30代転職組・新間草海先生の『叱らないでもいいですか』

We are the 99%。転職を繰り返し、漂流する人生からつかんだ「天職」と「困らない」生き方。
高卒資格のまま愛知の小学校教員になった筆者のスナイパー的学校日記。
『叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て』を標榜し、一人の人間として「素(す)」にもどり、素でいられる大人たちと共に、ありのままでいられる子どもたちを育てたいと願っています。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、そして、そこから、決して見失うことのない、本当に願っている社会をつくりだそう、とするものです。
新間草海(あらまそうかい)

問いを、ともかくたくさん出してみる【小3・モチモチの木】

問いを、ともかくたくさん出してみる。
これが、トレーニングになる、と多くの先生たちは考えます。

例えば「将来、自分は何がしたいのかな」と、考えることがあるとします。

この問いに対して、

では、考えましょう!

と、いきなり進めるのではない。
その辺が、どうやらポイントになりそうです。

「将来、自分は何がしたいのかな」

これを考えるために、考えやすくなるような作戦を立てよう。
というのが、常套手段です。
この問いに迫るための、いわば、ロードマップを計画します。

何がしたいか、

【の前に・・・】

と考えるわけです。

大きな問題をいきなり考えるのでなく、以下のような中くらいの大きさの問題を、考えてみましょう。

例えばですが、
【問い】ぼくの性格は?
【問い】僕が3歳の頃、夢中になったものは?
【問い】好きで得意なものは?
【問い】好きだけど苦手なものは?
【問い】これから10年後の社会はどうなってると思う?
【問い】自分の中で、誰かの役に立ちたいと思う割合は、10点満点で何点?

など。
いろいろ、考えてみよう、とするわけです。

つまり、大きな問いしかつくれない人と、さまざまな、それに近づいていくための中くらいの問いをつくれる人、さらに細かい問いをたてられる人とでは、得られる情報が、当然ながら違ってくる、ということです。

なので、国語でモチモチの木を学習するとき、大きな問いとして、
【問い】この話が好きか嫌いか

というのを、クラスみんなにアンケートを取りたい、という子がいたら、それを大きな問いと考えて、中くらいの問い、小さな問い、として、どんどん子どもに出させる。

すると、
【問い】この物語はハッピーエンドだと思うかどうか。

というのが、意見として出てくる。
好きか嫌いかをいきなり答えようとする前に、ちょっと待てよ、そもそもこれは良い話なのか?そうでもないのか?・・・。どっちだと思う?ということが、気になるわけです。

豆太が臆病を克服して強くなった、とは書かれていない。
最後はこれで、めでたし、めでたし、だと言えるのかどうか?

豆太はせっかく勇気を出せたのだ。
真夜中に、医者様を呼ぶため、たった1人で半道もある麓の村まで、行くことができた。
であれば、お話の最後は、豆太が自分の力を信じ、勇気を持った少年となり、それからはもう二度と、じさまを夜中にしょんべんで起こす事はなくなりましたとさ、で終わるべきだ。

ここまで考えてようやく、
【問い】このお話が好きか嫌いか
について、意見が言えるのでしょう。

あるいは、こんな問いも出されそうです。

【問い】豆太は本当に臆病なのか
【問い】どうして作者は、最後に再び、じさまぁと豆太に言わせるのか
【問い】モチモチの木をなぜ豆太は一瞬しか見ないのか

のように、子どもがどんどんと謎を見つけていく。

それらを討論してからですと、どの子も自分なりに、この物語を、好き!とか、嫌い!とか言えるようになる。それも、根拠を持って・・・。相手を納得させる理由を、胸を張って言えるわけ。

図工の鑑賞授業の手法と似てます。
というか、おそらく、見方や考え方は、かなり共通点がある。

雪がキラキラ光る、満月の夜のモチモチの木を、ぜひ見てみたい、と子どもが思うようになれば、さらに学習は広がりますね・・・。ワタシ、自分が子どもの頃、ホントにそう思ったもの。
ちょっと理科の方角かもしれんけど。

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問う力を育む教育へ、時代は変わる


学習指導要領という大きな義務教育の根幹をなす、ルールがあります。

ご承知の通り、時代とともに、子どもに対する教育の方法や指針は変わっています。
より時代に即した、合理的で社会全体に資するような、指針作りを行うのが国の務めであります。

その最新の動向はどうか。

このような話をすると、多くの方が、プログラミング教育ですか?とか、AIを教育に導入するのですか?のように聞いてくださいます。
今回は、それよりももっと元の部分、より、大元の方針についてです。

ズバリ結論を申し上げましょう。

それは、問題そのものを、子どもが考える。

と言うものです。
いかがですか?
そんなこと、無理だろうと、お思いになりますか?

