩の話をうかがっていた。




PowerPointの授業コンテンツを活用する




パワーポイントを使って、授業をすることがある。
理科などで、画像をたくさん子どもに見せたいときなどだ。
道徳の授業でも、社会の出来事を題材にするときなどは、同じ情報を共有したいから、子どもにできるだけ、生(なま)の情報をみせている。たとえば、阪神大震災などは、今の子どもたちは知らないから、資料を用意して、見せたいと思う。

パワーポイントを使って、授業用のコンテンツを作った。
自分で授業をやってみた。
子どもは、画像に反応する。大きな写真がもつ力は大きい。

授業が無事終わり、
「1年間、お蔵入りだ」
と思った。
来年、またクラスが変わったら、同じコンテンツで、授業できる。
それまで、1年間、大事にハードディスクにしまいこんでおこう。


しかし、考えてみたら、これだけ苦労して作ったコンテンツである。
自分で言うのもなんだが、なかなかよい出来栄えなのである。
1年間、しまいこんでおくのが、もったいない。

「隣の先生も、使わないかなあ」
と、ふと考えた。

そこで、仲のよい、新任の先生にもちかけてみると、
「ぜひ、使わせてください」
とのこと。
で、さっそく、コンテンツを分けてあげた。


考えてみたら、このようなコンテンツが、学校にはたくさんあるのだろう。
ただ、職員室には、そうしたソフトを共用(ともに、もちいる)ための仕組みがない。
制度的なこともそうだし、人間の頭の中身も、共用する、という意識になっていない。
著作権に関する、誤解もある。

それぞれ個々人の教師が、授業案やプランを持っている。
だから、PowerPointのコンテンツも各自が所有している。
それが当たり前だ。
各自のコンテンツを、皆の前に公開することが少ない。
少ないというより、ほとんど、ないのではないか。
もし情報が欲しかったら、誰が、どんなコンテンツを持っているのか、きいてまわるしかない。

職員室に、ファイルサーバを起動しておいて、教諭どうしが共用できる仕組みをつくれないものか。
そうしたら、それを使った職員から、もっとこうしたらいいとか、高学年向きにはこう直したらいい、などとアイデアもでるだろう。

やれば簡単なこと。
しかし、まだ、仕組みが整っていない。
理由はおそらく、PowerPointを使って授業をする教諭が、少ないからにちがいない。




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