30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

部活動の雰囲気、というものについて


琉球日報のニュース。

高校生16人は、部活動の顧問からの執拗(しつよう)な叱責(しっせき)を受けた運動部男子生徒が自死したことをきっかけに設けられた検討委員会の委員。7校22人が部活動の意義や課題、悩みを出し合いながら部活動のあるべき姿、目指す方向性を考え、2月に半嶺満県教育長に提言していた。

小学校でも同様のことを感じている。
つまり、友達に対して信じられない暴言を吐く子どもの多くが(全員ではもちろんない)、部活やスポーツクラブなどに所属し、コーチや先生たちから暴言を受けているということ。

以前、考えられないほど友達に対して暴言を吐く子がおり、どうしてかと不思議に思っていた。すると隣のクラスの先生が「Yくんはサッカークラブですね。校内でも同じクラブに所属している子のほとんどが暴言をよく言いますが・・・」と、その関連について話してくれたことがある。
わたしは最初、そんなに簡単で単純な因果関係はないだろう、A=B、という安易な関連付けはうのみにするべきではないし、暴言をしたくなる理由はもっと多岐にわたるものであり、妥当ではなさそうだ、と考えた。今でも、単純にそんなふうに決めつけることはできないと思う。

しかし、心理学では「暴言を受けるなど差別を経験した人が、差別をする側にまわる」ということはすでにデータとして「非常によくある」というふうに説明されるわけで、叱責、暴言を受ける子が今度は他を責め始める、というのは、人間の心の動きとしては妥当だ、と考えてよいと思う。

こういうふうに考えると、いっそのこと一度部活というものを、強制的に学校から失くしてみる、というのも手としてはアリか、と考えてもみたくなる。

ゼロから考えれば、やりたい気持ちの子たちが「どんな部活にしたいか、だれにコーチをお願いしたいか」ということから考え始める子が出てくるかもしれない。そもそも「自分はそもそも、部活を本当にしたいのだろうか」ということも含め、考え直すのはいいことだろうと思う。

案外と、部活がなくても日本社会はなんとかなっていく、というのがあるかもしれない。
部活がなくて暇になった挙句、探求心旺盛な子たちは、夏休みの自由研究のようなことをたくさんたくさん、非常にたくさん、活発にすごく活発に、やって夢中になっていく子もでるかもしれないし、おそらくハーバード大学やパリ大学、ケンブリッジ大などに行く子も、そういうなかから輩出されてくるでしょう。

部活のコーチがどういう感じなのかは、それこそ千差万別で、非常に心優しく、子どもの実態やそのままの姿に無理なく接してくださる方も多いでしょう。
ところが中には、おそらく日本全体でみるとほんのわずかでしょうが、居丈高、というか、パワハラまがいの言動を行う方もまだいるようです。わたしはこういう態度をとる方の多くは、実際には子どもの前で自信がもてないでいる、実は「悩み多き指導者」なのではないかと思っています。

コーネル大学のダニングと、その弟子のクルーガーは、次のような調査をはじめ、長年、人の認知についての研究を重ね、「能力が低い人ほど、自分自身を客観視する『メタ認知』ができていない。そのため、自分の未熟さや他人のスキルの高さを正しく認識できず、自分を過大評価する傾向がある人ほど、相手を見くだし、偉そうな態度をとる傾向が強い」と報告しています。

 これを「ダニング=クルーガー効果」といいます。

パワハラ的な態度をとる人って、ほとんどがコレに該当するのではないかな。

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キレる子どもには、日ごろから問いかけよ

20年弱の間、教員を続けてきた中で、キレる子に何人も出会ってきた。

人間は、キレる場合がある。
いろいろな場合があるだろうが、共通点は何かということについて記しておきたい。

結論を言うと、ヒトがキレるとき。それは、抽象的な思考が苦手なときだということ。
我々が一番難しいのは、自分自身を客観視することであろうと思う。今自分が周りからはどう受け止められているのか。これを想像する事は我々にとって、かなり困難なことなのだ。


客観視ができるようになるためのステップはあるのか。
たとえば、「自分について話をしてもらう」ということがある。
今、自分はどういう状態なのか。できるだけ詳しく話してもらう。

