30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

学級経営とは迫られた問題の決断




あれこれ、といろんな問題が起きる。

昨日まで仲のよかった子が、大喧嘩して、訴えてくる。

クラスの中で、何かが無くなり、探しまわる。

怪我をする。

鼻血が出る。

全校行事の予定が変わった、と放送が流れる。

給食のおかずが一人分、不足する。

図工の作品が、だれかに蹴飛ばされる。



問題が噴出する。
連続して起きる。

同時多発する。


経営とは、迫られた問題の、決断である。

とっさに、何らかの答えをはじき出す。
それを、伝える。全体を、動かす。
決断力、が要る。

次に、その決断の内容の、適切さが問われる。



学級担任は、秘書がいない。
担任をマネジメントする、秘書の仕事も、しなければならない。
つまり、自分自身を、秘書の視点から、マネジメントする。

経営秘書の仕事は、決断に迫られてくる事柄の、抽出作業である。

何を決断すべきなのか。
決断を迫られている事柄、事象、内容とは、ナンなのか。
決断しなくてもよいこと、ほうっておいてよいこともある。
軽重がある。
今は、そのままにしておくこと、とぼけて知らんふりしておくこと、見ておく、というレベルのこともある。

見る、にもレベルがある。

見る。
ただ見る。
少し注意してみる。
ある場合にだけ、注意して見ておく。
常に注意して、観察を続ける。
・・・というように。

そこから抽出して、決断すべき事柄を、決断していくことだ。


決断する、というのが先にあって、
ふさわしさ、適切さ、はその後だ。


オレが決断する、という強い意志がないと、子どもたちの前では、ただの人形になってしまう。

子どもたちは、決断して、進めてくれる統率者を、求めている。




新採・面接での一言




7月に入った。
受験の夏が、始まろうとしている。
身近に、採用試験が間近だ、という人がいる。

いろんな相談を受けている。
今日も、ほんの少しの時間、話をしていた。

そこで、自分でも忘れかけていたことを、思い出したので書いてみる。


面接のこと。

不登校がちの児童が、ひさしぶりに登校してきたとき、あなたは学級担任として、どのような声をかけますか、という質問について。


とっさに、こう答えた。

「身体の状態や、表情や、持ち物など、できるだけ、どんな様子かを把握したいので、よく見たいと思います。その上で、とびきりの笑顔で、来てくれてうれしい、と伝えます。ひさしぶりなので、おうちではどんな過ごし方をしていたのか知りたいです。それで、髪はきちんと洗ってきているのかどうか、服はきちんとしたものか、どこかに怪我はしていないかなど、身体の様子をよく見たいと思います」


この回答が、どんな印象を与えたかはわからない。

しかし、当時、とっさによく、これだけ言えたな、と自分でも思うのだ。
というのは、今、実際に子どもたちと接していて、だんだんと、より強く、こう思うようになってきたからだ。

子どもは、言うことと実際がちがうことがある。
また、虐待など、身体のケアをまず先に、何よりも優先して行わなければならない子どももいる。
あるいは、心のケアをするために、わかりやすい、身体のケアから行う、という場合もある。
心が複雑化していて、素直に表現できない子。
中には、こちらが、相手の身体をいたわる態度を続けていくと、心をふと、開放してくれる子がいる。

いろんな場合を想定して、上記のような面接の質問に対して、児童の身体を気遣う応対というのは、かなり重要なことだと思うのだ・・・。



もう7月だ。
7月の上旬には、多くの受験生が、本番を迎えるのだろう。
ぜひ、頑張ってください。
このBLOGが、少しでも、お役に立てますように・・・。

私も、受験時代に、多くの方に励まされた。
合格した暁には、必ず、何か、返していこうと誓った。

受験生のみなさん、
ぜひ、合格して、志を成し遂げてくださいね。




採用試験の直前に




論作文は、よい見本をたくさん読み、自分の中に貯蓄するのがよい。

書店に並んでいる参考書の中には、

「こう書くのは、よくない」
という論を、これでもか、と長くたくさん並べているものがある。
これはよくない。
なぜか。
読む側に、ヒントになりにくい。

受験生は、ホンモノを知り、これで合格できる、というものに出会いたいのである。
こんなことではダメだ!という文章ばかり読まされても、

「では、何を、どう書けばよいのか?」

と、呆然とするばかりだ。

「ははあ、こんな文章ではダメなんだな」

(内心の独白・・・オレも、しょせんはこの程度。これよりもうまく書ける自信もない。だからこんな参考書を読んでいるのに・・・。この文では、C評価か・・・。おれも、おそらく、C評価なんだろうな・・・。落ちるかもな・・・。)

