30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

[保護者会のネタ]思考力はどう伸ばすのか

前記事のつづき。

ではいったい、思考力はどのように伸ばすのか。
これはもう、子どもの趣味の力を伸ばすしかない。
思考の力は、ほとんど、学校の勉強というよりも、その他のジャンルで伸ばしてもらうしかないのですね。なぜなら悲しいことに今の小学校は「知識を詰め込むのでパンパン」なスケジュールになっているからです。授業はそうならないように心がけますが、実態はそうです。

授業の45分間で、さも思考しているように思えますが、実際に教室の机に座っていて思考力を伸ばすことはできません。だって鐘が鳴って46分め、の時点では思考を途中でとぎらせて、集中を終えなければなりません。3時間目は音楽だったな、音楽室へ移動、とか。トイレとか。給食とか。思考はブチ切れるのです。

正解は、ふだんから、大人が問いかけることです。
周囲の大人が、決めつけないことであり、「わかった」という態度をとらないことです。
そして、よくわからないからしらべてみよう、とひとりごとを言うことです。
たまに、子どもに問いを投げかけるのも有効ですが、その場合は注意が必要です。
「このことについて、お前はどう考えるんだ?え?どう考えるんだ?オイ!」というような調子では伸びません。自分に置き換えれば想像できると思いますが、

あ、これは気になるな、本当はいったいどういうことだろう?なぜなんだろうな。

というようなキモチというのは、他人に追い込まれて発生することはほぼ、皆無なのです。
自分がなにかを知ったときに、

あれ?じゃあこれは?

となることがほとんどで、その時のキモチは、「問いを突きつけられて、切羽詰まった」感情では生まれてこないものなのです。

これを、ある科学者は「思考力が伸びるやわらかい土壌」と呼んでいます。

この「思考力が伸びるやわらかい土壌」は、いわばまさに学習環境、成長環境ともよばれるもので、親が与えるものであります。大人は、子どもたちに環境を用意することができますから。

逆に、思考力そのものは、子どもに与えられない。

あれ、これどうなってんだろう。なんだろう?
という子どもの脳裏によぎる、ふとしたキモチは、親が与えようと思っても与えられないのが特徴で、決定的に

自発的・主体的

なのです。ここがまあ、親としてはむずかしいところですね。親は子どもに『不思議を感じる力』を与えたいのに。

せめて親が与えることのできる「思考力が伸びるやわらかい土壌」については、サポートすることができます。
子どもが「あれ?これってなんでなんだろう?」と親に聞いてきたら、これぞチャンスと興奮して「思考力を伸ばせ!もっとなぜかと問え!考えろ!」と逆上するのでなく、やわらかく

「ほんとね?なんなのかなあ?お母さんもわからないなあ。・・・図書館でしらべる?」

というように返しましょう。
なによりも、ゆっくり、落ち着いて、やわらかく、です。

また、子どものスケジュールを、ギチギチに固くしない、ということも親のできる工夫です。毎日のように習い事が入っている子がいますが、おそらくやわらかい思考力は伸ばせません。「僕知っているよ!」と鼻高々になって、知らない子を小馬鹿にする態度の増上慢になってしまうかも。ゆっくりじっくり、考えること、想像することに価値を置く子にしたいのです。知識が合っているかどうかよりも、考える過程を楽しむことの価値を知る子にしたいのです。

「そんな事も知らないの?こうなんだよ。知らないの馬鹿じゃん」
と言われたときにへこまないで、ふふふ、と笑って
「いや、あれこれと考えるのが楽しいんだよ」と、涼しい顔をして、「それにしても、なんでだろうなあー?」と返す子が強いです。

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[保護者会のネタ]子どもの何を伸ばすか

多くの親にとって気になる受験情報。
ともかくテストの点だけはみています、という父親。
「うちの子は算数はできるんです」「算数が苦手なんです」
どちらも点数だけで判断しているか、もしくは宿題のドリルの答えを見てそう言っている親がほとんどだ。

