30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2006年08月

いよいよ2学期




夏休みが終わり、2学期が始まる。

音読カードを新しくつくりなおした。
1学期のものをまた続きで使っても良かった。
だが、きちんとPCのデータになっていなかったので、ワープロで作り直した。
これで、いつでも印刷できる。

今までは、資料BOXに詰め込まれていて、一度に出てこない状態だった。
それでも、印刷しなければならなくなると、朝早くに急いで探して、間に合わせていた。
不便だ、と思いながらも、それを改良できなかった。
学期が始まると、怒涛の勢いで毎日が過ぎる。
ちょっとしたこと、ができないままで、過ぎていく。
夏休みのほんのつかの間の見直し期間。

気がついてやれてよかった。

この機会を逃したら、そのまま3学期まで、放置されていただろう。
毎日のことだから、毎週のことだから、ちょっとしたことを、システム化していきたい。




採用試験に向けて




その後、新しい年を迎え、お世話になった職場を去る準備を進めた。
臨時講師の口があり、ほぼ確定できそうだった。

いざ、そうなってみると、自分よりも周囲の人たちがスイスイと動いて、助けてくれた。
後輩もよく仕事を覚えてくれた。
また、会社の関係者からだけでなく、こちらがお世話になったお客様からも、たくさんのエールをいただいた。
ヘマもドジもやったのに・・・。
会社の人たちだけでなく、お客さんまでもが、新しい出発を祝ってくれたのだ。それが、とても嬉しかった。

3月末、仕事を終え、もう二度とくることのない門を出た。
ふりかえってみる。
研究所の新しい標柱が、夜の外灯で光っていた。
顔なじみの守衛さんが、手を振ってくれた。

終わった、という気はしなかった。
まだ、これから。

なによりも、教員採用試験がある。
これに合格しなければ、本当に本当の「安心」にたどり着くことはできない・・・。




介護体験実習に行く




私は大学を卒業していなかったので、なにはともあれ、大学を卒業することにした。
ただし、教育実習は受けなくても良い。
受けなくても、卒業に必要な単位数である125単位を取っていた。この4年間の努力がモノをいう。これで、正式に学士として認められ、卒業できるのだ。

問題は、一週間の介護体験実習であった。
一週間、会社を休んで、どこかの施設で実習をしなければならない。

まあ、でもこれは大丈夫だろう。会社をクビにはされまい。
さすがに一ヶ月はクビだが、一週間ならまだ大丈夫だ。
事前準備で、今の後輩に徹底的に仕込んでおく。
それが来春、辞めるときの布石にもなるだろう、と思った。

ちょっと離れてはいるが、デイケアサービスを行う施設に一週間通った。

一週間、介護体験ができたのは収穫だった。
見知らぬお爺さん、お婆さんとカラオケ。
お風呂から上がったら、ドライヤーで髪をとかしてあげる。
お茶や紅茶、コーヒーを用意して、お運びする。まるで喫茶店のマスターだ。

朝、エプロンをつけて、喫茶店をはじめる。次に、ゲームの相手。体操のお兄さん、風呂屋の三助・・・。
ころころと、さまざまに役どころを変えて、まさに「何でも屋」といった感じ。座るヒマのない一週間。お役に立つ、の一心でやりとげて、いい気持ちだった。

最後に、施設の公印をもらった。
これが、介護体験実習の証明になる。この証明書と必要単位の修得証明書、および卒業証明書を持参すると、一種の免許を取得できるわけだ。

おまけに、卒業に関してちょっとおめでたいことがあった。なんと、首席卒業だったのだ。

卒業式の一週間前に、大学から電話がかかってきた。

「卒業式なんですが、シュセキでした」

これが、早口だったせいもあって、こっちは誤解した。つまり、

「卒業式なんですが、シュッセキでしたか」
という、疑問文だと思った。
出席するかどうかの確認かと思い、
「ハイ」
というと、担当者はあいまいな笑い方をした。
それで、こっちもつられて笑うと、電話は切れた。

ところが卒業式に出向くと、私の席は一番前の一番左端。
さらに、担当者が私にだけ、
「賞状を入れてください」
と言いつつ、手提げ袋を渡してくれる。なんでかな、と思っていると、隣に座っていた人があんたは首席ですよ、というようなことを言うので驚いた。(なるほど、ここまで勉強すると首席になるんだな、と新しい発見をした気分だった。)

卒業式では、最初に前に呼ばれ、首席賞という特別な賞状と記念品をもらった。記念品はSEIKOの腕時計だった。

さて、免許を取得できたので、いよいよ次のステップへ行くことにした。
つまり、講師登録である。
会社を辞めて、現場で働くのだ。いよいよ!!

