20年弱の間、教員を続けてきた中で、キレる子に何人も出会ってきた。
人間は、キレる場合がある。
いろいろな場合があるだろうが、共通点は何かということについて記しておきたい。
結論を言うと、ヒトがキレるとき。それは、抽象的な思考が苦手なときだということ。
我々が一番難しいのは、自分自身を客観視することであろうと思う。今自分が周りからはどう受け止められているのか。これを想像する事は我々にとって、かなり困難なことなのだ。
客観視ができるようになるためのステップはあるのか。
たとえば、「自分について話をしてもらう」ということがある。
今、自分はどういう状態なのか。できるだけ詳しく話してもらう。
ところが、キレるときにはこれができない。
くわしく話すことは、なかなかできないのです。
自分がどういう状態なのか、気分はどうか、なにがしたいのか、なにをしようとしていたのか、逆に相手に何をしてほしかったのか、など。
こういう話ができる子は、そもそもあまりキレない。
キレる子どものほとんどが、「話せない」という印象だ。
そこでもあえて、話をしてもらおうとすると、きまってある表情になることが多い。
それは、目がトロンとしてくる、ということ。
友達をなぐって鼻血を出させてしまった子に、
「どんなことが起きたの?」
「なにをしていたらケンカになったの?」
事象について話してもらう。これはなんとか話せる。
朝起きて、ふとんをたたんで、パジャマを着替えて・・・のように順番に、昔話や童話のように話してもらえばいいからだ。
「あなたはなにをしようとしていたの?」
「どうしたかったの?」
希望についてはどうか。
だんだんと話しにくくなるけれど、「こうしたかった」までは、ひとまず言える。ここでもう言えなくなる子もいますが、多くの場合、このレベルまでは言えます。
ところが、
「その(こうしたかった)という気持ちは相手には伝わってたと思う?」
と尋ねると、徐々に目がトロンとして、無表情に近づいていく。
相手に自分の気持ちを伝える、というような選択肢は、彼の辞書には無いからだ。
さらに、
「なぐったらどうなった?」
ときくと、目が点になっている。
目の焦点が合わなくなる。
自分の行動がもたらした影響については、考えられないようだ。
最後に、
「なぐるというのは、あなたがたしたかったこと?」
ときくと、無表情になり、くちびるが開き、放心したような顔つきになる。
これはほとんどの「キレる子」は、こうなる。
なぐる、蹴る、というのは、脊髄反射のような行動で、そこに「抽象性」はまったくない。
・自分がそこに見えた相手の言動をどう受け止めたか。
・自分はそこで何がしたかったのか。
・相手は自分の意図や希望をどう受け止めたか。
・殴る、という選択肢以外の行動は、あっただろうか。
・殴る、という選択を取ると、本来の希望はかなえられそうか。
・殴ったあとに、どんな影響が残りそうか。
・友達を殴った場合、自分にはどんないいことがありそうか。
ありとあらゆる面で、「自分の状態を話す」ができない。
これは、インプットではなく、決定的にアウトプットが足りないのだろうと思います。
アウトプットは、人間がふつうに生きているだけでは体験できまへん。
なぜなら、人間はふつうに暮らしているだけだと、
インプット寄り
になってしまうからですね。
だまって「見る」「聞く」ばかりやっています。
テレビを見るのもスマホを眺めるのも、車を運転していても、電車に乗っていても、景色をみていても、ぜんぶインプット寄りのことが多いです。
子どもも同じです。インプットが多いのです。
学校では、算数の答えをアウトプットしますが、自分自身についてはなかなかアウトプットするチャンスがない。
自分は今どう感じ、どう考えたのか。
自分は何を希望しているのか。どうしたいのか。相手にどうしてほしいのか。
それをアウトプットしないと、結局は、「自分がどういう人間なのか」も見えてこないでしょう。
キャリアパスポートなんて書けやしないです。ふだんからアウトプットを大量にしていなければ。
すぐにキレてしまい、友達を殴る子の共通項は、
「自分のことについての正直なアウトプットが決定的に少ない、経験値が低すぎる」
ということですナ。(これを読んで、アウトプットさせよう、と頑張ったあげく、急に問い詰めたり、なんで?なんで?と詰問したり・・・しないようにしましょう。そんな先生はいないと思うけど)
