3学期の音楽。
4年生は、グリーグ作曲の「ペールギュント組曲」の鑑賞、がある。
ペールギュントの物語は、イプセンの戯曲が元、となっている。
1)怠け者のペールは、母親と二人暮らしの男。
2)純情なソルヴェイと恋におちる。
3)ところがかつての恋人イングリを結婚式場から連れ去るなど、ひどい男である。
4)森の中をさまよううちに、緑色の服を着た女と出会う。
5)女の実家に行くと、そこはなんと魔王の宮殿。女は魔王の娘だった!
⇒ 「ドヴレ山の魔王の広間にて」第二幕、8曲目。
6)ほうほうの体で逃げ出し、国外(アフリカ)へ行って大儲け。
⇒ 「朝の気分(朝のすがすがしさ)」第四幕、13曲目。
7)4人の男に騙されて、一文無しに。
8)ところが砂漠で盗賊の金貨にありつき、金持ちに。
9)しかし、惚れた女に騙されてすべて取られる。
10)嘆きのうちに、夢の中で恋人ソルヴェイの讃美歌を聞く。
11)必死に帰国する。難破してもくじげずに・・・。
12)なんとか帰国すると、なんと恋人ソルヴェイが彼を待っていた。盲目になりながらも・・・。
13)ソルヴェイのひざの上で眠るように死んでいくペール。そこへ、かつて聞いたことのある、ソルヴェイの讃美歌が聞こえてくる。
⇒ 「ソルヴェイ(ソルヴェイグ)の子守唄」第五幕、26曲目。
教科書会社の資料に添付されてきたCDには、
上記のうちの、3曲が入っている。
つまり、
⇒ 「ドヴレ山の魔王の広間にて」第二幕、8曲目。
⇒ 「朝の気分(朝のすがすがしさ)」第四幕、13曲目。
⇒ 「ソルヴェイ(ソルヴェイグ)の子守唄」第五幕、26曲目。
この3曲である。
この3曲を、ただ聞くのでなく、
魔王の宮殿!と思いながら聞いていると、さらに臨場感が湧く。
また、
朝の気分だ!と思うと、朝やけの光景までがイメージに浮かんでくる。
かつての恋人、何十年も男を待ち続けた女性の、歌声だ、と思うと、そのことの大きさに、なんとも真に迫ってくる思いのする、歌声である。
この3曲、よく選んだな、と思う。
さすが教科書、である。
3学期の授業。
この教材、物語を使って、どのように、子どもたちの「鑑賞意欲」を刺激する授業が展開できるか、楽しみだ。
これまた、初任者研修での よもやま噺(ばなし)。
ある初任者仲間の言うのには、その学校は、環境教育の一環として、
「リサイクル」
を行っているらしい。
「まだやってるんだ」
「行政がやってる仕組みを教えた方がいいんじゃない」
いろいろと意見が飛び交う中、話には、意外なつづき があった。
「ところが、リサイクルの日になると・・・」
朝、環境委員会が、玄関のところで、リサイクルを呼びかける。
1年生が黄色い帽子をかぶって、元気に登校する。
「おはようございます!」
委員会の仕事は高学年だ。
おにいちゃん、おねえちゃんたちに向かって、元気にあいさつをしてくれる。
ほほえましい。
異年齢交流、などという好ましい単語が、頭をよぎる。
ところが、おかしいな、と思うのだ。
クンクン・・・
なにか、へんなにおいしない・・・
高学年は、またか、と思う。
つまり、1年生が、酒臭いのだ。
アルコール臭を、ぷんぷんさせて、ビールのアルミ缶の入った袋を手に提げてくる。
くさいので、その袋を、腕で前に突き出すようにして、持ってくる。
はーい、ありがとう。
受け取ったアルミ缶は、カンをつぶす、専用の機械で、高学年がつぶしはじめる。
足でペダルを踏むと、アルミ缶がかんたんにつぶれる、便利な道具だ。
導入は、アルミ缶のリサイクル運動が叫ばれた、10年以上前だという。
COP3の頃だろうか。
あるいは、リオの地球サミットのころか?
高学年がいよいよアルミ缶をつぶす。
アルミ缶といっても、要するに、ビール缶、である。
いきおいよく、ペダルを踏む。
ぷしゅー!!!