そこで、そんな親御さんたちの不安をとりのぞくために、最新情報と今後のトレンドをお話するのが定番だ。

まず、首都圏での中学入試の実態をお伝えする。
ある中学ではペーパーテストで
「落花生の表面にある網目のような模様はいったいなにか」
という問題を出した。
答えられるわけがない。なぜなら教科書には載っていないから。
ところがそのような問題が出る。
おかしいではないか?小学校の指導要領にはそのことは「学ぶべきこと」になっていないではないか。怒る親が出るかもしれない。たしかにそうで、こんなことは小学校では習わない。

しかし、これは正解はなにか、ではないのである。
ちなみに問題にはいくつかの選択肢が用意されている。
(1)小さな根、(2)水を運ぶ管、(3)表皮の裂けたあと、(4)がく、(5)葉が付いていたあとの5つ。(正解は(2)水を運ぶ管)

たまたま運のいい子を選ぶのではない。
すなわち学校としては、正解がわからないとしても、なぜそう考えたのかを知りたい、というのである。だから、解答欄がすごく広くて、おそらくこうであろう、たぶんこうではない、これとこれは以下の理由でちがう、だからおそらくこれかこれだ、などと書いてあれば努力点を与えるのです。

どうしてこんな問題にするのでしょう。
それは、「ぼくその問題、知ってるよ!(えへん)」状態を無くすためかと思います。
そうではなく、「知らないけど、考えることができるよ」を上位にしたいのですね。
AI時代だから、そんなのは検索すればすぐに答えがわかります。
でも、答えがわかることにそれほど価値をおかない時代になってきてしまっているのです。

受験の世界が変わってきている今、それでは親は子どもの何を育てようとすればいいのでしょう。

小学校のテストは変わりません。
なぜなら「知識を身につけたかどうか」ということも、相変わらず重要だからです。小学校の学習においては、「知識」の有無もすごく大事なのです。だから、テストします。
ただ、それは将来的に必要になる知的能力の、ほんとうに一部にしかなりません。

もちろん中学、高校においても、「知識」は重要で、その価値は変わりません。しかし、進学するにつれて、「知識」よりも「思考力」が問われる時代になっていきます。
また、2023年よりも2025年のほうが、そして2025年よりも2030年の方が、「知識」よりも「思考力」が問われる時代になっていくでしょう。

そうしたときに、あえて「知識」だけを聞いていく今の小学校のテストをみると、ずいぶん見方が変わるように思います。知識をみるテストは、やはり限定された一部の領域だけなのだ、という見方が広まっていくでしょう。そしてその見方は、時間が経てば経つほど、よりくっきりとしてくるのです。

テストの点は一部です。知識はほんの一部の「知的価値」だということに、今後はなっていきます。
それだけを、目標にはしないほうがいいかもしれません。

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ちなみに、落花生の表面のアミについて。
地中に潜った子房柄の先端にある受精した胚は、母株から栄養をもらうとともに、自ら土壌の栄養や水分を吸収して育ちます。地上で実る豆は莢(さや)も光合成を行いますが、地中で実る落花生はそれができないため、殻の表面にある毛根と同じ機能をもつ毛状細胞から土壌の養分・水分を吸収します。また、母株からもらう栄養は、殻の表面にある管状の組織で運ばれますが、網目模様はそのあとです。

家庭訪問がありました

勤務校が変わり、家庭訪問をすることになった。
神奈川ではとうに消滅していた文化。本当に久しぶりだ。

家を迷わないように、ゼンリンの地図をみて調べる。
https://www.its-mo.com/
これだけでもかなりの時間がかかる。
授業準備だけでもゼイゼイ息の切れる若手にとっては、たいへんな作業だろうと思う。
家庭訪問は、夏休み中に行えばよいのではないか、と思う。そのかわり、教員の研修を一切なくして・・・。そんなわけにはいかないか。研修内容は年々、増加しているくらいだもの。

さて、上記のゼンリンの地図サイトは、非常に便利だ。
なぜなら、情報がかなり新しい。
古いのはGoogleMapだ。グーグルは便利だけど、新興住宅は掲載されていない。
その点、日本の地図制作を牽引してきたゼンリンは、すぐさま情報がアップデートされる。
小学生の親は、新しい家に住んでいることも非常に多い。ゼンリンが役に立つ。