あるいは、これまで伝えてきた知識はどうなるんだ?軽視してしまうのか?
と不安になる方もいらっしゃると思います。
そんなことをして、誰が一体どのような評価をするのだ?
という疑問を持つ方もおいででしょう。
教師の役割は一体何になるのか?
もしかしたら、パソコンの画面でずっと検索をするだけか?
と極端なことを言い出す方もいます。

国民が混乱してます。
日本は非常に大きな転換点に差し掛かっているのです。
よく考えてみると、大きな転換点に差し掛かっているというのは教育だけでは無い。むしろ、教育や子どもと言うのは、その大きな転換に、巻き込まれた側と見る見方もできます。

社会がこんなに変わるようであれば、教育も変わらざるを得ないよ、と言うのが、文科省の方の本音だろうと思います。

世界には、もうのっぴきならない問題が、目前に差し迫っており、誰か偉い人が解決すれば、それで良いということでは済まず、世の中の人大多数がその問題を認識し、自分の立場で何をすることができるのか、考えなければならないのです。

戦争、紛争、民族のアイデンティティの問題、差別などはもちろん。

環境の課題はもはや緊急事態。
誰か、アイデアのある人は、どしどし実行しないといけない。社会全体で、応援しないと間に合わない。

いわば、革命的な解決を人類は求めています。それも、解が一つではない。一億通りも、解の見つかるような。
多種多様、様々で、誰もが参加できるような、地道で金のかからない持続可能なアイデアと実践を。

日本であれば、トヨタやパナソニック三菱重工、日本石油や住友化学の偉い人たちが、何か良い発明をしたり、仕組みを考えたりしてくれるだろう、と、いうことでは済まないのです。ソフトバンクの孫先生が、良いことをしてくれるよ、では無いのです。もちろん、裏金問題でテンテコ舞いの与党政府の政治家が、国民の将来について考えているとは思えないわけで・・・。

そんな中、中教審と呼ばれる会合が、日本中の識者を集めて、これからの教育について討論をしてくれています。

そこでは。

答えを覚える学習の仕方から、自分で課題を見つける、学習の仕方へ。

と、学習方法の大転換が示されております。

これそんなに新しい話ではなく、もう10年以上前の会議で、示されているんですが、はっきり言ってよく知らないままで、国民は過ごしてしまいました。

学校の先生たちも、実はまだ、よく分かってない。
多くの人が、やはり課題は教師が与えるもの、答えも教師が教えるもの、と考えています。

ところが、答えが無い、という教育を始めなさい、というのです。国が。

問いを、子どもがたてるんですって。

どう思います?

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日本一のバスガイドさんがすごい

はとバスに乗った。
きっかけは何かというと、タモリさんのこと。
タモリさんの番組、「ブラタモリ」が終わってしまうと言う話を聞いた。

毎週、楽しみにしていたので、終わってしまうのは残念でならない。
一ヶ月ほど前であろうか。嫁様と、この話になり、さらに、タモリさんについて知っている昔話を、お互いにあれこれと話していた。
「ねえねえ、知ってる?黒柳徹子がいいともに出たときのこと」 嫁様が問うので、わたしは思い出した。 「あー!おれ、見たかも。リアルタイムでその時見たよ」 黒柳徹子さんが、テレフォンショッキングに登場したときの話は今では伝説だが、実際に放映してた番組を自分も見た。おそらく日曜日に放映していた増刊号を見たのだと思う。 徹子さんはそのとき、タモリから所望されてハンドバックの中身をあれこれとさらけ出し、事細かに説明していた。

 タモリさんについて言えば、ほかにも、4カ国語麻雀とか、北朝鮮のバスガイドさんとか。
知っている人が多いと思うが、タモリさんの、「はとバス」案内は、絶品である。
その話をしているうちに、無性に「はとバス」に乗りたくなった。

