30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

鬼の正体は?

坂上田村麻呂という人が、その昔、鬼が住むと噂された東北地方に、蝦夷の征伐に出かけた。
この蝦夷というのは、まるで人間扱いはされず、鬼畜同然と言うものであったが、坂上田村麻呂は、その親分であるアテルイを気に入って自分の家来にしようと思い、都まで連れて帰っている。
やはり鬼ではなかったのである。

坂上田村麻呂が、こうして、各地域の首領に出会い、大和朝廷に従うよう説得していくうち、坂上田村麻呂は彼らの人間的な魅力に気づいていったのでしよう。地域の繁栄と幸せを願い、田畑を広げて、勤労を促し、自らも汗水たらして働いている地域の首領に、魅力がないはずがない。
蝦夷の征伐に向かう途中、各地域で、坂上田村麻呂はその土地の豪族と争い戦ってきた。もともとまとまりがなく、忠誠心もない土地では、その豪族すぐに滅んでいった。仲間の裏切りもあったに違いない。
ところが、人々から人望の厚い豪族は、仲間が裏切ることもなく、一致団結して、大和朝廷を退けようとしたために、おそらく坂上田村麻呂がその土地を制圧するのは難しかった。
強いとされ、鬼と言われた各地の豪族が、いかにその土地の人々から慕われていたか。
日本各地に残る伝説のうち、鬼と恐れられた土地の豪族こそ、人々を真に愛する英雄であったのだ。

鬼の正体は、おそらくは地域の豪族であろうというのが1つの定説になっている。
各地の鬼として有名なのが、悪路王、大多鬼丸、天津甕星、八面大王、両面宿儺、名草戸部、大国主などだ。

これらは、ほとんど大和朝廷が全国を統一していく過程で、一方的に鬼扱いされ、その結果、滅ぼされてしまった豪族たちであった。

しかし、上に述べた通り、征夷大将軍であった坂上田村麻呂は、鬼を征伐していくうちに、地域を立派に治め、人望の厚かった豪族の首領たちに、どこかしら人としての魅力を感じ、一目置くようになっていった。

だから坂上田村麻呂は東北のアテルイをわざわざ自分の1番の家来にしたくて、都まで連れ帰っている。

面白いのは、この鬼の伝説の中の、両面宿儺【岐阜県飛騨地方、高山市近辺】と、穂高山や上高地を挟んだ向かい側にある八面大王【長野県安曇野市地方】である。
両面宿儺には、顔が二つあり、八面大王には八つあったとされている。

この両者は境遇が非常に似ている。
両面宿儺は、大和朝廷からは、乱暴狼藉をはたらく盗賊、鬼とされた。
しかし、地元の人たちからは、土地を開拓したパイオニアであり、英雄・偉人として称えられてきたのである。
安曇野市の八面大王も全く同じだ。中央政権からは鬼とされ、退治されたあとにはその体を八つ裂きにされるほどだった。しかし、地元の人たちにとっては、やはり英雄なのであって、武勇にすぐれ、神祭の司祭者であり、農耕の指導者でもあったと言われ、地域を中央集権から守った英雄であったと語り継がれている。
この2面と8面を合わせて10面として、両面宿儺と八面大王の名誉を挽回するサミットを催してはどうだろう。名付けて、十面サミットの開催である。

他にも、両者の入り乱れる物語をミュージカル風にして、和太鼓や踊りなども入れながら子どもたちが上演したらどうだろう。ありがたいことに、両面宿儺と八面大王はどちらも大和朝廷が日本征服を目論んでいた時代に生きた。両面宿儺は400年ごろ、坂上田村麻呂は800年ごろの実在した人物である。

もし私なら、8MEN大王として、8人の子どもをステージに上げる。実際には存在しなかったが、8WOMEN大王もキャストに入れよう。これで男子8人女子8人合計16人は舞台に上ることができる。
両面宿儺の方も、クローンをつくれば、全員で48人くらいを舞台に出せる。

いつか実現してみたい。

ちなみに両面宿儺は、あるお寺に居る。
彫ったのは、美術の教科書にも出てくる円空という彫り仏師であります。

飛騨千光寺(丹生川町下保1553番地)
TEL:0577-78-1021
HP:https://senkouji.com
・円空仏寺宝館 「両面宿儺坐像」
・宿儺堂「両面宿儺の石像」

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「全国統一を目指す大和朝廷が、東北を侵略するに当たり、信濃の国を足がかりにたくさんの貢物や無理難題を押し付け、住民を苦しめていました。そんな住民を見るに見かねて安曇野の里に住んでいた魏石鬼八面大王は立ち上がり、坂上田村麻呂の率いる軍と一歩もひけをとることなくたたかいました。しかし最後は山鳥の尾羽で作った矢にあたり倒れてしまいました。その八面大王があまりに強かったので、再び生き返ることのないように、大王の遺体は方々に分けて埋められました。その胴体が埋められていたとされる塚が農場の中にあったことから、大王農場と名付けました。そして塚は大王神社に祀られています。ここに佇む八面大王は、大王農場の守護神でもあり、安曇野を守ろうとした、勇士でもあります。彼の中に潜む強靭でありながら、人を愛する心は、大王農場を訪れるすべての人々の中にきっとつたわっていくでしょう。」(大王わさび農場による大王の説明)