しかし、不安はあった。
登録をしても、かならず雇用されるか、分からないのだ。
電話で教育委員会に問い合わせをすると、
「必ず勤務できるとは決まっていませんので、ご了承ください」
とクギをさされた。このとき、今の職場を辞めていなくてよかった、と改めて感慨にふけった。

3月になって、残念ですが空きがないので、また今度・・と言われたとき、ショックを受けずにすむ。ちゃんと働く場があるからだ。一定の収入があることも心強い。仮に辞めていた場合、嫁と子を養いつつ、アルバイト代だけでしのぐのはつらかろう。

ともかくも、教育委員会で面接をして、登録をした。
晴れ晴れと教諭免状を持参した。つい先日入手できた、あの、「二種の教諭免状」である。
このときほど嬉しかったことはない。
ついに新しい世界の扉が開いた、という気分だった。

面接をしていただいた方は、これまでの道のりを様々に質問された。
そのまま正直にお答えした。

今でも振り返ると、自分であれこれと計画して進めてきたことが実を結んだことが嬉しく思う。
次の年から、近所の小学校で講師をできることになった。
嫁さんと抱き合って喜んだ。

(つづく)




一種の免許をとるためには




さて、目的の免許を取ってしまったので、大学は行かなくても良くなったかというと、
色々調べているうちにさらに次のことが分かった。

つまり、ニ種の免許を持っていれば、大学で所定の単位を修めることで、一種にグレードアップできる、というのだ。
私はほとんどその単位を取得していた。それを知って、一種への更新計画を練った。
その後、もう一度、地元の教育委員会へ尋ねてみると、

・大学を卒業して「学士」の資格を得ていること
・大学で所定の単位を修得すること
・1週間の介護体験実習を行うこと

この3つを経ることで、一種にできます、ということだった。
これをきいて、よし、いつの日か、一種にするぞ、と誓った。
わたしにも、いつか大学も卒業できる日がくるかもしれない。


ところで、教員資格認定試験に合格してから、よろこんでいるうちに、おめでたいことは続くもので、息子が誕生することになった。

まる2日間、寝ないで付き添ったおかげでくたくただったが、無事に出産。女性はえらい。
親になった実感には、深いものがあった。
はじめて、自分の生きている世の中とがっぷり四つに組んだような気持ちがした。

いろんな感慨が湧いてきた。
この子を、親父として育て上げていく。
嫁さんとも新たな関係が始まる。
おたがいに、夫婦として、さらにやっていくことがある。

赤ん坊は最初の半年くらいはおとなしかった。しかし、ハイハイし始めたと思ったら、じきにつたい歩きをするようになった。公園に連れていくと、うれしそうな顔をする。

スクーリングのない休日など、嫁さんが
「公園でも行ってきてくれない」
と疲れた顔で言うのを聞くと、連れて行ってやらないわけにいかない。
ほとんど寝ていない嫁さんの身体も心配だからだ。

嫁さんの睡眠時間を確保するために親父としてもいろいろと協力する。買い物にも行かねばならない。嫁さんの話し相手にもならないといけない。育児というのは話すことが尽きないようで、それを聞かないと怒る。
こうした結果、親父の私だって、ほとんど休む暇がない。

でも、幸運だった。
ほとんど大きな山を越えていたからだ。
卒業までに仕上げるレポートもほとんどのこっていなかったし、何よりも二種ではあったが、教員免許をもらっていた。
つまり、免許があるということは、臨時採用の講師も希望できる、ということであった。

(つづく)