わたしはまず、住所一覧をみて、家庭訪問初日の子どもたちの住所を、
かならずまわる順番で、Googleマップに保存していく。
Googleマップは、リストがつくれるので、「家庭訪問1日め」などのリストをつくっておく。
このリストは、公開と非公開が選択できる。もちろん、「非公開」にしておく。

そして、まわる順番に、検索しては→保存 をくりかえす。
ここで、Googleマップでは検索できない住所もとうぜん、たくさん出てくる。
その場合は、ゼンリンの出番だ。ゼンリンでしらべると、地図上にでてくるので、それを覚えて、Googleマップの中でサイド検索し、その場所を保存する。

ゼンリンでは、四角い建物の形が表記されるが、Googleマップではただの空き地として表示されている。そこを、長押しクリックして、無理矢理にスポットとして保存するわけだ。

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ひとりで考え ひとと考え 最後までやりぬく子

ひとりで考え ひとと考え 最後までやりぬく子

いいでしょう、これ。

おそらく、これが次世代に文科省がかかげるスローガンになっていくだろう。
個別最適化、もうそう言っちゃってるからね。全世界に向けて。
あともどりはできないはず。

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保護者対応が難しいと評判のクラス

保護者対応が難しいと思ったことが一度もありません。
正直なところ。
おもしろい人やユニークな人はたくさんいるけど、モンスターはいない。
元来、モンスターはいないのです。

ところが、病気の人は、存在します。
もちろん、それはそう。仕方ないです。人間だもの。

で、わたしがもしかすると病気なのかも、と思う子は、こんなふうに育てられているのだろうと想像します。
1)パワハラで育てられている
2)脅されて育てられている
3)感謝を要求されている
4)服従を要求されている
5)忖度を強要されている

この5箇条。
つまり、パワハラ体質の親に育てられているのですね。
過剰な上下感覚が、そこにあるわけです。

こういう親に育てられている子は、実は友達に対しても、パワハラ気質でのぞみます。
人に対しては、そうするもの、と思っているからでしょうか。

友達に、パワハラ気質で対応する。
友達を、脅す。
友達に、感謝を要求する。
友達に、服従を要求する。
友達に、忖度を強要する。


こうなるのですね。

で、親はどう子育てしているか。
おそらく想像するに、

◯休日にどこかへ連れて行くと、感謝を要求する。
 →「子どもたちが歓声をあげ、喜んでいるフリをしないと、不機嫌になる」
 →「子どもたちがそれに気づき、わああい、たのしいな、と言うと機嫌がなおる」

◯夕食をふつうに食べていると、不機嫌になる。
 →「わああい、こんなのが食べられるなんてぼくはなんて良い家に生まれたのだろう、と言うと機嫌がなおる」

◯宿題をふつうにしていると、不機嫌になる。
 →「ぼくは他の人よりも1ページ多く努力している、と言うと、機嫌が治る」

◯野球選手になりたい、というと不機嫌になる。
 →「おかあさんがのぞむ職業に就く。だってそれが正しいんだもの、というと機嫌が治る」


まあ、こんな感じでしょうか。
もちろん、すごく大げさに書いています。
しかし、こんな要素が微塵にもあったとしたら、それで子どもの精神は破壊されます。

親が、子どもに感謝されることを期待するようになったら、それは地獄の始まりなのです。

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なわとび10回とべたら「勝った!」と叫ぶか「できた!」と叫ぶか

勝った!と叫ぶ子と、
できた!と叫ぶ子。

同じようでも違いがあり、意識の差、というものがあるようです。

なんのためになわとびをしたか、ということでしょうか。

「わあああ、とべたー」

と、自分でも目をまるくして、友達や先生を見る子。

とべなくても、ともかく笑い続ける子。

「うひゃひゃひゃ、だめやー」

軽やかに跳んでいる子の横で、くずれおちて笑っている。「あははは、跳べんわー」



必死になって跳んで、ともかくホッとしている子。

できなくて、泣きそうな子。

得意になって跳ぶ子。


このときに、

できないのはダメ、という意識が、なぜ子どもに、あるのだろうか。
ある人は、それが人間のもともと持っている意識だからだ、という。
人間は、弱肉強食で生きていくのが本能で、勝たなければ死ぬから。だから、いつの間にか、他人に負けまいとする意識が、生まれつきに人間に備わったそうだ。
本当だろうか。