桃太郎の矛盾

桃太郎の鬼について、子供たちと話し合ったときのこと。
クラスのちょうど半数は、やはり桃太郎の鬼は、悪者であろう、盗みや狼藉、人さらいなどをしたわけだから、悪党に違いないと言う意見であった。
しかし、残りの半数は、もしかしたら結構いいやつかもしれない、と判断をした。

これは、教室の電子黒板に、でかでかと【空からのぞいた桃太郎】を映して、全員で見たからだ。

この
【空からのぞいた桃太郎】は、少し前に評判になった本で、実際にある小学生が自由研究で賞を取った際に、参考にした本らしい。これが面白いと言うので、テレビやラジオでかなり評判になっていた。

鬼の勉強した際に、そのことを思い出して、クラスの子と実際どうかと読んでみた。すると、やはり、視点を一歩引いて客観的に見ていけば、物語の矛盾と言うのはたくさん見つかるものである。クラスの子たちも、先の自由研究の子と同じように、悪者と決めつけて見る事はできないと言う結論に至った。
その記録をここに書こうと思う。

まず、うちのクラスの子どもたちが、1番に矛盾として指摘したのが次のことであった。
1)鬼ヶ島がものすごく遠い。
おまけに海を渡ってようやくたどり着く場所である。これはつまり、鬼達からしても、人間の住む区域まで来て、収奪したものを持ち帰るのに、かなり苦労が要るだろう、ということ。

この意見が出てから、まずペアで、次にはグループで話し合い、何人かの子に意見を言わせてから、もう一度、鬼ヶ島の鬼は悪いかどうかを確認した。
すると、4人から5人ほど、意見を変える子どもが出た。悪者では無いかもしれないというのである。

次に2つ目の指摘があった。
2)おじいさんとおばあさんは、かなりのんびりと暮らしている。

もし鬼が頻繁にやって来るような土地柄であれば、おちおちと芝刈りもしていられず、せめて身を守るための鍬などを持って最低限の防御策を考慮するだろうし、おばあさんも川で洗濯などせず、つまり1人で行動する事なく、大きな瓶(かめ)などに水を汲んでおき、自宅で洗濯をするに違いない。

このことを話し合った後に、2回目の確認をした。挙手させると、さらに3人ほど、意見を変える者が出た。

さらなる矛盾点として指摘されたのが、
3)鬼は、猿やキジや犬よりも弱い。
ひょっとすると、人間の大人が鉄でできた農具、例えば鍬や鎌、ジョレン、お餅つきで使用する杵などでおそいかかれば、もしくは抵抗すれば、容易に撃退できたのではないか、という点だ。

この点については、犬が本気で噛み付くのであれば、鬼はやはり困るのではないかと言う意見も出た。
確かに犬が噛み付いたら、致命傷になることもあろう。だが、鬼は鉄で出来た金棒を持っているではないか。あの鉄の棒は、トゲトゲも付いていて、犬はたった1匹しかいないのに、鬼が数人で犬を取り囲み、トゲトゲでおい回せば、鬼の方が強いはずである。それをしないのは、やはり鬼が優しいからではないか、と言う反論が出た。

おまけに、ある女の子は、「キジはそんなに強くないと思う。お話の中でも、キジは鬼の目を突きましたと書いてあるけれど、それこそ鉄のトゲトゲ棒でひと殴りすれば、キジなどふっ飛んでいくに違いない。」言うようなことを言い、これには多数の賛同者が出た。それを聞いたある男の子は、「キジなんて、HPは1か2しか無い」と言って馬鹿にした。

猿はどうか。子供たちからすると、猿の強さは、HPは5くらい。群れのボス猿であったとしても、せいぜい8か9程度であろう、と言う見立てであった。武器は爪でひっかく、ということだが、たとえ鬼がじっとしていて、おとなしく顔面をひっ掻かれたとしても、致命傷にはなるまい。
今や数少なくなった、鬼はやはり悪党である側の子は、猿は噛み付くこともできる、と反論していたが、やはり鬼の持っている、金の棒にはかなわないであろうと一蹴された。金の棒を持つ鬼のHPはおそらく100以上あるはずだ。

それでも、鬼が負けてしまったのは、きっと鬼が抵抗しなかったせいである。なぜならば、鬼はたとえ正当防衛であったとしても、生き物を殺すなどと言う野蛮な事はしないためであろう。