これまた、いきよいよく、ビールの泡が、四方に飛び散る。
一気に、学校の昇降口、つまり玄関付近はアルコール臭くなる。
1年生は、それをみて、眉間にしわをよせ、
「くさい!」
と言いながら、小走りで教室へ逃げていく。
高学年は、良心の痛みを感じながら、あいまいな微笑で、それを見送るのだ。
「ごめんね」
「だから、ビールの泡をとばすなって、言ったろ!」
高学年はお互いに口喧嘩を始めてしまう。
1年生の先生が、心配で見に来る。
「ほら、○○ちゃん、早く行こうね、ソラソラ・・・」
1年生の背中を押しながら、すばやく教室へ連れて行く。
次の1年生も、ビール缶。
アサヒだ。
次の2年生は、キリン。
ビール缶が多い。
ビール缶だけを禁止したら?
酒類は全面禁止だよね。
「いや、それだとまったく集まらなくて、つぶす機械がもったいないってんで、ビールも、やはりアリ・・・、なんだよ」
と、勤務校の先輩が教えてくれる。
しかし、つぶす機械を運転することが必要だからって・・・。
なんとしてでも、酒であってもビール缶であっても、是が非でも集めねばならないとは、いったいなんという仕組みであろう。
「PTAからもさ、缶を学校が集めてくれるから、便利で助かるって・・・」
朝、母親が、
「○○ちゃん、これ!今日、リサイクルでしょ!」
素直な低学年は、これに逆らえない。
高学年がほとんどリサイクルデーに何も持ってこないのは、敏感で、やはり何かを感じているからだろう。また、母親に抵抗するだけの力があるのだろう。
素直な低学年は、めげずに、母親から手渡されたビール缶を学校へ運ぶ。
学校のリサイクルデーは、家庭ではごみの日。ビール缶を、捨てる日、なのだ。
いや、問題はそこではない。
いったんやりはじまった、「よいこと」は、ストップが効かないのだ。
やめる、ということ。
やめる、という勇気。
今、学校に必要なのは、その勇気だ。
行事を、半分に減らそう。
学校スリム化。
必要だということは、みんな分かっている。(でもできない)
前回、学級の懇談会に犬が登場した話を書いた。
そのときは、廊下でキャンキャンと吠えたので、飼い主がすぐに帰宅したのだが、しばらくして、実際に本当に来たらしい。
これは初任者の会合で、続報を聞いた。
みんな、心待ちにしていたらしく、顔を合わすなり、
「そういえば、この間の話・・・」
とすぐに話題になっていた。
そこで、話の本人が言うのには、
翌日に再度、親から面接の日程をうかがう電話が入り、数日後、再度、登場したとのこと。
もちろん、散歩の途中である。
犬の散歩は、非常に重要だからだろう。
まさか、わが子の話よりも、犬の話ばかりだったんじゃ・・・
そんなことないよね・・・
みんなが期待したとおり、半分以上、犬の話だったそうである。
エー!!!
犬の方が、大事かよ!!! ←(みんな、同時にツッコミました)
2学期の給食、最終日を迎えた。
最終日のお楽しみは、「セレクト給食」である。
セレクト、とは、選ぶ、ということ。
2週間ほど前に、児童から希望をとった。
A: てりやきハンバーグ
B: てきやきチキン
このどちらかを、選択できるのだ。
さらに、飲み物。
A:りんごジュース
B:コーヒー牛乳
好きな方を、どちらでも選ぶことができるので、子どもも興奮状態であった。
「先生!おれ、てりやき希望だったのに!」
という、意見の食い違いをふせぐために、黒板には拡大した希望用紙の集計表がある。
給食当番が、
「○○さん、○○さん、・・・」
と、つづけて呼ぶ。
先にハンバーグを配るので、ハンバーグ希望者の名前を片端から呼んでいるのだ。
みんなの、真剣な表情と、いざ食べはじめたときのうれしそうな表情。
いいなあ、セレクト給食!