周囲の大人が、どういう声掛けをしたか、どんな言葉をかけたか、で、
この子はその言葉に影響されて学習した結果、

「勝たないといけない」

と思い込むようになっただけじゃないかな。

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人生をどう生きるかを考えるステップ12

Step1 自分の原点を探しにいく
Step2 最後の日を決めれば、本当に「使える時間」が見えてくる
Step3 あなたの人生の「ストーリー」をつかむ
Step4 どう生きてきたか。どう生きているか。どう生きるか。
Step5 欲しかったものは、何だろうか? これから欲しいものは、何だろうか?
Step6 人生に影響を与えた出逢いは何だろうか?
Step7 何に歓んできただろうか? これから、何に歓びたいだろうか?
Step8 時間をかけてきたこと、お金をかけてきたことは、何だろうか?
Step9 許せないことは、何だろうか? いつ、それを許すだろうか?
Step10 後悔していることは、何だろうか?
Step11 幸せを感じるために、行動しよう
Step12 自分は、誰として生きるのか?

有名な本からの引用だが、人生をどう生きるかを考える際のポイント。

自分自身が考えることもさることながら、これらの子どもバージョンを考えたい。
すると、この上記12ステップはやはり当てはめにくい。
子どもたちは過去を振り返りにくい。
材料はあるようでも、なかなか見つけられない。
人生の残りの時間を考える、という感覚も薄い。
まだまだ人生は、はじまったばかりだ、という気持ちがフルに溢れている。
だから、やはり子ども用のバージョンを考えた方がいい。

「あなたは、なにによって、人々の記憶に残りたいですか」

これは、高学年以後なら、十分に考えられる問いだろうと思うが、どうだろう。

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「わたしは、自分を大切にしていません」

NHKスペシャルで、「731部隊」が取り上げられていた。

また、インパール作戦のことも先日、やっていた。

録画してあったその2つを続けてみて、考えたこと。




えらい人の主語が 「わたし」 でなくなってるときに、
人は、要らない事件を起こすみたいやなぁ〜。


「軍人たるものは・・・」
「部下であれば・・・」
「日本人なら・・・」
「日本男児のすることに・・・」
「男っていうのは・・・」

こういう言い方をするときの目は、宙をさまよう。
自信がなく、虚勢を張っているように見える。

怒った時の感情の処理の場面で、この言い方がよく出る。

本当の自分の意志、自分自身を大切にできなかったから、
そのことが心の裏で分かるから、自分の心に勢いを駆るしかなくなる。

それで、大声(おおごえ)になってしまうのかな。

冷静でいられなくなることの原因は、たぶん、それ。


「他の軍人もみな・・・」
「相手は匪賊で」
「陸軍としては」

この時、「個人」は、すっぽりと抜けている。




「軍人」・・・も、
「日本人」・・・も、
「日本男児」・・・も、
「男」・・・ってのも、

みんな、わたし自身の実際とは、つながっていない。
くっつけようとした、というだけの『言葉』。



「わたしは、いやだと思った」
「わたしは、とてもできないと思った」
「わたしは、泣いた」

こういうことは、戦争を終えて、
心に余裕ができてから、はじめて言えたこと。

「わたし」が主語になる間は、平和な時代だ、ということ。



自分を大事にしなかったときの、言葉の癖は、よく見える。
平和な時には、それが見える。

つまり、主語が「わたし」以外になってしまう、ということは、
「わたしは、自分を大切にしていません」ということを、
だれかに気付いてほしくて、言外ににおわせているのかも。