こんなことになっていないだろうか。

ところが驚くべし!
書店に並んでいる、
「これで合格!論作文対策!」という本の、ほとんどが、こうした類である。

ぜひ、本当に合格した人の文を読んで欲しい。



参考までに、こんな一文が、採点者のハートをつかむ!というキャッチを覚えておくとよい。

「私は、児童が何でも話せるような存在になる」

「私はすべての子どもたちに「わかる喜び」を与えたい。この考えのもと、児童の学力の向上を図るため、以下のことを実践する」

「私は、学習の本質は、学ぶ楽しさやわかる喜びを体感することにある、と考えている。」

「児童が頑張ろうとする姿に惜しみなく賞賛と励ましをおくる」

「クラスの悪い点は時に叱り正すことは必要だが、それ以上に今、児童が持っている良さややろうとする意欲に目をむけ、励まして行くことで、クラスの空気を温かみのある共感的な空気へ変えていく。」



今ふりかえると、もっと工夫できる文だと思うが、
受験当時、私が数少ない論作文添削を受けた中で、「よい」と評価された箇所を公開した。ご参考まで。

あと少し。
最後まで、あきらめずに、がんばってください!!
(はやく寝てくださいね!)




笑顔トレーニング




笑顔が足りない。

嫁にも言われた。

「その顔、笑顔が向いていないよ。そもそも、笑顔って感じじゃないもの」

この言われよう・・・。
顔を、酷評された。



今日、笑顔を意識してみました。
口角をあげ、目をほそめて、昨晩練習したように、心の中で、
「ウイスキー」と言うのです。

効果がありました!!!


Aをすると、Bとなる。
それは思い込みで、いくつかの要素のうちの、一つでしかない。
笑顔がすべてを解決する、と思いたいところだが、事実はちがう。

しかし、それくらいしか、やることがないし・・・。
せいぜい、そんな努力でもしなければ、と思う。


表情の筋肉は、そのほとんどが、口の周りの筋肉と直結しているらしい。
つまり、口の周りの筋肉を鍛えることで、ほぼ表情全体の筋肉に影響を及ぼすことができる。
言い換えれば、表情を豊かにすることができる。


早朝のラジオ、「おはよう一直線」のパーソナリティ、生島さんは、毎朝、びっくりした顔で耳を引っ張る、という運動をしているらしい。
それを、彼は、
「びっくり顔の耳ひっぱり」と言っていた。

もう7年以上前、早朝から車通勤していた時期がある。
「おはよう一直線」が、朝の楽しみであった。


よし、笑顔のトレーニングだ。
笑顔のコンテストにでも出てみようかしら。毎朝、20分早く起きて、表情トレーニングをしよう!

(つづくかしらん)




シュタイナー12年間の学び




4年生の学習では、動物を学ぶという。
5年生では植物を学び、6年生では鉱物を学ぶとのこと。

例外なく、6年生くらいの子になると、鉱物が大好きになる、という。

本当だろうか。

しかし、この学園の先生たちが経験上、口をそろえてこうしたことを言い、確信の元に、カリキュラムをつくっているのだ。
なにか、あるだろう、と思う。

授業に四苦八苦していると、いろんな情報を知りたくなる。
いろんな見方や考え方があり、どれが最高ということはない。
しかし、なんらか、情報として自分に入れておこうという気になる。
それらはすべて、単なる情報でしかない。
だから、通過してしまう。
ほとんど、残ることはない。