認定試験対策と二種免状




試験は9月に行われる。
会場は全国の大学、6会場。
私は、横浜国立大学だった。

前もって、教員資格認定試験の試験概要を取り寄せた。
1次試験は、ほぼ学習指導要領からの問題だということが分かったので、指導要領を勉強しておいた。

残暑の厳しい、暑い日だった。
部屋はほとんど冷房がきかず、汗が出る。
きちんとネクタイをしている姿の人もいた。
さすがに、あれでは暑かろう。私はポロシャツ姿だった。1次の服装は合否に関係ないようだ。

1次のマークシート試験は、うまくパスできた。6割できれば合格ラインだ。
2次は専門の論述が試されたが、直前に図書館に通って読み込んだ本がよい本で、これも運良く合格できた。(科目は国語を選択した)
実技の鉄棒は練習しておくべきである。また、表現運動(ダンス)もしかり。
表現運動(ダンス)で、私は本番中、動いているうちに、目が回ってふらふらしてしまった。
しかし、練習を何度も繰り返していたおかげで、身体が次の動きにすぐに動いてくれた。
おかげで、60秒できちっと終わることができた。どこかでダンスの神様が助けてくれたとしか思えない。
鉄棒も、1ヶ月ほど練習した。
「前方支持回転」は、勢いをつけてまわりすぎてしまうこともあるが、勢いが足りないとまわらない。そのあたりの呼吸をつかむために、何度も練習した。これなら大丈夫、と自信がつくまでやった。

結果、2次も合格。ダンスの練習をした甲斐があった、と胸をなでおろした。

2次が合格しても、まだ終わりではない。真に免許をいただくためには、その後に催される実習で合格しなければならない。
実習は横浜の国立小学校へ見学に行く。そして、レポートや集団討論の課題をこなす。
ここで出会った同じ受験生とは、よい縁ができた。
みんな、回り道をして苦労して教師を目指している。最後の試験終了後、みんなで食事会をしたが、それぞれ情熱を語るのがとても気持ちよかった。

最終的に合格の連絡をいただき、通知が郵送されてきた。
すぐに免許取得の申請を行い、二種の免状をいただくことができた。
免状が届いた日は、すき焼きでお祝い。
嫁さんが笑顔でねぎらってくれた。

(つづく)




小学校教員資格認定試験




たまたま家のパソコンで、古いメールを読み返してみていたときだった。
以前お世話になった上司(別の人)から、試験で免許が取れる、ということを教えてもらっているのを思い出した。

そういえば、と思った瞬間、パァーッと悩みが吹き飛んだ。
霧が晴れた気がした。

それは、教員資格認定試験である。
小学校教員資格認定試験とは何か。
通常は、大学、短大、通信などで単位を満たさなければ取得できない教員免許が、試験のみで取得できるしくみだ。

受験者の資格は、高卒である、ということ。
これだけは、私はクリアしていた。

応募要項には、

「高等学校を卒業した者その他大学(短期大学及び文部科学大臣の指定する教員養成機関を含む。)に入学する資格を有する者で,平成20年4月1日における年齢が満20歳以上のもの」

とある。

試験内容は
・1次試験(一般教養、教職、各教科)
・2次試験(論述、実技、面接)
・指導の実践に関する事項にかかわる試験(実習)
とある。

これに合格すれば、教育実習を受けなくてもいいのだ。

しち面倒くさい、転職云々を考えるよりも、これに合格して免許を取得してしまおう。
そう考えた。
でも、これまで通信制でがんばってきたのはナンだったのか。
必死でスクーリングに通い、単位取得に励んできたというのに・・・。
ここがひっかかって、色々調べていくうちに、次のことが分かった。

教員には、一種免許と、二種免許がある。
通信制大学を卒業して、教育実習も受けると、ただちに一種免許がもらえる。
しかし、資格認定試験の合格者は、二種免許しかもらえない。

二種でいいや、と決めた。
二種でも、ちゃんと教壇に立てる。学級担任にもなれる。
30歳から教師を目指した身である。ぜいたくは言ってられない。
それよりも、新しい仕事に慣れるまでの苦労を想像すると、できるだけ転職はしたくなかった。

試験に合格すれば、なんといっても、今の仕事を辞めずに済む。
たしかにキツい仕事だが、生活の保障はある。
この先、何年かかるかわからない挑戦だ。
いったんでも、正規の雇用を離れるのは、不安でしかたがない。