ここまで来て、再度人数確認をしてみると、クラスに、鬼は悪者であると考える人数が、3人に減ってしまった。

最後に出た、矛盾点の指摘は、
4)オニたちがお互いに助け合って楽しく暮らしている。

「空から見た桃太郎」の本では、鬼ヶ島の様子がこと細かく描かれている。鬼ヶ島の中は非常にたくさんの鬼で賑わっていて、中では、魚屋、鉄の金棒を売る店などがある。奥の方には、劇場のような場所もあり、鬼がチケットを売っていて、子連れのお母さん鬼が看板を見上げている。魚屋が売っている魚は、非常にたくさんの種類や量があり、やはり買い物をしている鬼がいて、本当に、私たちが普段暮らしている街の様子そのものである。
鬼たちの顔は、非常に満足そうで、お祭りをしたり、踊ったり、道端で大道芸をしているような鬼までいる。どの鬼も目的を持って行動していて、その瞳は輝いているのであります。

この、生活に満足をしていそうな鬼たちが、わざわざ、遠くの人の住む村にやってきて、殺戮や強盗をはたらくであろうか。
子供たちが注目したのは、魚屋で、あの魚は、絶対に海で釣ってきたのであろうと言う意見が、何人もの子から相次いで出された。
魚はすぐに腐るから、そんな生鮮品を、遠くの人間界から運べるわけがない。そんな苦労をするくらいなら、あの海で、釣り糸を垂れて、魚を釣る方がどれほど簡単なことだろう。
鬼たちは決して怠け者ではない。なぜなら、このように商売にも懸命に励んでいるし、建物や店の作りは、非常に立派であって、きっと鬼の大工が仲間とともにノコギリや釘、かんななどを使って、せっせと組み立てたものではあろう。人間を働かせたわけではない。鬼たち自身が汗水を流しながら、知恵を出し合い、工夫して、このような店や建物を作りあげたのだ。
怠け者ではない鬼たちが、魚を釣らないわけがない、というのである。

ここで、採決をとると、残りは2人になった。この2人の言い分は、
「たとえ鬼が優しくて、働き者で、犬や雉(きじ)や猿よりか弱かったとしても、それでもやはり桃太郎が退治を思いだったのだから、それにはそれなりの理由があるはずで、懲らしめられるだけの何かしら悪いことをしたに違いない」と言うのです。

そうすると、ある子が次のように言った。
「もしかしたら、桃太郎が奪い取ったたからものは、人間の村から持っていったものではないかもしれない」

みんなが驚いて、根拠を尋ねると、
「だって、魚だって多分鬼が釣ったのでしょう。それに家とか店も自分たちで建てている。桃太郎が鬼から取り上げて、持ち帰ったものを見ると、割と大したものはない。そんなもの鬼なら簡単に自分でこさえることができる。」
と言った。
また、違う子が、続けて言った。
「そうだよ。あれは鬼のものだよ。」ふだんはあまり意見を言わない子。
「だって、もし人の村から盗んだものだったら、きっと桃太郎のお話は、最後に桃太郎が人々に宝物を返してやりました、で終わるはず。でも桃太郎は、その宝物と一緒に、おじいさん、おばあさんと幸せに暮らしました。になっている」

つまり桃太郎は、村人に盗んだ盗品を一つ一つ持ち主を探し確認しながら返品したわけではない。

「お話には書いてないけど、きっと返してあげたんだよ」
と2人は反論したが、
「もし返したなら、村人と一緒に仲良く暮らしたと書くはず。しかしどの桃太郎の本を見ても、おじいさん、おばあさんと一緒に仲良く暮らした、になっている」
言い返されて、2人はもうギリギリまで追い込まれてしまった。

ここで面白いことが起きた。
この2人が困った顔になり、じゃぁもう意見を変えようかなと言った瞬間、何人もの子たちが、

「え?意見を変えるの?変えないでお願い」と言うのです。

つまり、こうやって一つ一つ分析や検証していくと、そのこと自体が面白くなってしまい、論破するのが目的、というのではなくなってきていたのですね。

さて、ここまで分析活動を進めてきて、最終的に桃太郎の鬼だって悪くは無いと言うことになってきたので、これまでに読んだその他の鬼が登場する物語、ほとんどと同じように、鬼と言うのは、実はそんなに悪いものでもなさそう、と言うことになってきた。

ここまで調べてきた鬼は、
・こぶとりじいさん
・ソメコとオニ
・おにたのぼうし
・泣いた赤鬼
・節分の鬼
・大工と鬼六
・千里の靴
・雷さまとクワの木
・地獄のあばれもの
・一人になった鬼の親分
・えんまになった、権十おじいさん
・一寸法師

結局、どの鬼も、本当の悪党と言うには足らず、どこか人間臭く、親しみの湧く存在であることが多かった。一番の悪党であるとされたのが、桃太郎だったので、桃太郎の鬼くらいは悪者であって欲しかった。
ところがどっこい、桃太郎の鬼ですら、悪党にはなりきれなかったのである。


写真は、両面宿禰。(岐阜に住んでいた鬼。ヤマト王権の制圧に抵抗した)
宿禰

なぜ歴史の学習がきらいになるのか(小学生編)