この時の、はとバスの乗りたさ、というのが尋常なレベルではなく、自分の人生史上初めて、と言うくらいの、やかんが沸騰するような熱さの情熱が胸を突き上げてきた。

そこで、先日、万障繰り上げてはとバスツアーを決行したのでございます。
そしたら、なんと、はとバスのリーダーと呼ばれる、一番の実力者がガイドをしてくれた。

リーダーという特別なバッジをつけていらしたので、ちょっと世間話ついでに聞いてみると、

「ええ、そうなんです。ベテランになってしまいまして」

と笑いながらおっしゃった。


 若い頃からずっと勤務されている他、通常のバスツアーの経験も相当あり、東京案内はほぼどの地域もそらんじている。すごいな、と感心した。

 さて、そのガイドさんについて、特に感心したのが、次のこと。


 ①これからの動きについて、大(おおまかに)→中(ほどほどに)→小(くわしく)の順で説明してくれる。
②中(ほどほどに)の説明が10分前くらい。小(くわしく)の説明が5分前くらい。だから記憶に残っているうちに到着する。
③大切なことをしぼっている。→具体的には☆場所☆集合(出発)時間の2点。
④その大切なことを、十分に記憶に残るように反復する。
⑤その際、聞いていない客を責める雰囲気がない。
⑥もしよく伝わらない場合は、わたしの説明がわかりにくかったですかね、というサラリとした雰囲気。
⑦いくつかのおすすめスポットをかんたんに案内→案内しすぎでもなく、案内が無いわけでもなく、おしつけない程度のさらりとした、おすすめスポット(お店)の紹介

 とくに感心したのが4番。
 「集合時間は、2:50分です。(ゆっくり)2時・・・、50分・・・。2時、50分・・・。2時50分でございます。もし遅れそうな場合はわたしくの携帯にご連絡をください。見えるもの、看板、お店、なんでもおっしゃっていただければご案内が可能でございます。もし、あれ、と不安になったすぐにともかくお電話いただければご案内できます。次のお時間は、2時・・・50分、集合は2時50分でございます」

 こんな感じ。


 これ、教室で低学年の子に話しかけるのと、そっくり!

黒板にP.38と書いた後、
「教科書、38ページです。開いてみましょう。さんじゅう・・・はち、ページ・・・。38・・・ページ。教科書を開きましょう。38ページ。いいですね、もう開いている子、早いですねえ。すばらしい。さんじゅう、はち、ページ。いいね、お隣さんがもう開いていたら、いいねえ、と感心してあげてください、さんじゅう、はち。38ページです」

 こんな感じで毎日言ってるが、やはり共通するものをひしひしと感じる。

 はとバスに乗るのは、平均するとやはりご年配の方が多く、わたしが乗車した日は休日でありましたが、ほぼ70代の女性の方ばかりでしたね。
たまたま家族で連れてこられた風の若者が数人いましたが、あとはみんなじいちゃんとばあちゃん、あるいは叔母様たちのグループでした。

 するとね、やはり、このリピート。そして確認。 これが大事ですわね。
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誤嚥とうずらの卵〜ホントの理由は〜

うずらの卵を食べて、窒息する事件があった。

確かに、他の物よりも、一旦のどのスポットにはまってしまうと、卵は抜けない気がする。

ここで、注意をした方が良い食材をあげておきましょう。

1.弾力があるもの → こんにゃく、きのこ、練り製品(かまぼこなど) 、ソーセージなど
2.なめらかなもの → 熟れた柿やメロン、豆類 など
3.球形のもの → プチトマト、乾いた豆類 など
4.粘着性が高いもの → 餅、白玉団子、ごはん など
5.固いもの → かたまり肉、えび、いか など
6.唾液を吸うもの → パン、ゆで卵、さつま芋 など
7.口の中でばらばらに なりやすいもの → ブロッコリー、ひき肉 など

下記の図は、実際にこれまで事故の起きたものです。

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こう考えると、ちょっとあれこれ考えてしまう。幼い子が食べている際は、食べている時の様子をしっかり見ないといけないな、と思います。

しかし、給食の時間は、ノートの丸つけや、日記にコメントを書いたり、子どもが下校する前に終えなければならないタスクを消化するチャンス。
他の時間は全部授業と喧嘩の仲裁、子どもが進める児童会活動の指導で埋まっているから、ホントに、そこしか時間がない。
改めて、休憩時間が無いことは、教員だけでなく社会全体の損失だろうと思われます。
そもそも、教員の勤務時間について争った際の最高裁の判決では、給食の時間は担任の休憩時間とされてるのですが、現実に休む先生はおそらく日本中探しても皆無だろうと思います。