「今の仕事の次にするのは、ぜったいに教師だぞ」
その安心感の方が大事だった。

試験に向けて、照準を合わせ始めた。
あとで考えれば考えるほど、この試験はありがたい存在であった。

ともかくも、一ヶ月間の教育実習を、受けなくて良いのだから。
「教育実習」という、サラリーマンにとっての最大の壁を、これでクリアできるのだから。

(つづく)




サラリーマンにとっての「教育実習」という壁




3年が終わったとき、単位を計算してみると、ありがたいことに順調である。
このままいけば、すべての単位を4年で取り終えることができそうだった。

しかし、問題が残っていた。
小学校の教職免許を取得するためには、教育実習へ行かなければならない。
しかも、その期間がよく分からない。実習先の小学校の都合で決まるようだ。たとえ、こちらがいくら春がいいと思っていても、希望をかなえてくれるわけではなさそうだった。

これには困った。

1ヶ月も仕事を休むことはできない。
セキュリティ担当者が1ヶ月も休めば、待っているのはクビである。
前から実習が1ヶ月間だということは、わかっていた。
それでも、仕方ない、その直前に辞めればいいだろう、というくらいしか考えていなかった。

しかし、仕事を辞めるというのは大きなことである。
辞めるというのがだんだんと身に迫ってくると、考えが変わってきた。

辞めるとは、仕事を丸投げする、ということだ。
職場の人に、多大な迷惑がかかる。
客にはどう説明をするのか。

もし、辞めないで、一ヶ月経ったら戻ってくる、ということは可能だろうか。

一週間、頭の中が、爆発しそうなくらいに、考えた。

不安材料は、いくらもある。

私が一ヶ月間、職場を離れる間。
代わりの人材をあてがうにしても、それで、これまでと同程度の水準の仕事ができるのか。
代わりの人材を育てるのに、どれだけ時間がかかるか。
その人材を育てる間の給与を、だれが払うのか。(どの企業が持つのか)
その、身代わりになってくれた人材は、私が一ヵ月後に帰ってきたら、どこへ行けばよいのか。そんな、テンポラリに動いてくれる人材など、いないではないか。


では、辞めてしまうのか。
一身上の都合で、ということで、うしろを振り向かず、後(あと)の事は会社にお任せして、「サヨナラ、お世話になりました!」と言うのか。

会社を辞めれば、もちろん、教育実習を受けられる。
すなわち、単位がしっかりもらえるから、卒業や免許取得という夢は叶う。

・・・とはいうものの・・・

これもまた、悶絶するほど、悩みが深い。

・辞めたとたん、給与が入ってこない。
・嫁さんはまだ学生である。暮らしはどうなるのか。
・実習後、どうやって稼いでいくのか。
・新しい職がすぐ見つかるだろうか、仕事に慣れるだろうか・・・。


難問だった。はて、どうするか。

たとえば、実習が9月に指定されたとする。
8月末日で会社を辞める。これは可能だ。
9月いっぱいは、給与で家賃を払える。
では、10月からはどうするのか。
教職採用試験の行われる来夏まで、どうやって食いつなぐのか。

その間、またもや新しい仕事を覚えて、やりくりしていくのだろうか。
新しいことを始めるのに、どれほどエネルギーが要るか。
一度、そのおそろしさを体験した身には、転職する、ということがとてもタイヘンなことに思えた。また、履歴書を何枚も書くのだろうか。何社も面接するのか。そんなタイヘンな思いをしながら、採用試験にチャレンジできるのだろうか。

あれこれ考えると、とても不安になる。
大学で行われた、教育実習の事前指導に参加しながら、3度目の転職を余儀なくされるぞ、どうしよう、と考え込んでしまった。

しかし、本来の目的は免許取得である。迷わず、教育実習の登録カードに記入して、提出をした。



心境的には、もう新しい仕事はやりたくなかった。
次の転職は、学校へ、の転職でありたい。
つまり、次のステージは、教師としての自分で出発したい。
この思いは、どうしようもなく、大きかった。ふっきれるほど軽いものではなかった。
なんとか、転職せずに済む方法がないだろうか。