しかし、そうした情報を、あたかも食べて消化するかのように、自分の中に通過させていく過程で、自分の中の、センサーが動いていることが分かる。

「本当はどうか」

本当。
本物。
人間として、普遍的なこと。
人間の成長、ひととしての成長の上で、すべて、欠くことのできない、理(ことわり)。

すべての人間が、あてはまる、真理。

たとえば、ほめる、ということ。

ほめる、ということが、まだ、わからない。

口だけでほめる、ということ。
形だけほめる、ということ。
態度でほめる、ということ。
それぞれ、自分が、何をしているのか、本当に分かっているのか、という自問。

自分はほめている、つもりでも・・・・。




試験・論作文のコツ ~情に訴える~




論作文のコツ。

自分が、どのような学級経営をするのか。
どのように児童と接していくのか。
どのように学習指導を行うか。
また、生活面の指導をどうするのか。

こうした具体的なことを書かねばならない。


さらに、真髄をつくコツが、これ。

そうした、具体的な場面を書く前に、
序論のところで、自分がなぜ教師をめざすのか、簡単に、数行程度でふれるとよい。


さらに、
本当の、本当のコツが、ある。


その、なぜ教師をめざすのか、という理由のところに、

○わたしは周囲の人、あるいは教師に、あるいは校長に、認められ、応援されている

ということを、ニュアンスで入れてやる。


「・・・私は教育実習先でお世話になったA先生に、あなたなら一緒に学年を組みたい、と最高の励ましの言葉をいっていただいた。そして、A先生のように夢や希望を与えられる教師になりたいという一心でこれまで生きてきた。私は児童のよさを見つけられるように、以下のように学習指導を充実させる。・・・」

あるいは、

「・・・私は自分が小学生だった時、担任のA先生に、将来A先生のようになりたい、という夢を話したことがある。するとA先生は、あなたなら必ずなれる、大丈夫、と応援してくださった。「十年後、職員室で会いましょうね」という言葉にどれだけ励まされたことか。私はA先生のように、児童のよさを見つけられる教師になろうと思い、生きてきた。そのために、以下のように学習や生活の指導を充実させていく。・・・」


事実、こうしたことがなければ書けないが、思い出してみて欲しい。
もし、教師から応援していただいた言葉が思い当たらなければ、以前の職場の先輩や上司、あるいはボランティア先の方など、いわゆる一般的な社会で活躍する人にだって、応援していただいていることを書いたらよい。

人は、応援してもらっている人を、応援したくなるのだ。
応援が、応援を呼ぶ。
これは、人の、情である。

情に訴えかける、論作文を書こう。




授業の進度が遅いというクレーム




児童が、何でもやりたい放題、勝手な行動をとるようになる。
授業中の立ち歩きが平気になってしまう。

とても授業どころではない。
授業の進度が、当然、遅れる。

保護者から、

「このクラスだけ、授業の進度が遅いようだ。どうなっているのか」

とクレームが来る。


・・・・こうした場合、どう切り返していくか。


初任者の仲間たちで、どうするか、話し合った。
初任者研修の、合同グループ討議が始まったのだ。

ところが、このグループ討議の最中、すすり泣く声がする。
見ると、ハンカチで顔を覆い、泣いている女性が一人、視界に入った。


提示された課題が、・・・身につまされるのだ。
まさに、自分が置かれている状況だからか。
話を聞いてみると、つい先だって、まさに同じことが起きた、という。
校長以下、管理職が守ってくれたわけではない。

「○○さんもがんばっていることは分かる」

というなぐさめの言葉はあった。
でも、学級をどうしていったらよいか、具体的なアドバイスや行動は、皆無だった。

年配の学年主任に、
「結局、あなたが担任なんだから」
と言われたそうだ。

初任だからといって、甘いことは言ってられない。
その主任の方の気持ちも、分かる気がする。
しかし、今、一番弱っているのは、彼女だ。初任の、何も分からないまま、現場に立ちすくんでいる、彼女なのだ。

保護者からのクレームが、どれだけの影響があるものなのか、それすら分からない。
ただただ、自分がいけないのだ、と思う。
なんとか打破できる、という自信はない。不安のかたまりだ。
それでもなんとかしなければ、と思うが、緊張で心臓が飛び出しそう。
どうすればよいのか、途方に暮れるから、余計に、頭が働かない・・・。


その彼女に対して、甘いことはできない、と放っておいている。

何年か、現場を経験すれば、
「いろんな保護者がいるから」
「なんだかんだいっても、夏休みがくるし、1年だってあっという間に終わるよ」
「どれだけがんばったって、まともに見てくれる保護者は、所詮、そうはいないものだ」
「内容をできるだけ削って、とばしていけば、まだなんとかなる」

いろんな思いも湧いて来るだろう。

しかし、まだ、初任者なのだ。
未経験で、教壇に立ってしまった、初任者なのだ。

絶対に、してはならないことをした、というほどの、思いをいっぱいに抱えて、顔面蒼白、青息吐息である。

初任者研修のグループ討議が、なんともいえない空気に包まれる。

学級の荒れている様子を聞く。
すさまじい。
授業はおろか、教室を正常な状態に保つことすら出来ていないのだという。
給食の後、掃除をしない子どもたちの前で、ひたすらこぼれた汁を拭く、という。
牛乳のパックが、教室のあちこちに放置されている。
それも、中身の入ったまま。
無言で片付ける教師。
手伝おうとする子も、いないのだそうだ。