もりあがるもの。
それはそうと、これは昨日のこと。
今日は、給食がなかった。短縮授業で、子どもは昼過ぎにすぐ帰宅、である。
すると、帰宅前に、
「先生、いっしょにお昼たべよう」
と、子どもから声がかかった。
「ねえ先生、職員室で食べるの」 Sが訊く。
つづいて、仲良しのY さんが、
「昼はお弁当?」
ちゃんと答えるんだよ、というような表情。
「先生、奥さんがつくってくれたの?」
いろいろと、質問があいつぐなか、Sさんたち数人が、先生といっしょにお昼を食べるのだ、とやる気まんまん、である。
すぐに弁当つくってくるから。
そう言って、本当に弁当をもってきた。
しょうがないなあ、と言いつつ、会議室に子どもらを連れていく。
そこで、なにをするでもなく、ただ
「じゃあ、いただきます、だ。食べよう」
と、お互いにもってきた弁当をひろげて食べ始めた。
私も、買った弁当であったが、いっしょに食べ始めたのだが、そのときの子どもたちの会話が、なんとも初めて聞くようなニュアンスで、新鮮だった。
学校で、ざわつく教室で、しゃべっている様子と、ちがうのである。
この子は、こんなに静かにしゃべる子だったのか。
静かだけれど、昨日見たテレビの話を、あきることなく、話している。
たまに、おもしろくてお互いに笑いあう。
その感じも、いつもは感じたことのない、なんだかかわいらしい、幼いような表情で見えるのだ。
学校、という鎧をぬいで、しょっている看板をはずし、互いに向き合った。
一人の37歳の男と、10歳の男たち。
「レッドカーペットがいちばんおもろいよ」
「ぷっすまだよ」
「はねとびは、興味、なくなった」
「ほんと?」
「おれは見てる」
こんなたわいない会話が続いた。
なんだか、これまで感じたことのない、新しい感覚。
うまく説明できない。
ただ、お互いに、用もなく、共に、いる、という感じか。
ともかくも、どこからともなく楽しく、心がうきうきする時間だった。
なんだったのだろう。
自分の知り合いで、いわゆる有名になった人物というのはそうはいないが、ある人は、モデルとして商品に写真が掲載された。
そして、その写真が、数多くの製品と一緒に世間に大量に出回っている。
それは、パッチンしぼり、という100円商品と、これまた100円のたばこのポケット吸い殻入れ。
パッチンしぼり、というのは、いったい何を止めるのかというと、それこそなんでも止められるのである。プラスチックの樹脂でできたその製品は、ビニールの口を密封したり、あるいはまた、わさび・からし・歯磨き粉・洗顔クリーム等のチューブ製品を最後まで絞りきることができる、大変に優れた発明品なのである(そうである)。
また、たばこの吸い殻入れ、というのは、熱に強いアルミ加工のしてある小さな小銭入れのようなポケットであり、ここにその名の通り、たばこの吸い殻を入れるのである。近くに灰皿が見当たらないときにだって、これがあれば、遠慮せずにたばこが吸える。これまた、たいした発明品なのである(そうである。・・・友人談)
知人は、その商品に写真で登場し、ビニール袋をパッチンと止めてみせたり、あるいはたばこの吸い殻を、そのポケットで消してみせたりしている。
ただし、写っているのは、彼女の「手」だけである。
「手」だけとはいえ、一つ一つの製品に、かならずその「手」は登場しているのだ。
なにしろ、何万個という商品の単位である。
商品の流通にともない、彼女の写真も同じ数だけ、世の中に流通していることになる。
ただ、世の人はそれが何か知りもしないし、興味も湧かないだろうが。
彼女は、包丁をきれいにスピーディーに研ぐ道具のCMにも登場している。それは、B4の大きさの商品パンフレットなのであるが、彼女の手がその道具を器用に扱っているシーンが、写真で掲載されている。
ここでも、彼女の登場は、手だけである。
人は、この手の持ち主(?)などには、興味を抱かないであろう。
購入する側にとっては、その商品が満足できる機能を果たすかどうか、という点にのみ関心を寄せるのであろうから。
しかし、私のように彼女を知る人間にとっては、商品よりも、その広告に使われた手の方に、興味がいく。
そうして、自宅にある商品のパッケージを見ながら、まるで彼女からなつかしい便りをもらったような、不思議な感覚にとらわれる。
「どう?そちらは。元気にやってる?わたしは、ほら、このとおり、元気でやってるよ」
商品広告の中の「手」から、そんな彼女の声が聞えてくるような、はなはだ、おもしろい感じがする。(だからずっと、使わないで置いてあるのだが・・・)
皇后さまが、インドのある会合でビデオ講演されたらしい。
そこで、子供時代の読書の思い出、を語られたそうである。
日本のテレビでも放映されたそうなので、ご覧になられた方も多いだろう。
その英語の講演はずいぶんと格調高いものであった、そうであるが、(これは私の職場の先輩いわく)
その話の最後に、こういう言葉をもって、しめくくられたそうである。
子供達が,自分の中に,しっかりとした根を持つために
子供達が,喜びと想像の強い翼を持つために
子供達が,痛みを伴う愛を知るために
そして,子供達が人生の複雑さに耐え,それぞれに与えられた人生を受け入れて生き, やがて一人一人,私共全てのふるさとであるこの地球で,平和の道具となっていくために。
・・・というのだ。
せっかくなので、英語の原文を。
So that children have firm roots within themselves ;
So that children have strong wings of joy and of imagination ;
So that children know love, accepting that at times love calls for pain ;
So that children see and face the challenge of life's complexities, fully taking on the life given to each, and finally, upon this earth which is our common home, become, one day, true instruments of peace.