坂上田村麻呂が戦った相手は、地域で愛されていたはずで、大和朝廷という別部族が襲ってきたのであれば、徹底的にふるさとを守るために、一致団結して戦ったことでありましょう。
外敵である坂上田村麻呂。いきなり土足でふるさとを汚しにやってきて、「遠い京の都におられる天皇が君臨する大和朝廷にひれふせ」と訳の分からないことを言って、攻めてきたのですからナ。
ところが勝てば官軍。大和朝廷は、勝った勢いで、「ここにはおそろしい鬼がいたので、田村麻呂が退治した」と言って、歴史書にそう書いてしまう。

昔はそれでもよかったのです。勝つのは強いからで、強いのは正義であろう、というのが昭和から続いた考えでした。
ところが、コロナを経て、今の時代はなぜか、『強い正義』は人気がありません。正義ぶって、厚かましく自分の考えを押し付けてくるような勢力を、どうも世の中の、とくに若い層は嫌っているようです。

その証拠に、パワハラは、不人気です。
ブラック企業も、不人気です。
「24時間たたかえますか」も、不人気です。
ハラスメント全般が、不人気なのです。

だから、坂上田村麻呂が、どうも人気がありません。
授業をしていても、大和朝廷が日本を制覇しました!という部分で、なにか盛り上がらない。
「ひどいなあ」というため息が、教室にもれてしまうのです。
歴史の学習が、とくに若い子どもたちに不人気なのは、こうやってハラスメントで地方を無理やりに傘下に収めようとしたり、武器を持って人を脅し、なびかせようとするようないやらしい政治に対して、吐き気のするくらいに「嫌悪感」を抱くからではないかと思います。
でも、仕方がないのです。当時は、それが当然のことでしたからね。ただ、今の時代の感性には、まったく合わない、というだけで。

わたしは歴史キライの子がでないよう、坂上田村麻呂に焦点をあてるのでなく、むしろ退治された鬼の側に焦点をあてて、授業を行いました。
鬼といっても、当時はその場所にちゃんと住んでいた人間です。実在の人間が、大和朝廷が征服しようとしたときに「いやだ」と反対したために、「鬼ということにされてしまった」わけですね。

坂上田村麻呂の最大の事業といえばやはり東北地方に居住していた蝦夷の討伐だったでしょう。
蝦夷というのは奈良時代後期から平安時代前期にかけて東北地方で朝廷勢力と抵抗した人々のことを指します。
朝廷側はこの蝦夷という勢力を抑えて東北地方にも勢力を築き上げたいと考えていました。
それで、「蝦夷」という人たちは、野蛮でいやしくて獣同然だ、鬼のようなものだ、という風説を流布させて、都の人たちには「東北に鬼が住んでいる」というようなイメージをもたせました。
今でも「北東」の方角は、鬼門だ、ということになってますね、日本は。

坂上田村麻呂は、鬼を征伐する正義の味方だ、ということになっているのですが、子どもたちからは、ただのパワハラ野郎だと思われてしまっています。若い人たち、とくに小中学生には。そのために歴史はパワハラの変態野郎が人を殺すおそろしくてアホな学問だというイメージをもたれ、そのあげくに大量の「歴史なんてキライ」という子どもが量産されてしまうわけです。

坂上田村麻呂は当時としては立派な行いをしたわけですが、時代の趨勢にはさからえないようです。
したがって、わたしとしては、大和朝廷の勉強はあまりしたくありません。子どものテンションが下がり、以後の学習が非常にやりにくくなるからですね。

でもまあ、奈良の大仏をつくるころには、女子もまじめに勉強するようになりますし、天変地異の多かった平安時代の学習は、女性がひらがなを書くようになったり、日本らしさが出てきたりしますから、また好きになってくれるんですが。

今思えば、大和朝廷の方たちは、蝦夷とか他の地域コミュニティについて、ゆるい「連邦制」をとった方がよかったかと思いますね。「制圧」とか「征服」とかでなしに。だって、あまりにもパワハラのイメージが強すぎるので・・・。

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洗濯機の故障 修理 東芝AW-8D

東芝製の洗濯機。
2週間ほど前、洗濯機の下部から水漏れしたことがあった。
排水のホースに穴が空いているのかと思い、調べてみたが正常である。蛇腹のようになっているので、見えないような傷が付いており、水が漏れているのかと思った。しかし何度調べてもホースは正常であった。
不思議に思いながら、何度か使ううちに水漏れはなくなってしまった。
きっとたくさんの洗濯物を詰めすぎたせいだよ、なんて言いながらそのままにしていた。

しかし、今思えばあれが前兆だったのだ。

先日洗濯機がいよいよおかしくなった。本格的に調子が悪い。水が洗濯槽にたまらないのである。
東芝製の縦型洗濯機。ザブーンと言う愛称がついている。乾燥の機能が付いておらず、シンプルな構成ゆえ、故障が少ないと思って使ってきた。
だから、不具合が起きたとき非常に動揺した。まだ4年しか使っていない。壊れるには早すぎる。

長期の保証に入っているわけではないので、修理を出張費込みで依頼すれば、最低でも20,000円はかかると聞いた。
そこで、DIYでどうにか直そうと決意した。

早速、ネットを検索してみると、情報がガンガン出てくる。東芝製の洗濯機でも似たような事例が出てくるし、他社の製品でもほぼ同じ。洗濯機の構造は似ているので、どこの会社も同じような故障はあるらしい。