教育実習をする期間が分からない、というのが最も気になることである。
なにしろ、数年がかりの予定を組んでいる身にとって、春なのか秋なのか、はたまた冬なのか、いつ実習があるのか分からないのがつらい。
予定帳やカレンダーにも、それが書き込めないのだ。
上司には、仕事はいつ辞めると言えば良いのか。
いくらかの貯金はあっても、仕事を辞める、というストレスには大きなものがある。
第一、採用試験に合格するのがいつになるのか、まったく見当がつかない。
アルバイト程度で食いつなぐこともできるが、この先、フリーターをずっと続けていくのはしんどい。派遣で職場を転々とするか。2年後、3年後に必ず受かる、というのであればそれまで頑張れる。しかし、なんといっても、その保証がないのだ。

「おれって、このままいって、大丈夫なのかなあ」

正直、本当に不安だった。
しかし、そこに、なんとも幸運な情報がとびこんでくる。
これには本当に感謝しないわけにいかなかった。

(つづく)





レポートを書き続けること




「新婚旅行、どこがいいと思う?オーストラリアは?」

嫁さんも最初はこんな言い方で話題を振ってきていたが、見かねてなのか、

「もう旅行、行かなくてもいいから」

と言うようになっていた。
正直、この言葉に救われた気持ちだった。

ちゃんとした教師になって、受験も合格したら、のびのびと旅行しようよ」

なんとありがたい嫁さんだろう。

レポートが返ってくると、成績がついてくる。
ほとんどAだった。
これも励みになった。
試験もほとんどAであった。
やれば結果が出るな、と思った。

勉強を10年ぶりにしていることで、ようやく頭が回転しはじめたらしい。レポートが苦でなくなってきた。それに、いろいろと知りたい、という気持ちがどんどん湧いてくる。勉強ってあんがいと面白いなあ、というのが、不思議と実感できる日々だった。

コンピューターやセキュリティのことだけやっていたら、頭がどうかなっていたかもしれない。逆に大学のさまざまな教科の勉強をしたおかげで、ちょうどよく、リラックスできていたんじゃないだろうか。

結婚式は11月、市内のレストランで、格安に行った。
地味ではあったが60人の家族や親戚、友人たちが集まり、祝ってくれた。
式の翌日、頭がふらふらしたが、玄関でいつものとおり靴を履いた。

行き先は空港でもオーストラリアでもなく、いつもと同じ職場だった。

(つづく)




目的は免許取得




「旅行になんていってる余裕ないな」

自分の代わりができる人材を育てる時間がない。
システムを自分が理解することだけで必死だったから、他の誰にも、十分に内容を伝えていなかった。
自分ならなんとかできそうなことも、それを人に伝える、というのは膨大なエネルギーが要る。
旅行に行く、と宣言すれば、そのための準備が必要だった。自分を送り出すために、自分の代わりをする人をつくらなければならない。
たとえ、旅行期間が3、4日間ほどであっても。

そろそろ結婚式を、という話を、職場の人にするかどうか迷った。
慣れない職場。周囲はみんな、コンピューターに一途な人たちばかり。別の言い方でいうと、あまりこれまでつきあったことのないタイプの人たちだった。お昼ごはんをできるだけいっしょに食べるようにしていたが、まだ結婚式に呼ぶほどの仲ではなかった。

結婚する、新婚旅行に行くつもりだ、ということがいえないまま、嫁さんと式の準備を進めた。
ドレスを選び、会場を選び、古い友達に司会進行を頼み、出席の返事を集め、としているうちに、さすがに身体がバテてきた。
ときには深夜に及ぶ機器のトラブル。
この仕事が、けっこうきついことが分かってきたが、あとの祭りだ。

それでも自分にとっての第一目的は免許取得だ、という気持ちは、ぶれることがなかった。
スクーリングも試験も、レポートも、これだけは、という気持ちで続けた。
コツは、生活をシンプルにすることだ。
部屋も整理して、余計なものをおかない。
机の上をきれいにしておく。
疲れていると、やる気になれない。
だから、最低、机の上は整理する。そして、ふとした気持ちで、とりかかれるようにしておく。
買い物をすると家に余計なものが増えるから、買い物もほとんどしなかった。

