前記事のつづき。
ではいったい、思考力はどのように伸ばすのか。
これはもう、子どもの趣味の力を伸ばすしかない。
思考の力は、ほとんど、学校の勉強というよりも、その他のジャンルで伸ばしてもらうしかないのですね。なぜなら悲しいことに今の小学校は「知識を詰め込むのでパンパン」なスケジュールになっているからです。授業はそうならないように心がけますが、実態はそうです。
授業の45分間で、さも思考しているように思えますが、実際に教室の机に座っていて思考力を伸ばすことはできません。だって鐘が鳴って46分め、の時点では思考を途中でとぎらせて、集中を終えなければなりません。3時間目は音楽だったな、音楽室へ移動、とか。トイレとか。給食とか。思考はブチ切れるのです。
正解は、ふだんから、大人が問いかけることです。
周囲の大人が、決めつけないことであり、「わかった」という態度をとらないことです。
そして、よくわからないからしらべてみよう、とひとりごとを言うことです。
たまに、子どもに問いを投げかけるのも有効ですが、その場合は注意が必要です。
「このことについて、お前はどう考えるんだ?え?どう考えるんだ?オイ!」というような調子では伸びません。自分に置き換えれば想像できると思いますが、
あ、これは気になるな、本当はいったいどういうことだろう?なぜなんだろうな。
というようなキモチというのは、他人に追い込まれて発生することはほぼ、皆無なのです。
自分がなにかを知ったときに、
あれ?じゃあこれは?
となることがほとんどで、その時のキモチは、「問いを突きつけられて、切羽詰まった」感情では生まれてこないものなのです。
これを、ある科学者は「思考力が伸びるやわらかい土壌」と呼んでいます。
この「思考力が伸びるやわらかい土壌」は、いわばまさに学習環境、成長環境ともよばれるもので、親が与えるものであります。大人は、子どもたちに環境を用意することができますから。
逆に、思考力そのものは、子どもに与えられない。
あれ、これどうなってんだろう。なんだろう?
という子どもの脳裏によぎる、ふとしたキモチは、親が与えようと思っても与えられないのが特徴で、決定的に
自発的・主体的
なのです。ここがまあ、親としてはむずかしいところですね。親は子どもに『不思議を感じる力』を与えたいのに。
せめて親が与えることのできる「思考力が伸びるやわらかい土壌」については、サポートすることができます。
子どもが「あれ?これってなんでなんだろう?」と親に聞いてきたら、これぞチャンスと興奮して「思考力を伸ばせ!もっとなぜかと問え!考えろ!」と逆上するのでなく、やわらかく
「ほんとね?なんなのかなあ?お母さんもわからないなあ。・・・図書館でしらべる?」
というように返しましょう。
なによりも、ゆっくり、落ち着いて、やわらかく、です。
また、子どものスケジュールを、ギチギチに固くしない、ということも親のできる工夫です。毎日のように習い事が入っている子がいますが、おそらくやわらかい思考力は伸ばせません。「僕知っているよ!」と鼻高々になって、知らない子を小馬鹿にする態度の増上慢になってしまうかも。ゆっくりじっくり、考えること、想像することに価値を置く子にしたいのです。知識が合っているかどうかよりも、考える過程を楽しむことの価値を知る子にしたいのです。
「そんな事も知らないの?こうなんだよ。知らないの馬鹿じゃん」
と言われたときにへこまないで、ふふふ、と笑って
「いや、あれこれと考えるのが楽しいんだよ」と、涼しい顔をして、「それにしても、なんでだろうなあー?」と返す子が強いです。
ではいったい、思考力はどのように伸ばすのか。
これはもう、子どもの趣味の力を伸ばすしかない。
思考の力は、ほとんど、学校の勉強というよりも、その他のジャンルで伸ばしてもらうしかないのですね。なぜなら悲しいことに今の小学校は「知識を詰め込むのでパンパン」なスケジュールになっているからです。授業はそうならないように心がけますが、実態はそうです。
授業の45分間で、さも思考しているように思えますが、実際に教室の机に座っていて思考力を伸ばすことはできません。だって鐘が鳴って46分め、の時点では思考を途中でとぎらせて、集中を終えなければなりません。3時間目は音楽だったな、音楽室へ移動、とか。トイレとか。給食とか。思考はブチ切れるのです。
正解は、ふだんから、大人が問いかけることです。
周囲の大人が、決めつけないことであり、「わかった」という態度をとらないことです。
そして、よくわからないからしらべてみよう、とひとりごとを言うことです。
たまに、子どもに問いを投げかけるのも有効ですが、その場合は注意が必要です。
「このことについて、お前はどう考えるんだ?え?どう考えるんだ?オイ!」というような調子では伸びません。自分に置き換えれば想像できると思いますが、
あ、これは気になるな、本当はいったいどういうことだろう?なぜなんだろうな。
というようなキモチというのは、他人に追い込まれて発生することはほぼ、皆無なのです。
自分がなにかを知ったときに、
あれ?じゃあこれは?
となることがほとんどで、その時のキモチは、「問いを突きつけられて、切羽詰まった」感情では生まれてこないものなのです。
これを、ある科学者は「思考力が伸びるやわらかい土壌」と呼んでいます。
この「思考力が伸びるやわらかい土壌」は、いわばまさに学習環境、成長環境ともよばれるもので、親が与えるものであります。大人は、子どもたちに環境を用意することができますから。
逆に、思考力そのものは、子どもに与えられない。
あれ、これどうなってんだろう。なんだろう?
という子どもの脳裏によぎる、ふとしたキモチは、親が与えようと思っても与えられないのが特徴で、決定的に
自発的・主体的
なのです。ここがまあ、親としてはむずかしいところですね。親は子どもに『不思議を感じる力』を与えたいのに。
せめて親が与えることのできる「思考力が伸びるやわらかい土壌」については、サポートすることができます。
子どもが「あれ?これってなんでなんだろう?」と親に聞いてきたら、これぞチャンスと興奮して「思考力を伸ばせ!もっとなぜかと問え!考えろ!」と逆上するのでなく、やわらかく
「ほんとね?なんなのかなあ?お母さんもわからないなあ。・・・図書館でしらべる?」
というように返しましょう。
なによりも、ゆっくり、落ち着いて、やわらかく、です。
また、子どものスケジュールを、ギチギチに固くしない、ということも親のできる工夫です。毎日のように習い事が入っている子がいますが、おそらくやわらかい思考力は伸ばせません。「僕知っているよ!」と鼻高々になって、知らない子を小馬鹿にする態度の増上慢になってしまうかも。ゆっくりじっくり、考えること、想像することに価値を置く子にしたいのです。知識が合っているかどうかよりも、考える過程を楽しむことの価値を知る子にしたいのです。
「そんな事も知らないの?こうなんだよ。知らないの馬鹿じゃん」
と言われたときにへこまないで、ふふふ、と笑って
「いや、あれこれと考えるのが楽しいんだよ」と、涼しい顔をして、「それにしても、なんでだろうなあー?」と返す子が強いです。