まあ、実際には、よく噛んで食べましょう、という指導が給食前後に行われてはいるのですが、それでも事件が起きる、と言うのが今回の実態なのだろうと思います。

しかしながら、本当の原因はそこではありません。

それはね。
給食の時間が、短過ぎること。

実際、低学年はほとんど4時間目の授業を受けてないと思いますよ。
文科省もそのへんは目をつぶってる。
何故か?
給食時間が短か過ぎて、小さい子たちは食べられないのです。だから、優しい担任の先生たちは、4時間目の授業をあっという間に終わらせて、給食にしてます。
これが実態です。

でも、中には、4時間目の授業をしっかりやってる先生もいる。当たり前だけどね。

そうなると、急いで食べなきゃ!

という子どもの意識とか雰囲気とか、出来ちゃったのだと思う。

今回の悲しい事件を、本当に解決するなら、そこら辺に焦点を当てないといけない。

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おじいさんが、子どもの真似をするとなぜこうも面白いのか?

落語を久しぶりに見に行った。
寄席に行くのはそれこそ、子育てを始めてからは、ほとんど行ったことがない。つまり、今回は実に20年ぶりの落語鑑賞であった。

久しぶりに落語を聞くと、若い頃とは、また違う味わいがあった。
昔は、話が面白いかうまいか下手か、というところに興味関心があったと思う。
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ところが、自分が50歳を過ぎてからだと、何と言うか、舞台に立つ演者、つまり落語家さんそのものに興味を覚える。

だから、少々セリフを間違えようが、滑舌が悪かろうが、噛んだとしても、相手を悪く思うようなことがない。

演じ手がどれだけ苦労して、緊張して覚悟をして、そこに立っているかがわかるので、面白いかどうかなんて言うレベルで話は聞いていないのである。
思う事は、ただ1つ、頑張って!と、ひたすらに、相手が無事にやり終えることへの応援と、うまく演じたときの相手を讃えるような喜びの気持ちだけ。

若いときには感じなかった、演者へ対する、妙な親近感を今回は新しく感じたのでありました。つまり、これはね、言い換えますと

自分が歳をとり、落語家の年齢に近くなった

と言うだけのことであります。
実際、自分と年齢の近い噺家が、格段に増えました。そのはずです。もう私は53歳を過ぎてますので。

このブログを始めたのが、35歳の時ですから、その当時は、やはりまだ落語家と言えば、自分よりずいぶん年上。年寄りだなぁと思っていた。
今回、自分とさほど変わらない人を何人か見ました。自分より若い落語家さんもたくさんいました。いわゆる真打ちのベテランさんも、年齢が近いんです。

どれだけこの方が苦労されて、この場に座っているかを考えると、笑うどころではなく、泣けてくる気もする。
素晴らしい技量にすごいなぁと感心する思いと、同じく毎日のように人前で相手を飽きさせないようにしゃべる、という点で負けられないと言うライバル心と、お互いに頑張りましょうと言う、思わず肩を叩きたくなるような親近感の、ないまぜになったような気持ちを持った。

もう一つ、今回改めて発見したのは、おじいさんが、子どもの真似をすると、非常に面白い、と、いうことです。
噺によっては、八つぁんの息子の金坊(きんぼう)と言うのが登場するのですが、この小学校低学年くらい歳の金坊が、大概めちゃくちゃ面白い。数ある登場人物の中でも、魅力ある人物です。
この小学校低学年を、70から80を超えたような、白髪とシワの寄ったおじいさんが演じると言うところが、妙に面白い。子どもになりきってしまうのである。どう見ても、本当に幼い子のような表情や仕草セリフ、あどけない目つきなどを、目の前に正座してる爺さまが見せるのです。

で、よくわかりました。

なぜおじいさんが面白いのか。
これはね、タイムマシンです。
だって、絶対に、このおじさんは、そういう年頃を経験してきているのです。金坊のような小学校時代を、この落語家おじいさんは、実際に経験をしてきているのです。だから、うまい。
このおじいさんの子どもだったときの姿が、落語のストーリーを借りて、舞台に生き生きと表出されてきているのです。

観客はそこに、タイムマシンのような、時間の揺れを感じます。
その揺れが、あたかもブランコのように作用し、目まぐるしい視点の変化を得ると同時に、我々はそこにワクワク感や、時空時間の移動を感じ、興奮するのでしょう。ディズニーランドやUSJ、富士急ハイランドには申し訳ないが、どんなアトラクションよりも、こっちの「揺れ」のほうが、精神的には激しいですナ。

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松本、アウトー!