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高市早苗さんを擁護する

.
高市早苗さんに、果物を贈ろう。
今なら、おいしいイチゴがとれる。

おいしい、腹が満たされる、
心まで満たされる、本当に手づくりの、心のこもったおいしいものを
贈ってあげたい。



冷たい声をかけるのではない。

あたたかく、あたたかく、じわーっと、

こころを溶かすように、接することだと思う。


美味しそうに、心づくしのイチゴをほおばる高市早苗さんを想像してみよう。

そして、イチゴの甘酸っぱい味に目を閉じて、頬をほころばせ、それから、
やさしい笑みを浮かべて、

嘆息まじりに遠くの山の緑を眺め、
静かな、静かな時間を過ごす、

そんな高市早苗を想像してみよう。




責めるのは、もう、やめよう。

悪い人ではない。





小学校でも、居場所が無くなるくらい、子どもを叱ることは、ない。
きちんと、逃げ道を用意する。

2度、3度、とくりかえして、反省の色が見えない子にも、やはり、次の道は用意する。

子どもだから、というのではないよ。
人だから。

ひと、人間、にんげんだもの。
心の底から悪い人間なんていないので。




高市早苗さんは、 「やせ馬に、荷が勝ちすぎた」ケースでしょうか。


愛されなかった犬は、この世を恐れてよく吠える。
見かけの強さを欲する。

「愛」を知らないからこそ、「力」にあこがれてしまう。
この理屈は単純でしょ?


見かけだけの、分かりやすいものに、惹かれてしまう、という、その意味は
みんな、だれしも、よく分かることだ。

心が不安でいっぱいだったら誰でもそうなる。

高市早苗が人生を通して、幼い頃からずっと抱きつづけてきた大きな不安に焦点を当てずして、解決することは何もないだろう。

「もし、一切の怖れが無かったなら、あなたの願いは何?」

高市早苗に、聞いてみないと。




愛とは何?

何よりも、彼女が国民の声を聴く、という姿勢になるのは、

周りからの愛を、自分が愛されていることを、
きちんと理解してから、だと思う。



高市早苗さんの政治的な思い(思考の癖)を覆させるのは、おそらく無理でしょう。

高市さんの頭の中の、ことなので。

しかし、もともと同じ人間。
お互いを理解しあうことで、お互い「人の心」を、「人の心」にもどすのは、案外、できる話かもしれない。




みんなで、おいしい果物を贈ろう。自民党に贈ろう。

高市早苗さんに贈ろう。

そんな気分になった、選挙間近の夜。

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ついカッとなって、〇〇しちゃった、という表現

よく聞く、「つい、カッとなって」、というやつ。

こんなの、よく表現できたなあ、と感心してたら、ハッと気づいた。

これ、自分で考えた表現じゃないわ。どっかで、読んだり、聞いたりしてるわ。





ためしに、身近な人間に、

「ねえねえ、ついカッとなって、〇〇しちゃった、という表現あるでしょう?」

と聞いて回った。

「その表現って、言うことある?これまで、言ったことある?」

すると、みんな、

「あるよ」

と言う。



そこで、

「その、ついカッとなって〇〇しちゃう、みたいな文章って、自分で考えたの?」

と聞くと、

「いいや。どっかで聞いたり、読んだりしたのだと思う」




つまり、この、

「つい、カッとなって、〇〇しちゃう」

という文章表現って、どこの誰が考えたかしらんけど、

長きにわたって、日本の中で、ずいぶん流行し、使われてきた、ということらしい。

流行語大賞がとれる!


これ、表現、とか言い方、という問題ではないな。

頭に来たときの感情の処理の方法なんだ。

頭にきたら、何かに当たる、というの。

「そうするものだ」と、刷り込んでる。

その「刷り込み」が、具体的に、後々の世代へと、

きちんと受け継がれて行っている、ということ。

まさに、『言霊(ことだま)』、と言っていいレベルで。



つい、カッとなったら、数える、という人はあまりいない。

というのは、日本語ではまだ、

「この間、ついカッとなってしまって、数を数えたよ」

という文章表現が、人々の人口に膾炙してないからだ。



一度、日本人全員で、流行させてみたらいいと思うね。

別なパターンを。

カッとなったら、

数える、とか、散歩する、とか、甘いもの食べる、とか。

そしたら、

「ついカッとして、〇〇しちゃった」というのが、ふつうである、
と思い込んでいたところに、ちょっとした変化が起きる・・・かも。




我々は、ふだん使われてきた日常のフレーズから、

言霊にあやつられるようにして、

「これが当たり前だ」 「これが男(女)らしいのだ」 「これがあるべき姿だ」 というように、

これが正しい、とされる感情表出と感情処理の仕方を、学んできているようだ。


いったん、そこをぶちこわすのが、これからの道徳教育、ということになっていくだろうネ。

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