どうであろう。
これが、読書が人間をつくる、というお話の、最後の締め、であったのだ。
皇后さまは、3人の子に、読み聞かせをしていた時間が、人生のうちでも、本当にしあわせなひと時であった、ということも述べられている。
職員室でこの文を読んでから、帰宅して、すぐに子どもに、読み聞かせをしたくなりました。
・・・ということは、やはり、教室の子どもたちにも、読み聞かせをするって、ことだナ。
初任者の仲間とひさしぶりに会った。
2学期もおしせまった、という時期にもかかわらず、他校で初任者の研究発表があったのだ。
「忙しい時期になってしまったねえ」
と言いながら、指導主事の先生も来られて、
「しっかり準備させてもらったから、この時期ならではの授業するからね」
と、発表者の代弁をしていらした。
発表者になっている、同じ初任仲間の先生。
われわれの控え室に挨拶にこられて、いやあ、と頭をかいている。
「がんばってください」
「緊張しますよ」
しかし緊張している様子でありながらも、その後、やはり子どもたちと一緒になって掃除をしている姿には自信もうかがえる。
堂々と、子どもたちに指示し、テキパキと自身も清掃に取り組んでおられる。
日頃の姿なんだろうな、と感心してみていた。
同じ初任仲間が、こうして授業をする機会がある。
それを見させてもらえる。とても新鮮な気持ちだ。
教室の掲示を、他の仲間と共に見ている。
工夫がある。
なるほど、と思うこと。メモをする。
すると、指導主事が来て、
「感心、感心。同じ仲間から学ぶことって、多いよね」
と声をかけてくださる。
こうして声をかけてくださる姿勢こそ、われわれが学ぶことなのだろうと感じる。
さて、このときの授業はとても学ぶことが多かったのだが、話はこれで終わらない。
この授業後の話し合いのあと、雑談風になったときのこと。
「先日、ついに、と思うことがありました」
と、ニヤニヤしながら、初任の仲間が話し始めた。
なにが、『ついに』なのか、と思って聞いていたのだが、これがすごい。
個人懇談の週。
学校に、かわるがわる、時間約束をしていた父母が面談に訪れる。
教室の前に用意された机とイスに腰をかける保護者。
教室には教師がいくつかの資料を用意し、個別の保護者と20分きざみのスケジュールで、懇談をしていく。
すると、ある保護者との面談の途中で、廊下の方から、オヤ?と首をひねるような音。
キャン!
なんの音だ?
と思っていると、
つづいて、
「シッ!しずかに!」
と声がした。
ますます、なんだろう、と思っていると、さらに大きなボリュームで、
「キャンキャン!!キャン!キャウーン!!」
と音が!!!
なんだ、なんだ?と、面談中の親と顔を見合せて首をひねっていると、
教室うしろの扉がガラッと開き、
「すみませ~ん。ちょっとうるさくしちゃったんで、パスして帰りま~す」
と、若い母親が顔を出した、という。
その後ろに、首輪につながれた、一匹の茶色いチワワ。
散歩の途中で、個人懇談に立ち寄った、ということであった。
それを聞いて、指導主事も笑い転げ、
「ついに、ねえー!」
「ははあ、ついに、ねえ」
「犬まで来たか」
「落ちたもんだねえ、懇談会も」
「散歩の途中かあ」
教師としては、
ここまでなめられたか、
という思いなのだろう。
それが
「ついに」
という言葉になって、みんなのため息をさそったのだろう、と思われた。
4年生。
もうとっくの昔に、わり算はおわってなくてはならない。
しかし、うちのクラスは、わり算が終わらない。
ためしに、テスト問題をみて、似たような問題を出してみるが、
「むずかしい」
「できない」
の反応。
これではいかん、と奮起し、主任と相談して作成したプリントを配布。
準備体操を怠りなく進めてきたつもりだのに・・・。
反省。
出発点において、今回の目標、ゴールがしっかりとえがけていなかったこと。
宿題に出すのを躊躇していたこと。
どうせ宿題はやってこないし・・・と逃げ腰だったのがイタイ。
もっとハッパをかけて、全員、やってこさせむ!!と握りこぶしを突き上げておくべきだった。
風邪をひいてしまった。
声が出せない。
そこで、画用紙半分に、油性ペンで指示を書き、授業を進めた。
すると、めずらしいのか、思いのほか、集中してくれる。
(これを読んで!)