ダウンタウンの松本人志氏が窮地に立っている。
小生、テレビも見ないしネットも天気予報とブログと教育系の情報収集だけだから、よくわかっていなかったが、この連休に暇があったこともあり、このたびの松本人志事件を、教員の立場からある程度しらべ、考えてみた。

これはどういう問題かというと、つまるところは、人間とはナニカ、ということ。
「女性の尊厳」をどう考えるか、ということになる。

 一連の記事の通りだとすれば、たしかに松本人志氏の飲み方は品が無い。
大人だから酒の飲み方も遊び方も人それぞれ、いろんな考えや行動がある。
ところが、松本人志氏は、いわゆる女遊びというやつでも、相手の気持ちを一切考えていないらしく、男が聞いても非常にたちがわるいと感じる。

後輩たちの「システム」、ということが記事にはあるらしく、このニュースを検索して、ホウボウのマスコミのWEBニュースを見ていると、この言葉が後半すごくヒットしている。

「システム?なんじゃそりゃ?」

よく見てみると、女性を騙すために、流れというのか、やり方というのか、さそいこむためのシナリオがばっちりできているようなことらしい。

それがすごく完成された感のあるもので、記事によってはこの方法で女性をだますのを十年以上?踏襲していたって。

システム、というくらいだから、もしかしたらもっと古くから、よしもと芸人の間で続いていたものかもしれない。

記事にある通り、松本人志氏が自分の相手をいわゆる一般の方(しろうと?)にこだわっていたとするのならば、これは松本人志氏は、自分で自分の首をしめていた、ということになるかと思う。

女性によって、価値観やポリシーは違うんだ、といえども、だからといって馬鹿にするような、人として相手を大切にしないような感覚をもっていたとするならば、トラブルになって当たり前だと思う。

今回のことは、松本氏が自分で自分にふりかけた災難というべき。

それに、最初に「事実無根、訴える」と、強硬に怒りをもって応じた動きをした。これはマスコミ各紙はもちろん、いろいろな芸能関係のコメンテーターもみんな「まちがい」としていたけど、そうだと思う。逆ギレしたような態度、こんな態度が世間に受け入れられるはずがない。傷ついた相手がいるということを、ちっとも感知しない、というような態度。

こんなに強硬な姿勢をみせたら、アウトに決まっている。

われわれは教員なので、今回のことをどう教育に結びつけるかと考える。
こういうことをすぐに思考するのは、教員としての職業病であるが、これまでの長い経験で、世間で騒がれたことは数ヶ月で現場におりてきて、

「◯◯教育」

という名前で、「指導せよ」とおりてくるもの。

たとえば東日本大震災のあとは、防災教育が大流行した。
流行ってのががそもそもおかしいわけで、命を守る授業はぜったいに必要。しかし、それまでは津波からどう逃げるかなんて授業は、海岸沿いの小学校だけが真剣にやっていたのを、全国の全小学生相手にやることになった。その子が生涯にわたり、津波の恐ろしさを知るため、でありますね。

また、メールがふつうの世の中になったころから、郵政省の「ゆうびん教育、手紙教育」というのが大流行し、事務室になんだか教材まで送られてくる。強制ではないのだろうが、与党政府はさせたがっている、ということらしい。暑中見舞いの付録が付いていたり、年賀状を書きましょう、日本のこころです、日本の美意識はスゴイ、みたいなお手紙がついている。

今度、新札発行がありますね。御名答、金融教育、というパンフレットも送られてきますですよ、小学校には!発行元は金融庁です。新札の意味とか、お金に関するさまざまな知識を子ども時代に学んでほしい、ですって。すごいですよね。つまり、小学校の学校教育の中では通常、予定されていないことでも、世間で話題になったら子ども時代に教えなきゃ、と思うらしい。

だから教師は、世間の出来事に敏感なんですよ。世間で話題になった途端、自分が授業しないといけなくなる。
性のテーマもふつうにやるし、食育もやるし、コロナウイルスの感染防止教育もやりますよ。昔はエイズもやったし、今はドラッグ被害防止教育もやりますよ。通常の授業時間のほかに、くわえて、やることも多いです。なにか通常の授業時間を削って。
分かってます。もちろん、やるべきことを削ってはいけないですよ。(でもやるべきことを削らなきゃ、できないんですよ。どんどん増えているんですから。減らしましょう、といってくれる人はいないが、増やしましょう、という人はたくさんいるし、その証拠に教材は毎年増えているんですよ?わかりますかね?)