1番多いのは、ヘアピンや、プラスチックの破片等がつまるケースである。
中でも、ヘアピンは、その長さがちょうど排水口の直径と近似値で、排水弁を動かなくさせるには、もってこいの逸品である。

我が家では、ヘアピンをほとんど使わないので、おかしいなと思った。
我が家の場合は、もっと他のものが排水弁を常時開けてしまっているのではないだろうか。

さらに調べると、ものが詰まるだけでなく、排水のモーターそのものが故障するケースもあるらしい。そうなると、楽天市場やYahoo!ショップなどで、型番から調べてモーターそのものを取り寄せることになる。ちなみに私が調べた型番では、3000円から4000円ほどでモーターを売っていた。
また、排水弁そのものが一部割れたり欠けたりなどし、弁の調節がうまくいかないケースもある。そうなると、排水弁を型番から取り寄せねばならない。

私は多少の出費を覚悟しつつ、ともかく、分解してみることにした。

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分解して、背面から排水弁を覗いてみたら、排水弁がネジのようにしまっているのだが、結構固い。そこで道具箱を探し、下のような大型のプライヤーを使って少しずつ回して外した。
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左の小さなラジオペンチは、排水弁から伸びた針金がモーターに通じるプラスチック部品にくっついているので、その針金(クリップ)をつまんで外すのに使用する。この部分は、針金が曲がって引っ掛けてあるだけの簡単な作りであった。
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ご覧のように、小さな細い針金が、曲がって、プラスチックの先端部分に下側から引っ掛けてある。これをラジオペンチで優しく外せば、もう排水弁はあっという間に取れてしまった。至極簡単である。

そして、なんと、原因がわかった。排水弁を取り外したと同時に、小さなヘアピンが1つだけ出てきたのでありました。

そのヘアピンが、まっすぐに排水経路に送られて、ちょうどつっかい棒のようになり、ゴムの排水弁が排水経路を閉じることができないように、弁の邪魔をしていたのでありました。
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黒い細い棒のようなものが、ゴム製の大きな排水弁を、しっかりと押し付けて動けなくしていることがわかります。
なんともあっけなく、修理は完了。
元通りに組み立てスイッチを押してみると、正常に水を貯められるようになりました。
ちなみに、排水がおかしい、排水されっぱなしだ、と言うサインが表示されたわけではありません。
反対に給水ができないと言うサインが出ました。東芝の場合、C 5というデジタル表示が出ます。これは給水不能の表示。

しかし、この表示が出たとき、きちんと給水はできていたので、最初はなぜなのか分かりませんでした。
その後わかったのは、洗濯機からすると、給水をしてもしても、水がたまらないため、どうやら給水ができていないと判断したようなのです。でも原因は、ちっとも水がたまらないと言う部分にあり、その元を辿ってみると、排水弁が開きっぱなしで、常時排水しかできないようになっていたのであります。

つまり、給水ができない、ではなく、排水弁が開きっぱなしと言う表示なのでした。これは取り扱い説明書には書いていないために、最初はわからない人が多いかもしれません。私も迷いました。

さて、4年間使った洗濯機の、排水モーターまで買わねばならないかと思っていましたが、そうならずに済んでほっとしました。念のため、排水モーターはどう変えるのかなと思って見てみましたが、洗濯機をひっくり返してみると、かなり部品が奥のほうについており、意外に手ごわそうでした。
最低10年は使いたいので、そこまでモーターが維持できればありがたいですな。

思い返してみると、水漏れがあった2週間前。あの時もおそらくこのヘアピンが、洗濯槽から、排水経路に向かう途中の辺どこかをいちど塞いだのだろう。そのために洗濯槽が揺れた際、規定量より多くなっていた水が、水槽の上部から溢れたに違いない。
やはり何かの事象が起きた場合、その原因となる要素がどこかにあるのだ。

○○のせい?

昔、SMAPが解散するときに、子ども(当時は6年制の担任をしていた)が聞いてきた。

「ねえ先生、SMAPって香取慎吾のせいで解散するんでしょ?」

わたしは、

「だけじゃないでしょ」

と言って、忙しくプリントの整理などしていました。

彼女はジャニーズ大好き少女でありまして、どちらかというとSMAPが解散したり、いろいろと大人が要らんもめごとをしていたりするのを否定的に感じているようでした。

大体、大人がなにか問題を起こすことが多いのであって、わたしたちが楽しんでいる現状を壊さないでほしい、というように子どもは考えるものですから。

香取慎吾のせい、というように、だれかのせいにしたくなりますよね。
みんな、信じられない現象を目にすると、いったいなんのせいなのか、
だれのせいなのか、と、

〇〇のせい

というふうにしたくなります。

ところが、SMAPの解散については、理由がたくさんありまして・・・。

これだ、というふうに、一つに決めきれないのです。
香取君のせいだ、というふうなことを書いた芸能誌やWEBの記事があり、それで多くの人がそう思うのかもしれませんが、木村君のせいだ、というふうに書くライターさんもいるし、事務所のせいだ、と書くライターもいます。