という意味で、カードをふると、それを全員で声をそろえて読んでくれる。
全員でそろうのがすばらしい。
いつもよりも、もっとよい。
1時間目にそれをやり、2時間目には手持ちのカードが少なくなってきた。
というのは、ほめる言葉をたくさん書き足したのだ。
最初にあったのは、
「口をとじます」
「前を見ます」
「すわる」
などの指示ことばをカードに書いた。
あとで必要だと思い直し、加えたのが、
「すばらしい」
「きちんとしている」
「ていねい」
「そのとおり」
という言葉カード。
「そのとおり」を何度も使った。
マスクを外して、何度も実際の声で言おうとしたが、のどがつまって、声が出ない。
学校を早退する。
年休をひさしぶりにとった。
学期末、あわただしい中、学校を休むわけにはいかない。
体力勝負。
今から、薬をのんで、寝ます。
大学中退、ということに、なんら引け目を感じなくなった。
それは、やはり正規採用となれたことが大きい。
民間企業では、大学中退、すなわち高卒、という肩書はどううつるのだろう。
私はあまり学歴は重視されない零細?企業で勤めたので、そこのところがよくわからない。
ひとつ言えるのは、学校という公的機関では、大学中退というのはそれほど重要視されず、きちんと就職させてもらえた、ということだ。(もちろん給与などの面で違いはある)
公的機関にとっては、なにより大事なのは、資格の有無である。
基準さえ満たせていれば、きちんと教師として雇ってもらえる。
逆にいえば、「相手の提示する基準」さえ満たせば、就職できるのだ。
なぜこんなことを書くかというと、職員室で相談されたからだ。
職場の先輩、年配の先生に、
「うちの息子のことなんだけどサ・・・」
と相談があった。
つまり、大学に出席せず、まあアルバイトに精を出すかと思えば、不登校(?)のような状態が続き、とうとう中退するかどうか、というところにまでいってしまった、というのだ。
学生の本分を忘れて・・・と、先輩は言っていたが、ようするに、もともとあまり行く目的もなかった、ということらしい。
親としての心配は、
「この子はきちんと自立できるだろうか」
ということである。
この場合の自立は、ようするに
1)自分で生活できる
ということである。
それは言いかえれば、自分で社会に出て人の役にたつ仕事をし、タックスペイヤーになれるか(社会的に認められるか)、とういうことだ。
そこで、どうやらあやしい経歴をもつ、この私に相談をもちかけた、ということらしい。
まあ、比較的私の方がまだ若いので、聞いてみた、ということなのだろう。
(あまり、他に若い人がいないから)
それで、こう答えた。
・学歴はいつでも変更可能→ あとから思い直して通信制大学(通常と同じ学士の資格ももらえる)もいける。もしくは、大学等で科目等履修生として所定の単位を修得したのち、審査(申請書類、学修成果、試験)を通じて学位を取得できるシステムもある。(「大学評価・学位授与機構」での学位取得。)履歴に引け目を感じるのであれば、学歴を変えていくこともできる。
・学位は資格のうちのひとつとわりきる→ 学位がなくても二種の教員免許が取得でき、学級担任もできる。人生いろいろ。要る場合と要らない場合がある。こう考えると、教員というのは、比較的進みやすい道だと思う。民間企業では、「学位なし」は即ハネられることもあろうだろうから。
民間企業の面接で、通信制大学卒業のことを言ったところ、ユーキャンですか?といわれて絶句した友人がいたが、そんな程度の認識レベルの企業もある。
こういう話をすると、
「いざ中退してしまったら、他の人にどう思われるかが気になって、引っ込み思案の子になるんじゃないかと」
さすがに親ならではの心情。
愛を感じる。
子、というのには、少々トシがいきすぎているのではないか、と思うが、大学生になってヒゲが生えても、わが子は「子」なのだろう。
見たままの自分でしかない、と自分を受容するのは大きなテーマだ。
見た目の評価と決別し、自分は自分だと堂々とふるまえるのには時間がかかるのかもしれない。「見た目の評価」は、実は「親の評価」と似通っていたり、大きな影響を受けたりしているものだから、ようするに親離れをしていくことしかない。
この相談をもちかけた、先生自身の「大学中退」に対するイメージが変われば、もしかしたら子どもも楽になるかもしれないな、と少し思う。
しかし、渦中に居れば、気になるのがふつうの感覚なのだろう。
実際に、わたしも正規の教員になるまで、大学中退はなにかしら、心にひっかかるものがあった。一度採用試験に落ちたのは、大学中退だからだろうか、とか、いろいろとこじつけて考えたくなるものだからだ。
しかし、これだけは言える。
教員には、なれる!
ネバーギブアップ!
大学中退でも、教員になれる!
小学校教員資格認定試験もある!
なせば、成る!!!