だから、おそらく、わたしはこの松本人志の問題も、なにかしら形を変えて、現場に降りてくる気がする。今日、職場でもそんな話題がでました。みんな、予感しているんですよ、ベテラン勢は。

さて、どんな教材かなあ。

たぶん、脅迫防止教育とか、立場利用マウント防止教育とか、パワハラ防止教育とか、そういったたぐいでしょうなあ。教科書とか指導書とかワークブックとか、増えそうやなあ。

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良かったねえ

脳の研究や心理学の世界で、新しい知見が次々に生まれている。

ミラーニューロンというのは、かなり昔にブームが起きて、その後も研究が少しずつ進んでいる話題の一つだ。

話は単純で、人間は外見や格好を意識的に模倣するが、心理的な動きも意識的かつ無意識的に、かなり多くのことを模倣するということ。

つまるところ、人間は、とても影響を受けやすいのですね。

教室でも、そういうことが、たくさん起こります。

朝の出席のとき。

子どもの名前を1人ずつ呼びながら、顔を見て確認していきます。

大抵の子は、はい、元気です、とハッキリ言います。
私は笑顔で出席簿にマルをつける。
教員の至福のひと時ですなあ。

中には時々、
「ちょっと鼻水が出ます」とか「咳が出ます」とか、言いますね。

そんな時は気になるものですから、ちょっと様子を聞きます。まわりのみんなも聞いてます。

周りの子たちをすかさず褒めます。
「そうやって友達の身体の様子や体調を聞いておくと、あっ、無理させちゃダメだなとか、休み時間に声をかけようとか、思うことができるよね。きちんと聞くことで、聞いてもらえた子はうんと嬉しい。みんなで◯◯さんを幸せにしているね」

風邪をひきかけてます、と言う子に向けて、私が毎回言うっているのは

「(咳が出ることを)お家の人は知ってる?」
ですとか、
「よく眠れたの?」とか。

あとは、怪我したと言う子に対して、

「何かクラスのみんなに手伝って欲しいことはある?」

例えば、給食当番とか、掃除とか。

するとね、そういうやりとりって、実は子ども。
聞いてるみたいなんすよ。
しっかり聞いてんの。

でね、ミラーニューロンのせいなのか、コピーして言うようになるんだよね。

知らない間に子どもどうしで、
「おうちの人、その怪我のこと知ってるの?」とかって、聞いている。
その言い方、いつも朝、教室で私が言ってる言い方だよねって。

こう考えると。
子どもたちは、心の動きをよ〜く、なぞるようにして、コピーして生活してるんだなあ、と思います。

当然、親が自分に対してする、その関わり方だって、コピーしているでしょうね。
で、その言い方が良いな、かっこいいな、洒落てんな、と思ったら使います。

子どもは、
◯納得すると使い始める
◯いいな、と思うと真似をする
もしくは、
◯自分の身を守るためにも使う

最後のは、ドキッとしますね。
親が屁理屈を言うと、それ、完全に後でコピーされて戻ってきます。

先生◯◯できた、と子どもが言いにくること多いです。
すると、
ああ!そう!よかったねえ!!
私の口癖です。
大体、良かったねー、と言ってもらうと、子どもはかなり満足した顔をしますからね。

するとね。それもコピーしています。

子ども同士で、
良かったねえ!
だって。

あとは、最近ですが、こんなこともありました。

クラスのある男の子が、ピンク色のセーターを着て登校したんです。
オードリーの春日みたいなの、です。
すごく似合うの。それが。

でも、なんか朝、それについてなんか言った子がいたのですな。
男なのにピンクなんて、とか。


するとね、間髪を入れず、
「それもいいんだよ。男だってピンク色を着てもいいんだよ。変だとか、そういうふうに言われたらさみしいから、それでもいいよ、と言ってあげなよ(原文ママ)」
ですって。
そう言った子がいたのですわ。

私は、これはおうちの人のセリフだな、と直感しました。

周囲の大人のセリフって、コピーされるもんなのですよ。
セリフというよりも、それを言う時の心理状態を真似するという方が正しい。

こう考えますと、子どもって、
ああ、社会全体から学んでいるんだなー、親だけでもなく 教師からだけ、でもなく 友達からも兄弟からも
本からもゲームからも
基本は これいいな ということ 使ってみたいなと思うこと、みんな、子どもにとっては真似するモト、なのですね。

子ども、偉い!