ところが、キレるときにはこれができない。
くわしく話すことは、なかなかできないのです。
自分がどういう状態なのか、気分はどうか、なにがしたいのか、なにをしようとしていたのか、逆に相手に何をしてほしかったのか、など。
こういう話ができる子は、そもそもあまりキレない。
キレる子どものほとんどが、「話せない」という印象だ。

そこでもあえて、話をしてもらおうとすると、きまってある表情になることが多い。
それは、目がトロンとしてくる、ということ。

友達をなぐって鼻血を出させてしまった子に、

「どんなことが起きたの?」
「なにをしていたらケンカになったの?」

事象について話してもらう。これはなんとか話せる。
朝起きて、ふとんをたたんで、パジャマを着替えて・・・のように順番に、昔話や童話のように話してもらえばいいからだ。

「あなたはなにをしようとしていたの?」
「どうしたかったの?」
希望についてはどうか。
だんだんと話しにくくなるけれど、「こうしたかった」までは、ひとまず言える。ここでもう言えなくなる子もいますが、多くの場合、このレベルまでは言えます。

ところが、
「その(こうしたかった)という気持ちは相手には伝わってたと思う?」
と尋ねると、徐々に目がトロンとして、無表情に近づいていく。
相手に自分の気持ちを伝える、というような選択肢は、彼の辞書には無いからだ。

さらに、
「なぐったらどうなった?」
ときくと、目が点になっている。
目の焦点が合わなくなる。
自分の行動がもたらした影響については、考えられないようだ。

最後に、
「なぐるというのは、あなたがたしたかったこと?」
ときくと、無表情になり、くちびるが開き、放心したような顔つきになる。
これはほとんどの「キレる子」は、こうなる。

なぐる、蹴る、というのは、脊髄反射のような行動で、そこに「抽象性」はまったくない。

・自分がそこに見えた相手の言動をどう受け止めたか。
・自分はそこで何がしたかったのか。
・相手は自分の意図や希望をどう受け止めたか。
・殴る、という選択肢以外の行動は、あっただろうか。
・殴る、という選択を取ると、本来の希望はかなえられそうか。
・殴ったあとに、どんな影響が残りそうか。
・友達を殴った場合、自分にはどんないいことがありそうか。

ありとあらゆる面で、「自分の状態を話す」ができない。

これは、インプットではなく、決定的にアウトプットが足りないのだろうと思います。

アウトプットは、人間がふつうに生きているだけでは体験できまへん。
なぜなら、人間はふつうに暮らしているだけだと、

インプット寄り

になってしまうからですね。
だまって「見る」「聞く」ばかりやっています。
テレビを見るのもスマホを眺めるのも、車を運転していても、電車に乗っていても、景色をみていても、ぜんぶインプット寄りのことが多いです。

子どもも同じです。インプットが多いのです。
学校では、算数の答えをアウトプットしますが、自分自身についてはなかなかアウトプットするチャンスがない。

自分は今どう感じ、どう考えたのか。
自分は何を希望しているのか。どうしたいのか。相手にどうしてほしいのか。

それをアウトプットしないと、結局は、「自分がどういう人間なのか」も見えてこないでしょう。
キャリアパスポートなんて書けやしないです。ふだんからアウトプットを大量にしていなければ。

すぐにキレてしまい、友達を殴る子の共通項は、

「自分のことについての正直なアウトプットが決定的に少ない、経験値が低すぎる」

ということですナ。(これを読んで、アウトプットさせよう、と頑張ったあげく、急に問い詰めたり、なんで?なんで?と詰問したり・・・しないようにしましょう。そんな先生はいないと思うけど)

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主体性は、どういう場面で(その2)

前回のつづき。 小学生であれば、
1)何を学習するつもりかを聞く(九九の何の段をやるのか聞く)
2)どの程度それがやれそうなのかを聞く(自信のレベルを聞く)
3)不安な点があるかどうかを確認する(不安点を補強してサポート・いっしょに練習)
4)テストする(確認する)
5)やってみてどうだったかを聞く(自信をもってやれたかどうか、聞く)
6)これをやっているとどんないいことがありそうかを聞く(8の段が言えるとどんないいことがある?)
7)この方法でやっていくので良いかを確認する(今の練習の仕方でよさそう?)
8)次はどうする?(明日は何の段を練習したい?)