ライターさんは、それぞれの芸能誌やゴシップ誌へ記事を取り上げてもらうのですが、ありきたりの記事では受けません。ですから、できるだけ新しい観方で書きますし、それが多少なりとも筋が通っているようにさえ見えればよいのです。
ライターさんも商売ですから、〇〇のせい、というふうにスッキリ書きたくなります。でも、それは書いた記事であり、見せるための記事ですし、記事として書いていますから、事実とは次元の違うものですよね。

事実は、SMAPさんしか分かりませんし、実はSMAPさんの中でも意見が分かれます。100のうち、10くらいはおれのせいかな、と各自で思うかもしれませんし、事務所だって100のうちのいくらかは責任あるかな、と思っているかもしれません。

「太陽があまりにも黄色かったから」

という有名なセリフがありますが、なんと人を殺したのは、太陽の色のせいだ、という人もいるのですからね。
〇〇のせいだ、というふうな言質は、実はあまり、意味が無いのです。

しかし、わたしは、香取君のせいだ、という意見に賛成です。100のうち、たったの2か3くらいですが。
のこりの97,8は、マスコミのせい、あるいは視聴者のせいなのかもしれないし、もっというと、説得できなかった和田アキ子さんのせいなのかもしれません。アッコさんが、きちんと説得さえできていたら、解散にはならなかったのですからナ。

しかしアッコさんのせいだ、というライターは一人もいません。理由は明らかで、その記事をデスクがはじくだろうからネ。
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お子様ランチ、子どもは喜ぶものなんでしょうか?という質問

久しぶりに質問が来ました。
インターネットって、おもしろいですね。いきなり知らない方から質問が届くなんて。
ブログを書いている教師に聞くような質問ではない気もしますが、おそらく、教師に聞いている、というよりは、子どもの評論家に意見を聞いてみよう、という感じなのかな?


さて、これは子どもに聞いてみないと分からない質問ですね。
大人は、ある程度、予想するしかないのです。

「これで、喜んでくれるかな?」

と思いながら、そうあってほしい、と願いながら行動するしかないのです。

で、実際にお子様ランチを目の前にして、喜ぶ子もいます。
しかし、逆に、何も反応しない子もいます。
そんなに欲しいとは思わないけど、べつに・・・という感じ。

しかしここからが落とし穴です。

実は、目の前にあるお子様ランチに、気分をときめかせている子もいるのですが、態度として、それを表現しない子もいるんです。
なかには、声にだして

「これ、あんまり美味しくない」

などといいつつ、実際には心の中で、「やった!」と思っている子もいます。

面白いですよね。
人間と言うのは、セリフや態度や表情という、外に表現されているものと、内面とが異なることが、たまにあるのです。

ですから、内面を知りたくても、結局は知ることができないです。
人間とは、相手の内面は分からないのが本当なんです。それが真実なのです。

でも、だからといって、だから人間お互いに信頼関係がつくれないかというと、そうでもない。ここも面白い所です。

長年連れ添って、背中のかゆいところまで了解している夫婦であっても、

「本当にはわたしはこの人の心の内は、わからないな」

と思いながら生きているものです。実際、わかった、と断言はできないので。

しかし、相手がどうあろうと、こちらとしては、相手を信頼している。
それで、お互いがうまくいく、という感じのことが多いのではないでしょうか。

結局、どんなお子様ランチであっても、見た目がしょぼくても、本当に

「うれしい」

と思って食べるお子様ランチもあるでしょうし、そうでない場合もありますね。
要は、人間関係ですよ。これに尽きます。

認知症の母が、だしをとりわすれてつくった味噌汁、味のない味噌汁、それでも涙をながしながらありがたくいただく味噌汁もある、ということです。

つまりは、人間は、お子様ランチの見た目や味なんて、それほど重要ではないのかもしれませんね。いっしょに食べる人が誰か、どんな心もちで、どんな気分で食べるかによって、お子様ランチの味なんて、1000倍くらいちがうのではないでしょうか。
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時代が追いついてきた

https://news.yahoo.co.jp/articles/7a56ac620fd0b038bee03bb11b8670fb445565d8

おお、時代が追いついてきました!
マスコミ関係の方、取材受けますよ!
ご連絡お待ちしております。

理由を聞いても貝になってしまう娘。学校に送り出すも「やっぱダメ」と戻ってくる

理由は聞かない。
説明できるようなことではないからだ。
低学年であっても高学年であっても同じ。
子どもの語彙の中には、理由は見当たらないのだ。不登校とはそういうもの。
もし言える子がいたとしたら、ハリーポッター2冊分くらいの字数になる。