シンプルに、シンプルに。
座右の銘のように唱えながら、毎日の暮らしを淡々と進める。
こうした気持ちで机にすわれば、レポートも、少しづつ書く気になれた。

(つづく)




二足のわらじとスクーリング




式のことをいろいろと進めていくうちに、新婚旅行の話になる。
嫁さんは、ピンク色のふせんを、ブライダル雑誌のここかしこに貼り付けながら、いろいろと話をする。

けれども、これがむずかしい。
新しい職場でいつの間にか、セキュリティ担当者になっていた。
24時間、システムにおかしなことがあったり、ウイルスや攻撃があるとすぐに私の手元に電話が入る。私が担当者で本当にいいのか、と不安だらけだったが、任されてしまった。
この担当者に任じられたとき、

「旅行になんか、行ってられるのかな」
と小さな不安がちら、とよぎった。

毎日のようにトラブルが起きる。泣きそうになりながら勉強し、なんとか、ようやくのことで対処をする。
このくり返しをするうちに、大体のことなら彼がやれるだろう、ということになったようだ。
職場に来て半年ほど経ったときに、シスアドの資格やベンダー各社の資格を取ったことも、上司の気分にいくらか影響したらしい。

スクーリングもゆっくりと受けていられなくなった。
スクーリングのある土日は、緊張している。
一応、朝の時点で、何事もないことを確認する。
さらに顧客からの電話着信がないと、ホッとして、スクーリングを受けに大学へ行く。
試験の最中も、携帯が鳴らないことを念じながら受ける。
この土日が無事に終わると、本当に安堵のため息が出た。

一度、スクーリングの始まる直前に、コールが入ったことがあった。

「ウイルス騒ぎが起きているんです」
「誰かいませんか」
祈るような気持ちで聞いたが、
「それが、わかる人がいないんです」

すぐに職場に向かう、ということにして、急いで試験だけ受けた。
試験を延期すると、卒業までの緻密な計画が徐々に狂いだす。それがいやだった。
試験が終わった瞬間、ダッシュでバスに乗り、現場へ向かった。

転職したばかり、という甘い気持ちは、すぐに吹き飛んでいた。もう責任者になってしまっている。まだそれほど慣れてない気持ちもあったのに、仕事の上では一人前扱いをされていた。30過ぎれば、当然といえば当然なのかもしれないが、二足のわらじを履いた自分には、何か重たいものをしょっている気分がずっと続いた。

(つづく)




通信教育のレポートを書く




新しい職場では、元アメフト部、といった体型の大柄な先輩に受け入れてもらった。
この人は、ちゃんとしたスーツを着ているのに、背中には山登りでもするような赤いナップサックをしょって、職場に通ってくる。

さて仕事が始まると、最初の2,3日は気分よく、見学がてら、といった風。
ところがだんだんと仕事の説明を受けるに従い、とまどうことが多くなってきた。

上司の言葉に、分からない単語が出てくるのだ。

「ブラックダイアモンドからログを取って、別のサーバーにバックアップしておいて」
てなことを言われる。

「別のサーバーってナンですか」
「なんでもいいよ。そこらへんにあるの使って。ターボとかレッドハットで、自分で立ててくれる」

それに続く言葉が出てこない。意味が100%分からない。

「廊下に古いマシンがころがってるから。あれどれでも使っていいよ。一番良さそうなの選んでさ」
廊下を指さしながら、「たくさんあんだよね!アハハハ!」アメフトの先輩が豪快に笑う。
しかたなく「はははぁ」と曖昧に笑って調子を合わせていると、「じゃ!」といって本社に帰ってしまった。

オドロキのあまり、紹介者の人にそのことを言うと、
「ハハァ、きみのこと、けっこうデキる人って言っちゃったんだよねぇ。それで、いろいろとまかされるんじゃないか。まあ、イチから勉強しなおすつもりで」

イチからもなにも、まったく異世界に迷い込んでしまってる印象。しかしもう後には引けない。なんとか勉強するしかなかった。ちょっとは余裕があるかと思った給与も、システム関係の大量の本や雑誌の購入費に消えてしまうはめになった。