とまあ、こんなふうに自分の計画を立てるようにとおぜん立てをしましょう。
その子は笑顔で私の元から去り、待たせていた友達と遊びに出かけますが、こうやって書いてみると、驚いたことにわたしはその子に質問してばかりです。
つまり、わたしは「教えてない」のです。

学校の先生というのは、教えるのが仕事だ、と。
たしかにそういう面もあるかもしれませんが、多くの場合は教えるよりも「問いかける」が仕事の中心を占めているのだろうと思います。

教室、という呼び方は、令和になったのでそろそろ変更する段階です。
しらべたら、明治からだそうですよ、「教室」なんて呼び出したのは。
自分が自分で自分の学び方を構築して計画を進める部屋なので、多くの場合、この部屋は「教室では無い」と思いますね。
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主体性は、どういう場面で喚起できるのか その1

今年度、3年生の担任をしています。
2年生の時に、九九をしっかりと覚えられていないために、復習をしている子がクラスに5、6人います。
九九の練習を始めるときに、こちらが何の段をやりますと言う指示はしていません。子ども自身が、「今日は何の段をやる」と言うのに合わせて練習を聞いています。

また、始める前に、今日はどんな調子と言うのも軽く聞きますね。
自信はあるの?と聞くと、昨日練習したからばっちりという子もいれば、逆に「うーん、多分間違えると思う・・・」と正直に言う子もいて面白いです。


この問答をしている時間が、大事だと思うのです。
もっといえば、これが教師の役割だろうと考えます。
子どもは、このように尋ねられると、自分の学習状況や、自分の進度、定着率、これまでの努力はどうだったか、取り組みの姿勢はどうかなど、自分のことを考えるので。←ここに意味がある。

教師は、トレーニングをさせる、わけではないですね。
トレーニングを自ら行っている子どもに問いかけることで、そのトレーニングは有効か、もっと工夫できそうか、努力の程度はどうか、その努力が実りそうか、ということをさらに考えられるように、そっと手伝うのが、本来の業務なのでありましょう。

教師がやれ、と命令するから九九をやる子の姿は、そこにはありません。
もし最初のスタートがそうであったとしても、こういう問答を繰り返しながら、彼らが自ら望んで方法を変更したり、模索したり、九九が何の役に立ちそうかと考えたりなど、子どもが主体的に進んでいく方向へと舵を切り直していくのです。

ぼくはがんばったから聞いて!
というふうに来たら、
それはすごい、よくがんばってるねえ、効果が出てきてるねえ、良かったねえ、と一緒に喜びます。
もしもそうでなくて、
「8の段、ぜんぜん言えない気がする・・・」と小さな声で言ってきたら、
あそう、どこなら言えそう?と細かく問い返して、
8×1、8×2はokだけど、8×3を「ハッサン、シジュウニ」と言っちゃいそう、という不安の個所を細分化していきます。

「あそうなの。じゃあ、ぜんぶ8の段はダメ、というのでなくて、そこが不安なのね」
と、問題をさらに分類して整理していきましょう。

このあたりは、赤ちゃんに小さなおさじで、細かくしたものを食べさせたことがあれば、容易にイメージがわくと思います。つまり、一度にたくさんは無理なのです。細かくすればいい。

8×3をいっしょに10回唱えてみて、今度は自分だけで5回だけ唱えてもらって、自信がでたら8×1から8×5までをテストします。合格したらその日は喜びあいましょう。

とにかくやれ、と発破をかけるやり方も、あるにはあるでしょうが、今の子には向いていないことが多いでしょう。また、小学生であれば、細かく事情を聴き、どんな風に進めるとよさそうか、尋ねてみるといいですね。案外と、「こうやれば覚えられそう」ということを、自分で言ってくれますから。

PL学園のような高校の野球部で甲子園をめざしているならば、
「コラ!千本ノックじゃ!」
11111

と上からのパワハラ系の指導も有効なのかもしれませんが(見たことが無いので知らないですが。

[保護者会のネタ]思考力はどう伸ばすのか

前記事のつづき。

ではいったい、思考力はどのように伸ばすのか。
これはもう、子どもの趣味の力を伸ばすしかない。
思考の力は、ほとんど、学校の勉強というよりも、その他のジャンルで伸ばしてもらうしかないのですね。なぜなら悲しいことに今の小学校は「知識を詰め込むのでパンパン」なスケジュールになっているからです。授業はそうならないように心がけますが、実態はそうです。