あとは、それを言うと親が困る(怒る)のではないか、と子どもが思っている場合がある。
だから、理由を聞かれても

貝になるしかない。

たまに先生になりたての若い先生で、

「なんで来れないの?」

と聞いてしまう先生もいる。

理由を言えるわけがない。
また、先生に責められた、と勘違いをして、ますます来にくくなる子もいるだろう。
ぜったいに、

「なんで来れないの?」

などと、言ってはいけない。

不登校だけではない。
けんかでもなんでも、わたしはまったく

「なんで」

と理由を聞くことはない。
同じく、ハリーポッター2冊分の分量の説明が必要な子もいるからだ。
ただの口喧嘩にしか見えないような事象であっても、当人には、低学年の当人にとっては、理由がハリーポッター2冊分必要な子もいる。高学年でもだ。

わたしはそうは言わない。
このブログで前にも書いたが、

「本当はどうしたかったの?」

と質問をする。
すると、「こうしたかった」とすっきり1行で言ってくれることが多い。

それでも出てこなかったら、こう聞く。

「本当はどうしてほしかったの?」

これだと、ズドーンと出てくる。

◯友達にやさしくしてほしかった。
◯先生にこう言ってほしかった。
◯あのときぼくがこうしたことをわかってほしかった。
◯お母さんに用意してほしかった。
◯昨日のそろばんを休みたかった。
◯友達にこっち側によけてほしかった。
◯じろじろ見てほしくなかった。
◯友達のペンを貸してほしかった。

ああ、人間って、こうも

「してほしかった」

と思う存在なんだなあ、ということがよく分かる。

それが出てくると、憑き物がとれたように表情が良くなる。

繰り返すが、理由はきかない。
子育てに、理由は聞かない。
子どもは忖度もするし、思いやりもする。大人の感情の変化をもっとも嫌う。
だから、理由は言わないし、言えない。

そんな子どもに、理由は聞かない。親も先生も、聞かないでほしい、と思う。

不登校の子が、理由を言えるわけがない。貝になって当然だ。
理由をきこうとするから、さらに貝になる。貝にしているのは大人だ。

このブログは2006年くらいから書き始めたけど、このことは何度か書いている。
わたしのクラスでは、子どもたちどうしが、

「◯◯ちゃん、どうしてそれをしたの?」

とは言わなくなっていく。

そうでなく、

「◯◯ちゃん、ほんとうはどうしてほしかったの?」

と聞いている。

わたしは少し離れた場所で、なんとなくそれを横目で眺めていながら、「ほんとう」という言葉がちいさな子どもの口からこぼれてくるのが、なんとも神々しい気がしている。

ほんとうの教育とは、目の前の人間の、「ほんとう」をお互いにきいていくことだ。

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【給特法最前線】現場はちんもく

給特法について、現場は一切のちんもくを保っております。
職員室で話題になることはまったくありません。
なぜなら、忙しすぎて家に帰ってもニュースをみないので、今世間で話題になっていることを知るタイミングがないのですね。教員は世間知らずと笑われますが、本当にテレビもラジオも聞く暇もないし体力が残っていないのが実際のところだと思います。スマホで明日の天気予報を見ようとしたまま、がくっと寝落ちをしている若い先生を見たことがあります。職員室で。

今年、同学年をもつ若い子に、趣味は何かと聞いたら、日曜日の買い物だと答えました。
へえ、よほど珍しい何かを買いに行くのかと思ったら、食品や日用品だそうで。

「もっとちがうものかと思った」

というと、

「休日は洗濯して買い物したら終わりなんで」

というから、え、2日あるでしょう?と聞くと、

「日曜日は仕事してます。土曜日だけが休みで、洗濯しちゃわないと」

だそうです。

彼にとっての一番の関心事は土曜日が晴れることで、洗濯物が乾くほうがいいそうですね。

なぜそうも仕事があるのか、と世の中の人は訝るかもしれないが、実際に仕事は無限であります。
授業以外が9割、実際の授業の準備が1割、程度でしょうか。
このあたりは人によって実感がちがうでしょうが、分掌が多い人ほど、授業から遠ざかるでしょうね。

さて、残業代が出ることほど必要のないことはありません。
むしろ、残業代が出ると、おそらく仕事量は今よりも増えるでしょう。
多くの教員がおそれているのは、そこです。
若い人が教職員をめざさなくなり、募集しても募集しても人が足らない、そうなってしまっているのは、仕事量が殺人的に多いからです。

給特法の問題を、単なる賃金や働き方の問題に矮小化してしまうのは、全く間違っています。
それが起こってきた背景を踏まえ根本を見据えて考えたら、そうではなく、教員が趣味も持てないほどに、休日に授業の準備をしなければならないほどにハードスケジュールになってしまっているところを考えるべきです。子育てをしている若いお母さんの先生まで、日曜日に学校へ来ていますから。自分の子どもはほうっておいて、仕事をしに来るのですから。これが美しい日本、理想の世の中だとは思えないですね。

勤務時間が短縮され、労働に見合う賃金が支払われたら、この問題が解決するのかといったら決してそうではないでしょう。問題の中心にあるのは、やりがいの問題です。そのやりがいが見えてこないほどまでに、疲弊している学校の先生たち。息をつく暇もないほど、追い詰められている先生たち。