人間は、キレる場合がある。
いろいろな場合があるだろうが、共通点は何かということについて記しておきたい。
結論を言うと、ヒトがキレるとき。それは、抽象的な思考が苦手なときだということ。
我々が一番難しいのは、自分自身を客観視することであろうと思う。今自分が周りからはどう受け止められているのか。これを想像する事は我々にとって、かなり困難なことなのだ。
客観視ができるようになるためのステップはあるのか。
たとえば、「自分について話をしてもらう」ということがある。
今、自分はどういう状態なのか。できるだけ詳しく話してもらう。
ところが、キレるときにはこれができない。
くわしく話すことは、なかなかできないのです。
自分がどういう状態なのか、気分はどうか、なにがしたいのか、なにをしようとしていたのか、逆に相手に何をしてほしかったのか、など。
こういう話ができる子は、そもそもあまりキレない。
キレる子どものほとんどが、「話せない」という印象だ。
そこでもあえて、話をしてもらおうとすると、きまってある表情になることが多い。
それは、目がトロンとしてくる、ということ。
友達をなぐって鼻血を出させてしまった子に、
「どんなことが起きたの?」
「なにをしていたらケンカになったの?」
事象について話してもらう。これはなんとか話せる。
朝起きて、ふとんをたたんで、パジャマを着替えて・・・のように順番に、昔話や童話のように話してもらえばいいからだ。
「あなたはなにをしようとしていたの?」
「どうしたかったの?」
希望についてはどうか。
だんだんと話しにくくなるけれど、「こうしたかった」までは、ひとまず言える。ここでもう言えなくなる子もいますが、多くの場合、このレベルまでは言えます。
ところが、
「その(こうしたかった)という気持ちは相手には伝わってたと思う?」
と尋ねると、徐々に目がトロンとして、無表情に近づいていく。
相手に自分の気持ちを伝える、というような選択肢は、彼の辞書には無いからだ。
さらに、
「なぐったらどうなった?」
ときくと、目が点になっている。
目の焦点が合わなくなる。
自分の行動がもたらした影響については、考えられないようだ。
最後に、
「なぐるというのは、あなたがたしたかったこと?」
ときくと、無表情になり、くちびるが開き、放心したような顔つきになる。
これはほとんどの「キレる子」は、こうなる。
なぐる、蹴る、というのは、脊髄反射のような行動で、そこに「抽象性」はまったくない。
・自分がそこに見えた相手の言動をどう受け止めたか。
・自分はそこで何がしたかったのか。
・相手は自分の意図や希望をどう受け止めたか。
・殴る、という選択肢以外の行動は、あっただろうか。
・殴る、という選択を取ると、本来の希望はかなえられそうか。
・殴ったあとに、どんな影響が残りそうか。
・友達を殴った場合、自分にはどんないいことがありそうか。
ありとあらゆる面で、「自分の状態を話す」ができない。
これは、インプットではなく、決定的にアウトプットが足りないのだろうと思います。
アウトプットは、人間がふつうに生きているだけでは体験できまへん。
なぜなら、人間はふつうに暮らしているだけだと、
インプット寄り
になってしまうからですね。
だまって「見る」「聞く」ばかりやっています。
テレビを見るのもスマホを眺めるのも、車を運転していても、電車に乗っていても、景色をみていても、ぜんぶインプット寄りのことが多いです。
子どもも同じです。インプットが多いのです。
学校では、算数の答えをアウトプットしますが、自分自身についてはなかなかアウトプットするチャンスがない。
自分は今どう感じ、どう考えたのか。
自分は何を希望しているのか。どうしたいのか。相手にどうしてほしいのか。
それをアウトプットしないと、結局は、「自分がどういう人間なのか」も見えてこないでしょう。
キャリアパスポートなんて書けやしないです。ふだんからアウトプットを大量にしていなければ。
すぐにキレてしまい、友達を殴る子の共通項は、
「自分のことについての正直なアウトプットが決定的に少ない、経験値が低すぎる」
ということですナ。(これを読んで、アウトプットさせよう、と頑張ったあげく、急に問い詰めたり、なんで?なんで?と詰問したり・・・しないようにしましょう。そんな先生はいないと思うけど)