顔を見合わせる十人のメンバー。
しかし、どの顔も、みんな、疲れていて、
明日はわが身、と思いながら、聞いているのだ。

だから。

下手ななぐさめの言葉もなかったし、
「なんとかなるよ」というような、無責任な言葉かけも、無かった。

ただただ、
「あと、20日です。最低限のことをできるだけやって、夏休みになるのを待ちましょうよ」

という感じの話ばかりだった。


ハンカチをとると、泣きはらした目で、みなさんありがとうございました、と礼を述べていらしたが、またそれが、痛々しい。
なんともいえない沈痛な表情で帰ることになり、無口のスーツ姿の男女が、何十人も会場を立ち去る姿がまた、この集団の、あまり明るくない将来を暗示しているかのようであった。


初任者研修は、きびしい現実に直面する場だ。

歯を食いしばって、歩き続けなければならない。
身を硬くして、立ち向かっていかねばならない。
それをあからさまに知って、それとは正反対の、自分の自信のなさにも直面して・・・。

初任者研修。

ようやく、その意義が、見えてきた気がする。




リニモへの思い




リニモに乗った。

小さな頃、小学生の頃、「未来の超特急!」と思っていた、リニアモーターカー。

それが、現実になっている。

ただ、超特急で走るものではなく、ごくふつうに、通勤や生活の便利な道具として。


愛知県長久手市。

万博、「愛・地球博」が開催される頃、リニモは登場した。

初めて乗るときの感動。
いっしょに乗った乗客たち。
息を詰める、といった感じの、車内。

大勢の人が、満席で、立っている人も大勢いたのに、車内はおどろくほど、静かだった。

みんな、感動しながら、目を凝らして窓の外を見つめていた。

スーッと、流れるように車が動く。
だれも、身じろぎしない。
音がしない。
あまりの静けさに、顔がにやけてくる。

藤が丘の駅を出発し、しばらくして、地下から地上へ出る。
風景ががらりと変わり、まるで高速道路を走っているかのように、家屋やビルの上を走っていく。

そんなリニモにも、もう何度乗ったことか。


愛・地球博記念公園へ行った。
朝起きて、ふと、その気になって行ける距離だ。

温水プールがある。
4歳児を連れて、波のくるゾーンで遊ぶ。


たまの休日。
親子で、のんびりすごすのが、いい。

1学期も折り返し地点を過ぎ、まもなく成績のシーズン。
疲れもピークだ。
身体に蓄積された疲労が、抜けずに、たまっていく。

モリコロパークで、リフレッシュ。
たまにはゆっくり、学級を忘れて、ボーっとすることも必要なんじゃないかなあ・・・。

・・・と、自分に言い聞かせた一日だった。


(保護者に会わなくて、よかったなあ!!!)




A子を守れ!




帰りの会で、またボスの攻撃。

「先生!A子がそうじの時間に、ぞうきんを足でふいていました。」

ボスが、どうしてもA子をつぶしたいらしい。
ぎゃふんと言わさなければ、ということのようだ。

A子はたしかに、ちょこまかしていて、口もある程度、達者である。
また、クラスの人間関係にあまり敏感でない。
つまり、ボスに一歩譲る、という関係を持っていない。

他の子は、ボスに従っている。
ボスの一言に、敏感な女子が多い。
ボスとほどよく距離を置いているのが、かしこいやり方、と心得ている。

ところが、A子はそうではない。
元来、わがままなのだ。
だから、ボスに対して、一歩ひく、ということをしない。
ボスは、それが目障りでしょうがないらしい。

A子が、ボスにおべっかを使い始めたら、本当にこわいことだが、今はそうでない。
クラスの人間関係が、固定化されていくのがこわい。
ボスを、どこかでつぶす必要がある。
それは、卑怯なまねをしたとき。
卑怯は許せない、というメッセージを、教室で浸透させておく必要がある。
作戦が必要だ。

当面は、ボスをつぶす前に、A子を助けておかねばならない。
すくなくとも、ボスがこれ以上、巨大化、強力化するのをふせがねばならない。
ボスから、子分を、ひとりずつ、しずかに剥がしていかねばならない。
ボスのいいかげんさ、ボスの身勝手さ、を、あぶりだしていかねばならない。

そこで、

「これまでに、ぞうきんを足でふんだことのない人、手を挙げなさい」

というと、なんとボスが手をあげない。

そうなのだ。
ボスが一度、ぞうきんを足でこすっていたのを、私が叱っている。
このあたりが、ボスの正直なところで、私が大好きな点だ。
まだ、4年生なのだ。
高学年になったら、シャアシャアと、うそをつく子もいるが、ボスは正直だ。いいなあ。