しかし今の与党政府は、ますます教育にはお金を使わないことを決めています。人を雇わず、教育からは手を引く、という姿勢です。どうやって美しい国をつくるのでしょうか。子どもを大事にしないのは、未来を大事にしないこと。政治家は、いったい何がしたいのでしょう。政治家はこうすることで、どんな良いことがあるのでしょう。給特法をいじって給与を増やすそのお金で、校庭の草抜きをする人を雇ってください。そのお金で蛍光灯を変える人を雇ってください。そのお金で集金をする人を雇ってください。そのお金で文科省のアンケート調査に答える人を雇ってください。

私も日曜日ですが、きちんと学校へ来ておりますよ。
ひまわりに水をやり、書類を作り、掃除用具の整理をして、扇風機にシリコンスプレーを吹き付けて回転を良くし、子どもに配布する書類を用意し、棚を直し、運動会の写真を整理しました。これらは最高裁の判決で「教員の仕事ではない(教員が勝手に自主的にやってるだけのこと)」とされたことですが、やってくれる人はいませんので、やるしかない。

クーラーは配備されましたが、使いません。
休日に仕事をしたことがバレると、市教委から怒られるからです。熱中症になりそうですが、がまん、がまん。

見つからないように、仕事をしないとね。

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自己評価できるかどうかは・・・

子どもが主体的になって、すべての活動を行うものだとすると、学習計画と言うものや、将来の計画と言うものも本人が立てるしかなくなる。
この言い方もおかしな言い方で、本来はそうなのだから、日本の社会の教育システムについてもありとあらゆる場面でそうなっていなければ、話が合わない。
さて、学習の計画を本人が主体的に計画するならば、まず第一の条件として、子ども本人が自分の状態をどう捉えているかについて熟知していなければならない。
今の自分の状態を知り、そこから将来を画策し、自分のプランを立て、アクションを起こしていくのである。

ところが、今の学習システムにもっぱら見当たらないのがこの部分、つまり、自分の状態を知り・・・という点である。
子どもか自分の状態をどのように把握しているのか、それを多くの大人は聞こうとしていないように思える。
そこで、文科省は自分の状態を子どもが把握できるように「振り返り」を指導している。授業の後に、自分が今日の学習で目標目当てを達成したかどうか自信を振り返るのである。
さらに、次の学習に向けて、一体どのように進んでいくのか、それもまた自分で決めるのである。学校はこのように学習についての大きな変革を、実はもう10年以上前にやり始めている。そのことが熟知されてきて、多くの小学校でその実践がされ始めたのが5,6年前であろうか。

校内の研究授業などで、他の先生方の授業を見ても、このように授業の始まりにめあてを確認し、振り返りの作業を子供たちが一人一人自分の学習計画ノートに記録していると言う実践を最近は多く見るようになってきた。

さて、それが宿題など、家庭の関わるところとなると、なかなかそうはなっていない。
多くの保護者にとって、宿題と言うのは、学校が出すもの先生が決めるものと思っていることが多い。中には、学校から担任教師がそのことについての説明を充分しており、家庭でも宿題と言うのは自分で計画するものだと言うふうに認識しているという学校もたくさんあるだろうと思う。ただし、全国の小学校が全てそうなっているとは言い難い。
宿題というものも、一人一人違うと言う点が当たり前なはずなのに、隣のクラスと宿題の内容が異なるとどうしてなのかと訝る保護者も実際にはいる。

通知表の評価も、昔のように相対評価ではなくなって、かなり長い年月が経つにもかかわらず、テストの点が良かったから。悪かったから三角だと言うふうにまだ思っている保護者もいるだろう。
自分の学習の状態を熟知し、自分で計画を立て一生懸命に練習をしている子にとって、あるいは考えを深めようと試行錯誤できている子にとって、ふさわしい評価はすべからく丸、あるいは二重丸である。

私が見てきた子どもの中で、
どんな具合?
力はつけられてる?
どうしたら分かりそうかな
どうしたらできそうかな
と担任に聞かれた場合に、その自分の状態を全否定する子は1人もいない。
力をつけたいと願っていない子は1人もいないのである。

だから、通知表に三角の子は1人もいない。いようはずがない。みなさんは、このへん、どう思われますか?

ここからが1番言いたいことだが、通知表は、そういう意味であまり意味がないのだと思う。大切なのは、本人が自分の納得する計画が立てられており、その計画をしっかりと進める状況がこの1学期につくられたかどうかである。その状況を作るのは、第一に子供の意思であり、またそれをサポートする周囲環境がどうかと言う点である。
つまり、通知表には、2つの列が必要で、1つは自分の意志や状態で、もう一つは、環境である。それを丸や三角で子供自身が評価すべきである。そしてその評価を見て担任がじゃあどうしていこうかと言う計画をそこに書き込むのだ。そして親が家庭での状況をさらにそこに書き込むので、お互いに自分がどうそこに関わることができただろうか、という自分自身の反省を述べるために、である。IMG_2605
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