授業の45分間で、さも思考しているように思えますが、実際に教室の机に座っていて思考力を伸ばすことはできません。だって鐘が鳴って46分め、の時点では思考を途中でとぎらせて、集中を終えなければなりません。3時間目は音楽だったな、音楽室へ移動、とか。トイレとか。給食とか。思考はブチ切れるのです。

正解は、ふだんから、大人が問いかけることです。
周囲の大人が、決めつけないことであり、「わかった」という態度をとらないことです。
そして、よくわからないからしらべてみよう、とひとりごとを言うことです。
たまに、子どもに問いを投げかけるのも有効ですが、その場合は注意が必要です。
「このことについて、お前はどう考えるんだ?え?どう考えるんだ?オイ!」というような調子では伸びません。自分に置き換えれば想像できると思いますが、

あ、これは気になるな、本当はいったいどういうことだろう?なぜなんだろうな。

というようなキモチというのは、他人に追い込まれて発生することはほぼ、皆無なのです。
自分がなにかを知ったときに、

あれ?じゃあこれは?

となることがほとんどで、その時のキモチは、「問いを突きつけられて、切羽詰まった」感情では生まれてこないものなのです。

これを、ある科学者は「思考力が伸びるやわらかい土壌」と呼んでいます。

この「思考力が伸びるやわらかい土壌」は、いわばまさに学習環境、成長環境ともよばれるもので、親が与えるものであります。大人は、子どもたちに環境を用意することができますから。

逆に、思考力そのものは、子どもに与えられない。

あれ、これどうなってんだろう。なんだろう?
という子どもの脳裏によぎる、ふとしたキモチは、親が与えようと思っても与えられないのが特徴で、決定的に

自発的・主体的

なのです。ここがまあ、親としてはむずかしいところですね。親は子どもに『不思議を感じる力』を与えたいのに。

せめて親が与えることのできる「思考力が伸びるやわらかい土壌」については、サポートすることができます。
子どもが「あれ?これってなんでなんだろう?」と親に聞いてきたら、これぞチャンスと興奮して「思考力を伸ばせ!もっとなぜかと問え!考えろ!」と逆上するのでなく、やわらかく

「ほんとね?なんなのかなあ?お母さんもわからないなあ。・・・図書館でしらべる?」

というように返しましょう。
なによりも、ゆっくり、落ち着いて、やわらかく、です。

また、子どものスケジュールを、ギチギチに固くしない、ということも親のできる工夫です。毎日のように習い事が入っている子がいますが、おそらくやわらかい思考力は伸ばせません。「僕知っているよ!」と鼻高々になって、知らない子を小馬鹿にする態度の増上慢になってしまうかも。ゆっくりじっくり、考えること、想像することに価値を置く子にしたいのです。知識が合っているかどうかよりも、考える過程を楽しむことの価値を知る子にしたいのです。

「そんな事も知らないの?こうなんだよ。知らないの馬鹿じゃん」
と言われたときにへこまないで、ふふふ、と笑って
「いや、あれこれと考えるのが楽しいんだよ」と、涼しい顔をして、「それにしても、なんでだろうなあー?」と返す子が強いです。

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[保護者会のネタ]子どもの何を伸ばすか

多くの親にとって気になる受験情報。
ともかくテストの点だけはみています、という父親。
「うちの子は算数はできるんです」「算数が苦手なんです」
どちらも点数だけで判断しているか、もしくは宿題のドリルの答えを見てそう言っている親がほとんどだ。

そこで、そんな親御さんたちの不安をとりのぞくために、最新情報と今後のトレンドをお話するのが定番だ。

まず、首都圏での中学入試の実態をお伝えする。
ある中学ではペーパーテストで
「落花生の表面にある網目のような模様はいったいなにか」
という問題を出した。
答えられるわけがない。なぜなら教科書には載っていないから。
ところがそのような問題が出る。
おかしいではないか?小学校の指導要領にはそのことは「学ぶべきこと」になっていないではないか。怒る親が出るかもしれない。たしかにそうで、こんなことは小学校では習わない。