他にも、同じく雑巾を足でふんでいた、という子がいる。全部で3人。
再度、念を押す。

「4年生になって、一回でも、たった一度でも、ぞうきんを手で持ってふかずに、足で扱った人、立ちなさい。」

「先生、一回でも?」
「もちろんです」

すると、さらに1名、起立する。

「正直だネエ。すばらしい。立たなかったら、○○さんは所詮そんな程度で、平気でうそつくんだな、と思っていたところです。でも、正直に立ちましたネエ。すごく好きです。」

後から立った男子、えへへ、という感じだ。

そこで、全員に、

「ぞうきんは、手で使います。足で使う人は、本当にそうじをやったうちには入りません。全員でしっかりそうじをします。次からは気をつけます、と言いなさい」

と簡単に言わせて、サッと切り替えた。

少なくとも、A子だけを叱る場面は防ぐことができた。
さらに、ボスも起立していたところを、みんなが見た。

「なあんだ」

と、声には出さないが、思ったはずだ。
正直で、まじめで、おとなしめの女の子たちの視線に、背を丸めて立つボスの姿が、目に焼きついたはずだ。

こうしたことを、積み重ねて行く必要がある。

ボスとの格闘に、だんじて、負けるわけには行かない。




教員採用試験面接の答え方




まもなく採用試験だ。
面接でのシーンを思い出したので、書いておく。

愛知の1次試験。
集団面接。

こんな質問があった。

「これだけはやってみたい、という授業はありますか」

よい質問だと思う。
とっさに、出てくる人と、そうでない人がいた。
考えがある人、あらかじめ考えていた人は出てくる。
しかし、出てこないので、本当に返答に四苦八苦していた人もいた。
冷や汗が出た。

この質問の返答の仕方が、明暗を分けた。
集団面接は、6人のグループだった。
こんなことを言っては申し訳ないが、隣で聞いていて、
「内容がないな」
と感じた人は、ことごとく落ちたようであった。連番だったので、同じ受験者の大体の番号が分かる。
1次試験の合格通知、結果を確認してみると、うまく答えた人の番号だけが掲載されていた。この質問が、本当に分かれ目、だったのだ。


これだけはやってみたい、というニュアンスがくせものである。
授業というのは、指導要領にそったことをやる。
あらかじめ、決まっていることをするのだから、どんな授業をしたいか、ということであれば、
「指導要領にしたがって、児童に学ばせる必要があることを、きちんと学ばせる授業をしたいです」
というのが正答だ。

しかし、
「これだけは教師人生をかけて、ぜったいにやってみたい!」
と思うような授業があるか、という質問なのだ。

そんなニュアンスで聞かれるから、どぎまぎしてしまって、
「あの、その・・・」
と、ろくに返答できない受験者が多い。

今なら、どうこたえるだろうか。

たとえば、

○国語です。暗唱をします。まじめに覚える子をほめられるからです。まじめに努力する子が正当に評価されるクラス、学級をつくりたいと思うからです。暗唱することで、よい文にふれ、語句の使い方や言い回しを覚えることができます。これは、文を書く力を育むことになると考えます。古典や文化に親しみを覚える児童が増えることも期待できます。

どんな内容でもよいから、はっきりと、こうです、と言えるか。
それに理由をしっかりと言えるか。
この回答の裏に、どんな学級をめざすのか、というねらいが垣間見えるか。


いっしょに受験した仲間で、
○子どもたち全員にオーケストラの指揮をさせたいです
○鶏をさばいたり、牛を飼ったりする授業がしたいです
○オリンピックの選手を呼ぶなど、子どもの夢を育む授業がしたいです

というような、ファインプレー的な、あっと言わすような回答をした受験者はみな落ち、国語とか算数とか理科とかの地道な話を、素朴にして、子どもに学習の力をつけたい、という回答をしていた人が、みな受かっていた。たまたま、偶然かもしれないが・・・。
(試験官によっても、受け取り方や評価が多少は異なるでしょう)

ともあれ、採用試験の面接、1次からの自治体が多いようだ。
昨年の今頃は、私も、過去問をとくなどして、準備をしていた。
熱意と周到な準備があれば、大丈夫。

『努力は人を裏切らない。』

これは、オリンピック金メダリスト、ヤワラちゃんこと、柔道の谷 亮子選手が、テレビのインタビューで答えていた言葉だ。受験時代に聞いて、とても印象に残った。

受験生のみなさん、ぜひ、がんばってください。




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