しかし、土日はしっかり休めた。本当の目的はこっちである。平日は夜遅くなっても、土日はしっかりと勉強しようと決めていた。レポートも、締め切りを自分で設定した。大きなカレンダーを壁一面に貼った。1年分がずらりと並ぶ。これに、自分の考えた締め切りをぜんぶ、こまかく記入した。
締め切りの2週間前には緑の線を引いた。ここまでに参考書を入手する、という意味だ。図書館でレポートの参考になりそうな本を探す。土日はどちらか一方の日で、図書館へ行くようになった。

そうこうしながらも、結婚のことは進展していた。
式の日取りも決まりつつあった。

(つづく)




またも新しい仕事へ




電話の主は、かつて世話になっていた、元上司のSさんだった。

「どう?元気でやってる?」

相変わらずの早口で、こちらの様子を心配してくれる。ありがたかった。
おまけに、ハナシの中身も、ありがたいことだった。
Sさんは最近、旧友と会う機会があった。その相手が人を探している、というのだ。
「30歳くらいで、コンピューターのことが分かる人っていうんだよね」

Sさんは、ありがたいことに私を思い出してくれたらしい。
私はほとんどコンピューターは素人だったが、前職場では予算がないため他の人をたのめず、コンピューターもシステムも、自分がなんとかしなくてはならなかった。四苦八苦しながら一応の処置をしていた私のことを、推薦してくれたのだ。

ハナシはとんとん拍子に進んだ。
紹介してくださった方と、M市の喫茶店で話した。
真っ黒な、エスプレッソ珈琲。ほとんど飲まないで話した。

仕事の内容を聞いてみると、なんだか難しいようだ。
「でも、大丈夫だと思うよ。勉強したらすぐ覚えられるから」
いろいろとハナシをきくうちに、心が動き始めた。

何よりも、職場が近くなること、そして土日が必ず休める、ということ。それに給与面も良くなる。
職場は家から歩いていける距離。
おまけに嫁さんの通う短大のすぐ近く。

「すごいじゃん!いっしょにお昼のお弁当が食べられるかもよ」

その夜、嫁さんの一言で、転職が決まった。

あいつぐ転職で、めまぐるしかったが、決心した。
何よりも、これで土日は確実に休める。
スクーリングをこなしていくことができる。
これがおぼつかなければ、4年間で免許を取得し、卒業する計画がアブナいのだ。

コールセンターの方も後から後から求人応募がくるらしく、わりとあっさりと、辞めるのを承諾してくれた。

(つづく)




スクーリングに行くために




嫁さんは元気に、まっ赤な自転車をこいで、短大に通いはじめた。

私は仕事をしながら、レポートを気にする毎日。

派遣の仕事は、F社のコールセンター。
パソコンの疑問や故障相談の、電話受付だった。
どんな仕事でもいい、と始めた仕事だったが、困ったことがあった。

それは、スクーリングのある土日が休めない、ということだった。
出勤が、シフト制。ひと月ほど前に、カレンダーに休日が示される。
平日も土日も関係なく、休みがランダムに規定されていた。
これがかなり苦労の種であった。
通信制大学のスクーリングに、予定が合わないのだ。

当初、面接では、土日は休めるはずだった。担当者は
「シフトなんで、土日も出勤があるかもしれませんが、そこは個人個人で交渉して変更可能ですから」
と言っていた。
つまり、隣の席の人と、個人的に交渉すれば、休みの日を変えてもいい、というわけだ。

実際、スクーリングの日を何度か変わってもらったが、どうしてなかなか難しい。相手も予定を立てている。やり始めてから、これがけっこう面倒だ、ということが分かった。

他に、土日休みが確定していた仕事もあった。そっちを選ぶこともできたが、通勤距離やら給与のことなんかで、ついこっちの仕事を選んでしまった。
後悔したが、もう遅い。

土日をなんとかやりくりしながら、仕事を続けていた。
すると、ある日、もとの職場の上司から、電話がかかってきた。

(つづく)