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それをするとどうなるか

ケーキを三等分できない、という少年たちの実情を書いた本を読んだ。ケーキに対して、まず一本の線を引いてしまう。衝動的にひく。考えが無いので、2本目に困る。それで、2本目も無理やり引く。結局、三等分ができない。
こういうことは非常によくあること。しかしこれまでは、そんなに話題にしてこなかった。

子どもの能力とは何だろうか。
大人は子どもの何を伸ばそうと考えるか。

乱暴かもしれないが、これは結局次の一つに集約されそうだ。

それをするとどうなるかを予測する力。

特に考えもなしに、子どもはさまざまに物を転がし、何かに乗せたり、自分が乗ったり、ぶら下がったりする。
それが当たり前で、子どもの仕事であり、遊びなのだが、ともすると怪我をする。

高い場所から落ちれば、痛いし、怪我になる。
そのうちに誰もが学習するから、回避できるコトなのだが、一部の子は、学習をしない。というか、「することができない」。だから、しょっ中怪我をするし、その怪我の程度が大きくなっていく。

ケーキを三等分することができない子の多くが、実は学習障害の側面を持っている。
まさに、「それをするとどうなるかが見えない」という状態のままで、生活しているのだ。

少年刑務所で講義をする先生がいて、お話を伺ったことがある。
少年刑務所は、少年受刑者を成人受刑者から分離して拘禁し、悪風感染を防止するとともに、特別な教育的処遇を行うことを目的としている。
だから、松本市にある少年刑務所のように、中学校を併設するところもある。

その先生が少年たちと話して一番に感じたのが、やはりそのこと。つまり、それをするとどうなるのかが、想像できない、という特性についてだった。

その先生は、歯磨き粉をチューブから下敷きの上に絞り出させてから、

「それを元に戻せる?」

と聞いた。
少年は、戻せるよ、と言うのだそうだ。ところがやってみると戻せない。
ダメだ、というその子に向けて、先生は、

「戻せないって、そういうことよ」

と教えた。

この世の中には、一旦元に戻せることもあるが、一方で取り返しのつかないことがある。それを、少年たちが、できるだけ実感の湧くように、何度も体験させるそうだ。

先生は、少年に、
「それ、元に戻せることかな。それとも、戻せないかな」
と聞く。また、
「それ、そのことをやり続けると、どうなると思う?どんなことが起きそう?」

少年が床を掃除すると、

「それすると、床がどうなるの?」
「それをすると、どんな人が喜んでくれるかな」

やってることは、小学校の先生と変わらない。しかし、すごく重要な指導なのだ。それをすると、あなたのその行動が、社会にどう影響するの?と、聞くことは。
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親だって、これを繰り返しながら、子育てをする。
私もあなたも、ずっとそうして、周囲の大人に問いかけられて、考えることを促されたから、成長したし、自分で計画を立てたり、修正したり、できるようになったのだ。

それをするとどうなるのか、考えること。そして、その力。
 
まさに、教育の担う1番の目的はこれで、大人は絶えず、この問いかけを子どもにしていくことが大切だ。

教育現場で教師がよく、子どもに対して問いかける。

「それをすると、どんな良いことがあるの?」

この問いかけなどは、まさにそれだ。

「そうすると、どうして(なにが)分かるの?」算数でよく言うセリフだ。
「そうすると、どうして(なにが)出来るの?」
体育でよく言うセリフ。

算数の授業も国語も体育も図工だって、考えてみれば、全部同じで、根幹はコレでありましょう。

コーヒーの勉強をする その1

実家が喫茶店をしております。
ところが問題がありまして、名古屋のくせに、モーニング・サービスがないのです。あるのは、普通のコーヒーと紅茶、コーヒーゼリーとケーキくらい。
これはすぐに店が潰れるかと思っていたが、どっこい20年続いている。