しかし、これは正解はなにか、ではないのである。
ちなみに問題にはいくつかの選択肢が用意されている。
(1)小さな根、(2)水を運ぶ管、(3)表皮の裂けたあと、(4)がく、(5)葉が付いていたあとの5つ。(正解は(2)水を運ぶ管)

たまたま運のいい子を選ぶのではない。
すなわち学校としては、正解がわからないとしても、なぜそう考えたのかを知りたい、というのである。だから、解答欄がすごく広くて、おそらくこうであろう、たぶんこうではない、これとこれは以下の理由でちがう、だからおそらくこれかこれだ、などと書いてあれば努力点を与えるのです。

どうしてこんな問題にするのでしょう。
それは、「ぼくその問題、知ってるよ!(えへん)」状態を無くすためかと思います。
そうではなく、「知らないけど、考えることができるよ」を上位にしたいのですね。
AI時代だから、そんなのは検索すればすぐに答えがわかります。
でも、答えがわかることにそれほど価値をおかない時代になってきてしまっているのです。

受験の世界が変わってきている今、それでは親は子どもの何を育てようとすればいいのでしょう。

小学校のテストは変わりません。
なぜなら「知識を身につけたかどうか」ということも、相変わらず重要だからです。小学校の学習においては、「知識」の有無もすごく大事なのです。だから、テストします。
ただ、それは将来的に必要になる知的能力の、ほんとうに一部にしかなりません。

もちろん中学、高校においても、「知識」は重要で、その価値は変わりません。しかし、進学するにつれて、「知識」よりも「思考力」が問われる時代になっていきます。
また、2023年よりも2025年のほうが、そして2025年よりも2030年の方が、「知識」よりも「思考力」が問われる時代になっていくでしょう。

そうしたときに、あえて「知識」だけを聞いていく今の小学校のテストをみると、ずいぶん見方が変わるように思います。知識をみるテストは、やはり限定された一部の領域だけなのだ、という見方が広まっていくでしょう。そしてその見方は、時間が経てば経つほど、よりくっきりとしてくるのです。

テストの点は一部です。知識はほんの一部の「知的価値」だということに、今後はなっていきます。
それだけを、目標にはしないほうがいいかもしれません。

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ちなみに、落花生の表面のアミについて。
地中に潜った子房柄の先端にある受精した胚は、母株から栄養をもらうとともに、自ら土壌の栄養や水分を吸収して育ちます。地上で実る豆は莢(さや)も光合成を行いますが、地中で実る落花生はそれができないため、殻の表面にある毛根と同じ機能をもつ毛状細胞から土壌の養分・水分を吸収します。また、母株からもらう栄養は、殻の表面にある管状の組織で運ばれますが、網目模様はそのあとです。

家庭訪問がありました

勤務校が変わり、家庭訪問をすることになった。
神奈川ではとうに消滅していた文化。本当に久しぶりだ。

家を迷わないように、ゼンリンの地図をみて調べる。
https://www.its-mo.com/
これだけでもかなりの時間がかかる。
授業準備だけでもゼイゼイ息の切れる若手にとっては、たいへんな作業だろうと思う。
家庭訪問は、夏休み中に行えばよいのではないか、と思う。そのかわり、教員の研修を一切なくして・・・。そんなわけにはいかないか。研修内容は年々、増加しているくらいだもの。

さて、上記のゼンリンの地図サイトは、非常に便利だ。
なぜなら、情報がかなり新しい。
古いのはGoogleMapだ。グーグルは便利だけど、新興住宅は掲載されていない。
その点、日本の地図制作を牽引してきたゼンリンは、すぐさま情報がアップデートされる。
小学生の親は、新しい家に住んでいることも非常に多い。ゼンリンが役に立つ。

わたしはまず、住所一覧をみて、家庭訪問初日の子どもたちの住所を、
かならずまわる順番で、Googleマップに保存していく。
Googleマップは、リストがつくれるので、「家庭訪問1日め」などのリストをつくっておく。
このリストは、公開と非公開が選択できる。もちろん、「非公開」にしておく。

