30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

2006年02月

先生は王様みたい




昼休みに児童が寄って来て、
「なんで先生はそんなに王様みたいなの?」と言った。

王様みたい?ちょ、ちょっと待って・・・。

「王様みたいって、どんなことなの?」
「いろいろとやれ!って感じ」
「ああそう~。(ちょっとショック)・・・先生の授業はいや?」
「うん。S先生の方がいい」
「ああそう~。(さらにショック)・・・先生のはどんなふうにいやなの」
「なんか威張ってる」

いやはや、ショックでした。
威張ってる、と映っているとは・・・。

笑顔が足りないのか、声を荒げたことは一度もないと自重してきたのに・・・。

こころの余裕がない、というのが、児童になにか伝わっているのでしょうか。
鏡に向かって、笑顔の練習です。




一度きりしかない、ということ




算数の授業を連続でやっている。
4クラスを、1時間ずつずれながら、順番にまわっている。
同じ単元の授業。内容もまったく同じである。
ちょっとずつ変更しながらやる。1時限目と2時限目で失敗だったな、と思うところは、3時限目から少し工夫して変えてみながらやっている。

これまで3日間、このパターンでやってきたが、1時限目から、よし、と思えることはない。
4時限目までくりかえしやってみると、いかに1時限目がわかりにくかったか、と思えてならない。

やっぱり、授業は一度では惜しい。何度も同じ授業をやってみると、すごくわかる。
児童の反応が、こんなにちがうのか、と目の覚める気がする。
発問のタイミング、指示の前にほんの一言、確認を入れる。ゆっくり言ってみる、チョークの色を変えてみる。テンポをすごく早くしてみる。繰り返してみる。いろいろ試せる。

しかし、こんな幸福な体験はほとんど今回だけである。
ふつうの担任をもって、授業をする場合は、1回目だけ、しかない。
その1回の授業で、肝心な発問を投げかけられなかったら、取り返しのつかないことになるか、あるいは相当なまた回り道が必要になる。

いや、やはり、とりかえしがつかない、というのが本当だろうと思う。
その子にとって、その単元は、この授業しか、ないのだ。

プリントのマルツケをする。
足し算と引き算を間違えている。

がっくり・・・。

ひざが折れるようなショックを味わってから、ふたたび立ち上がる。落ち込んでいる暇はない。




とっさのとき




朝の会の最中に、嘔吐した子が一人。
担任の先生が処理されている最中、保健室から次亜塩素酸のバケツを持ってきて、すぐに戻って1時間目を始めた。

しかし、算数をしている最中に、別のもう一人がトイレの前で同じく嘔吐。

担任の先生は、朝から学校へこなくて連絡の取れない児童に電話連絡をしに職員室へ行っている。現場では児童が立ったり座ったり、これはすぐになにか作業をさせなければ、と思った。

すぐに、プリントを配り、そのままトイレで処理。顔の汚れた子の顔をきれいにして、保健室へ。

トイレから保健室へ連れて行く途中で、とっさに教室をみると、なんと、朝の会で嘔吐した子が、また自分の席で嘔吐している。
とにかく保健室へひとり連れて行こうとして、保健係さんにそれを依頼。
自分はすぐに教室の中の処理を始めた。

みんなプリントが終わって、
「せんせい、プリント終わった!」と言い始めた。
どうしたらいいんだ・・・!

そのとき、担任の先生が戻ってこられた。

とっさのとき、本当の力がためされるというが、今日の場合はどうするのがいちばんよかったのか。教室の中ではいてしまった子に、すぐに手とクチを洗ってくるように伝えたが、その子は私が教室で処理している最中、ずっと寒い廊下でウロウロしていたらしい。他の先生が教えてくれた。

すぐに、「こういうときは、こうする!」と浮かんでくるようにしたい。
どうしたらいいか、と考えている時間が、もったいなかった。




ぬけていること




算数の一単元を1年生の他の先生方にまかせていただいた。
通常はほとんどT2の立場なので、自分で本格的に授業するのはひさしぶりだ。これまでは、出張だとか、病欠だとか、他の理由で先生がいらっしゃらないときだけ登場していた。

前々から予定していたので、授業案を立て、指導書も何度も読み返して授業に臨んだ。
算数の時間を、1年生の4クラスで1つずつずらして計画していただいた。1組から順に、各教室で授業していく。

頭の中は、授業のことでいっぱい。
授業をとどこおりなく、すすめていくことで。

自分なりに、さっきの時間で反応が今ひとつだった点を、少しずつ改良していった。
ポイントとなる言葉をゆっくり言ってみたり、時間運びにも気をつかった。
なんとか、ぴったりの時間で終わることはできた。

ところが、本当にぬけていたことがあった。
今日、なんどか、
「ここまでやれたかな。おとなりさんと確認してみてごらん」
という言葉を投げかけていた。

しかし、時間も半分を過ぎる頃、なんと、隣の子が休みで、一人ぼっちの子がいたのだ。
おとなりさんと確認しようにも、隣はいない。
その子は自主的に、うしろの子にみせたりして確認していたのだが、なんと教師の私は、それにだいぶ後になってしか、気付けなかった。