通信制大学に




まず、免許取得。

通信制大学に通うことにした。
始めてみると、ドサッと届く、教科書やレポートの課題。
これらを定期的にこなし、さらに土日には試験やスクーリングが待っている。

しかし、これしきのことで、免許がとれるならたやすいもの、と始めた。

通常、大学に通うなんて夢のまた夢だ。
でも、通信制大学ならそれがやれる。ありがたい制度だ。これを活用しない手はない。

いつでも辞められるように、と派遣の仕事に就いた。
ありがたいことに、5時、定刻に帰れる。
ある程度の給料を得つつ、夜には本を読んでレポートを仕上げる日が続いた。

そのうち、もう少し落ち着いたら、と先延ばしにしていた結婚話が出てきた。
入籍と、式をやれ、というのだ。
嫁さまの実家から、頻繁に声がかかるようになり、嫁さんもブライダル雑誌などを読み始めるようになった。その直前、
嫁さんは、私に刺激されたのか、保育士と幼稚園教諭の資格がほしい、と言い出していた。

「わたし、短大に通うわ」

びっくりした。

「29歳で、短大に通うのか?」
「そう!もう決めた」
「まわりの子はみんな、18とか19とかだよ。ついていけるか?」

通信制大学を勧めたが、私より一つ年下の嫁さんは、自分は根性無しだから、とうなずいてくれない。私の手元に届いた、膨大なレポートの紙に圧倒されたようだ。

「これだけのことを自分で計画してやっていくのは無理だから、毎日学校へ通うわ」

OL時代の貯金があるから、と豪語して、それをハタいて私立の短大に入学した。

本当は、働いて欲しかった。嫁さんの収入も当てにしていた。しかし、それが入ってこない。
私の稼ぎで、自分の学費と生活費とを捻出することになった。

ギリギリだけど、なんとかなった。

(つづく)




転職するためには




30歳で教師になろうと思ってから、最初にやることについて。

最初に、現在やっている仕事について、見直しをしなくてはいけません。
つまり、

「今の仕事を続けるのかどうか」

これが大問題。

今のままで、教師になるための準備ができるのか。
相当、悩みました。

私の場合、早朝から深夜まで、休み無し、という仕事をしていたので、到底、このままでは免許取得の勉強すらできない。
それに、小さな職場で、やることが山ほどある。
私にまかされていることが多すぎた。
さらに給料が安い。これから免許をとることを考えると、学費や受験のためにお金が必要だった。

職場では、私に代わる人を探してもらうように頼もう。
古い電算システムを全面的に変えたかったが、それをやろうとすると10年かかる。最初から、別の人にやってもらった方がいい。そう考えた。

あれこれ考えて、いい人だらけで楽しかった職場から、離れることにした。
みんな夢を応援してくれて、最後はごちそうぜめでした。
思い出すと、感謝、感謝です。

辞めてからのことを、しっかりと計画しました。
この計画を練るのに、相当な月日と、エネルギーを費やしました。

つづきはまた。




20代の先生を見ていて




30歳で結婚するのを機に、マジメに教師になろう、と決めた。
高卒だったので、「教員資格認定試験」で免許をとった。
35歳になり、講師になった。学級担任になった。

職員室で、35歳というと、若いようだが、若くない。
自分では、もう35か、という気がしている。
新卒の先生を見て、
「しっかりしているなあ」
と思う。

20代の先生をみる、そのたびに、
「自分も20代からこの世界に入っていれば」
と思う。

なにしろ、先生になってからがタイヘンだ。
勉強することが山ほどある。
今から、この高い山にのぼるのか、という感じだ。

先生になるまでに、就職、結婚、育児、免許取得、受験、と進んできて、
ようやく山を越えたか、と思った矢先、
目の前に、ものすごく高い山があった。

20代の先生をみていると、まじめにコツコツと学級経営や指導の勉強をされている。
その姿をみて、ああ、自分も20代からこの世界に入っておきたかった、と痛切に思う。
新卒の先生が、今からこのパワーで10年勉強したら、どれほど成長するだろう。
正直、うらやましい。
そして、ああもっと早く始めていれば、という思いが湧いてくる。

えっちらおっちら、35歳、子持ち、貯金無しの男が、山を登らねばならない。
1学期がようやく終わった。
めまぐるしく、なにをするにも手探りだった1学期。
毎晩、遅い帰宅で嫁さんに苦労をかけました。(いつもありがとう)

35歳なりの、山登りを始めたところです。




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