そして、まわる順番に、検索しては→保存 をくりかえす。
ここで、Googleマップでは検索できない住所もとうぜん、たくさん出てくる。
その場合は、ゼンリンの出番だ。ゼンリンでしらべると、地図上にでてくるので、それを覚えて、Googleマップの中でサイド検索し、その場所を保存する。

ゼンリンでは、四角い建物の形が表記されるが、Googleマップではただの空き地として表示されている。そこを、長押しクリックして、無理矢理にスポットとして保存するわけだ。

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ひとりで考え ひとと考え 最後までやりぬく子

ひとりで考え ひとと考え 最後までやりぬく子

いいでしょう、これ。

おそらく、これが次世代に文科省がかかげるスローガンになっていくだろう。
個別最適化、もうそう言っちゃってるからね。全世界に向けて。
あともどりはできないはず。

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保護者対応が難しいと評判のクラス

保護者対応が難しいと思ったことが一度もありません。
正直なところ。
おもしろい人やユニークな人はたくさんいるけど、モンスターはいない。
元来、モンスターはいないのです。

ところが、病気の人は、存在します。
もちろん、それはそう。仕方ないです。人間だもの。

で、わたしがもしかすると病気なのかも、と思う子は、こんなふうに育てられているのだろうと想像します。
1)パワハラで育てられている
2)脅されて育てられている
3)感謝を要求されている
4)服従を要求されている
5)忖度を強要されている

この5箇条。
つまり、パワハラ体質の親に育てられているのですね。
過剰な上下感覚が、そこにあるわけです。

こういう親に育てられている子は、実は友達に対しても、パワハラ気質でのぞみます。
人に対しては、そうするもの、と思っているからでしょうか。

友達に、パワハラ気質で対応する。
友達を、脅す。
友達に、感謝を要求する。
友達に、服従を要求する。
友達に、忖度を強要する。


こうなるのですね。

で、親はどう子育てしているか。
おそらく想像するに、

◯休日にどこかへ連れて行くと、感謝を要求する。
 →「子どもたちが歓声をあげ、喜んでいるフリをしないと、不機嫌になる」
 →「子どもたちがそれに気づき、わああい、たのしいな、と言うと機嫌がなおる」

◯夕食をふつうに食べていると、不機嫌になる。
 →「わああい、こんなのが食べられるなんてぼくはなんて良い家に生まれたのだろう、と言うと機嫌がなおる」

◯宿題をふつうにしていると、不機嫌になる。
 →「ぼくは他の人よりも1ページ多く努力している、と言うと、機嫌が治る」

◯野球選手になりたい、というと不機嫌になる。
 →「おかあさんがのぞむ職業に就く。だってそれが正しいんだもの、というと機嫌が治る」


まあ、こんな感じでしょうか。
もちろん、すごく大げさに書いています。
しかし、こんな要素が微塵にもあったとしたら、それで子どもの精神は破壊されます。

親が、子どもに感謝されることを期待するようになったら、それは地獄の始まりなのです。

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なわとび10回とべたら「勝った!」と叫ぶか「できた!」と叫ぶか

勝った!と叫ぶ子と、
できた!と叫ぶ子。

同じようでも違いがあり、意識の差、というものがあるようです。

なんのためになわとびをしたか、ということでしょうか。

「わあああ、とべたー」

と、自分でも目をまるくして、友達や先生を見る子。

とべなくても、ともかく笑い続ける子。

「うひゃひゃひゃ、だめやー」

軽やかに跳んでいる子の横で、くずれおちて笑っている。「あははは、跳べんわー」



必死になって跳んで、ともかくホッとしている子。

できなくて、泣きそうな子。

得意になって跳ぶ子。


このときに、

できないのはダメ、という意識が、なぜ子どもに、あるのだろうか。
ある人は、それが人間のもともと持っている意識だからだ、という。
人間は、弱肉強食で生きていくのが本能で、勝たなければ死ぬから。だから、いつの間にか、他人に負けまいとする意識が、生まれつきに人間に備わったそうだ。
本当だろうか。

周囲の大人が、どういう声掛けをしたか、どんな言葉をかけたか、で、
この子はその言葉に影響されて学習した結果、

「勝たないといけない」

と思い込むようになっただけじゃないかな。

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