目に入らなかったのだ。
どこをみていたのか。

「あれ?ひとりだね」
そのときの、そうだよ、ぼくひとりだよ、という、ちょっとさびしいような不満そうな顔。

こういう基本的なことが、ぬけている。




ほめるとは何か




ほめる、を考え続けています。

それに関連するかどうか不明ですが、今日のピンポイント。

私はいつも給食は、欠席した児童の席で食べます。
すると、今日はたまたま、ものすごくおとなしい子の隣でした。

座ってみて、初めていろいろと思うことがありました。
ああ、この子とは、そんなに話してきていないなあ、ということです。

休み時間は他の先生に比べ、毎日のように外で遊んできたので、大概の子とは少なからずいろんなハナシをしてきました。しかし、ふと、今日、その子の横に座ってみると、その子とのこれまでの印象がとても少ないことに気付きました。
当初から、おとなしいな、という印象をもっていました。
それほど、話したことも、一緒に遊んだことも、なかったんだ、とちょっと驚きました。

話しかけるにしても、ネタがないのです。1対1、で、その子と私の間に、共通の話題がない、という感じでした。
このままだと、そのまま3月まで行き、終わってしまうかもな、と思うと、1年って短いんだな、毎日、話しかけなかったら、やっぱり1年間話しかけないで終わるんだな、という当たり前の事実を、あらためて受け止めなおしたのです。

それで食べながらその子をみると、やっぱり先生が横に座る、ということが珍しいことなので、ちらり、ちらり、とこちらをみながらも、給食を食べています。
前後の席の子が、なんだかんだ、と私に話しかけます。それに応答しながら、頭の中では、この子に話しかけたい、でも何を話そうか、と考えていました。

結局、ごはんおいしかった?といったような、給食のハナシと、洋服についているリスのアップリケのハナシをして、それで給食の時間が終わりました。

毎日話をしていると思っていましたが、話していない子がいた!

これだけ、接点がなければ、ほめる、ということまでもつながらないように思いました。
あるいは逆に、ほめる視点でみてこなかったから、その子を前にして、なにも言葉が出てこなかったのかもしれません。

児童に関心がなかったわけではない、と思いたいのですが、関心を寄せることが少なかった子、でした。あとのこりわずかで、どこまで気持ちを寄せられるか、です。
それにしても、150名近くの1年生、なかなか近くなれた、と思っていたら、違いました。




ほめる、ということ




ほめる、というのが難しい、と思えてきた。

自習の見回りで、静かに集中して課題を続けているクラスに行った。
なにか、ほめなくては、と思っていた。
「えらいねえ、静かにやってるねえ」と声をかけた。
教室の後ろから入り、集中した空気の中にいきなり声を出した格好になってしまった。
心地よい緊張感が、どこかこわれてしまった気がした。
あとで振り返ってみて、そう思う。

次のクラスの教室に入っても、ほめなきゃ、という観念が続いていた。
「えらいねえ」
と声をかけたが、自分の発した言葉に、気持ちが入っていないことが分かった。
「作為的なほめ行為」という感じであった。後で振り返ってみたら、そう思う。

ほめる、というのが難しく思えてきた。
えらいねえ、という、抽象的なものの言いようで、なにが子どもたちに伝わるのか。
ほめる、ということをしばらく探りたくなった。




なんで全部やっちゃうの?




掃除の時間。

今日は午後に、地域の新入生児童(現幼稚園児)と保護者の会がありました。
保護者が学校の説明会に出ている最中、新入生となる児童を、1年生のおにいちゃん、おねえちゃんたちが、けんだまや折り紙、あやとり、お絵かきなどでお世話することになっていました。

午後にこの企画があることもあり、そうじの時間をなんとか早く切り上げたい気持ちでした。
いつもそうなのですが、今日はいつもにも増して、私ががんばって教室のゴミをほうきでかき集めていました。そのとき、

「先生はなんでそんなに、ぜんぶやっちゃうの?」

ほうきをもって、やる気でいた女の子から、声がかかりました。

それまで、長い柄のほうきを、ゆっくり動かしている児童の様をみて、私の心境はこうでした。

「そんなちんたらやっていたら、ぜんぜん終わらない。私がどんどん進めてしまおう」

しかし上述のセリフをきいて、「しまった」と思いました。

もし、急いで掃除をする必要があるのであれば、そのことを児童にも伝えるべきだったかと思いました。児童もなぜ先生がそれほど急いでいるのか、意味が分かっていたなら、まったく違った感想だったかもしれません。

自分がなにを進めようとしていたのか。

ごみのない、きれいな環境で児童が過ごす、ということは一面、もっともなことです。
それと同時に、その環境を、児童が自分たちでつくろうとしている気持ちがある、それをまた伸ばしていくのも大事。
時間がないからやってしまう、というのは一見もっともな理由のようで、目的と照らし合わせれば、教師の側の都合でしかないのかも。

それよりも、なにか、自分から発しているナンらかのサインを、子どもが受け取ったのにちがいありません。
「じゃまだよ!そんなにゆっくりやってたらジャマ!」
もしかしたら、そんな雰囲気がセリフにならずとも伝わっていたのかも。

児童はそれに反応したのでしょう。
おそらく、わたしはここにいるのよ!無視しないで!という気持ちだったと思います。

児童と共に掃除をしている。
それがどういうことか。
「共に」、の中身が、どうなのか。

児童にとって、掃除の時間に教室にいる先生というのは、どう映っているのだろう。
いっしょにやってくれている先生なのか、注意するためにいる先生なのか、そうじして床をきれいにしようとナゼか必死な様子の人、でしかないのか。

目の前で柄の長いほうきを持った子。
ゆっくりと動かしながら、ごみを集めようとしている子。
ちりとりの子に、声をかけて、それをとろうとしていた子。

そこに、いきなり得意げに現れて、時間がない、と大人の都合でごみをかっさらっていってしまった邪魔な先生は、早々にクタバッてしまって、然るべきでしょう。

・・・そうじの時間だけじゃないかもしれないな・・・。おんなじようなことが・・・。




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