母に、どうして、モーニング・サービスをやらないのと聞いたら、たった一言、大変だから、ということであったが、名古屋の喫茶店がモーニングをやらないというのは、ほぼ犯罪に近い。大変な勇気である。お客様が「モーニング!」と言ったらどうしているのだろう。気の短い名古屋市民。大げさに言えば、毎日をモーニングのために生きている、という感じがある。決して許すまい。

どうやら店にやってくる人は、モーニングで小腹を満たす目的ではないらしい。美味い珈琲を飲んで、クラシックを聞き、植物を眺めてボーッとするためであります。2時間いても、母は何も言わない。そんな調子だから、たまに人生相談もあるらしい。
若いスーツ姿の若者が、2時間ボーッとしてた時、おかわりのレモン水を替えに行くと、悩みを打ち明けられたと言うので、むしろ水晶玉を使って別の商売をした方が良いのではと、それを聞いた姉が進言していた。

いっそのこと、銭天堂、という店名に変えたら良いかもしれない。

私自身は、ずっとコーヒーは飲んでいなかった。味も分からない。

30を過ぎた頃、世に出て働くようになり、職場の人がコーヒーを飲んでいるんでお付き合いで飲んでいたが、味に関してはまったく分からない。どれも似たようなものだろう、と漠然と思っていた。
コーヒーを飲んでおいしいと思う時はあったが、自分が一体どんなコーヒーを好みに感じているのか知らなかった。

そこて、いくつか試してみていて、

1)インドネシアのマンデリン
2)コロンビアとブラジル
3)キリマンジャロ

入手先の店や豆自体にもよるだろうが、だいたいこの辺を比べ、自分がそれを好みに思うかどうか試している。これらは次のような特徴があるようですナ。

1)インドネシアのマンデリン
酸味の苦手な人もマンデリンなら大丈夫。苦味がある。とにかく珈琲は苦くないとねえ、という人向け。風味も良くファンが多い。

2)コロンビアとブラジル
酸味と苦味、コク、すべてほどほどにあってバランスが良い。万人向け。浅煎りなら酸味が強く出て、深煎りなら苦味が強く出る。

3)キリマンジャロ
マンデリンやコロンビア・ブラジルとは違い、苦味よりも酸味が多い。ニガいのは苦手だという人で、香りが良く、酸味も平気と言う人が好む味。

・・・なのだそうです。知らんけど。

※母によれば、店に来るお客さんとコーヒー談義をすると、ほぼ皆さま、『酸味』の好き嫌いを言うそうです。
一方、苦味の方は焙煎の工夫で多少上下コントロールできるので、もっぱら豆由来の「酸味」の好みを聞くそうですね。
エチオピアモカやキリマンジャロは、むしろ酸味が好きという人向け。
逆に酸味が強いと気になる人には、ブラジルやコロンビア。これらは程よく中間で、バランスが取れている。
一方、むしろ苦いのが良いという人には、マンデリン。大雑把ですが。

私はこれを聞いて、たまに飲み比べるチャンスがあれば試しているが、結論としては、ほぼどれでもそれぞれにおいしい。
コーヒーそのものよりも、どちらかというと、コーヒーでも飲んでゆっくりできる、ということの方が、自分にとって大事なようですナ。

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雪山の遭難についての話が子育てに通じる

雪山の山岳ガイドをしていると言う人の話を聞いた。
最も伝えたいのは、ネット情報を見て山に登るなと言う警告であった。

ネットには丁寧に情報を載せる人がいる。持ち物は何か、いつから何時から登ったのか、計画した時期はいつか。

丁寧に道順や道筋を示す写真やポイントまで載せている人がいる。
「わかりにくい印ですが、こうなってる方が正解です」
「ここの目印はピンク色のリボンです、ピンク色を見たら右に曲がりましょう」

本当に詳しく載せている。つまり、載せた人は、自分の真似をして登る人が迷わないように親切で載せている。

これを見て、自分もこうしたら登れるのだと思いこむ人が出てくる。

ところが、その情報を載せた瞬間とは、当たり前だがズレがある。ブログを読んだ読者の1人が思い立って、これの真似をしようとして登った日時は、記事を書いた人の日時とは、違うのであります。

あると思ったピンク色のリボンは当日は無い可能性だってあり得る。
当日の気温も違う、天候も違う。
何しろ、登る人の、そもそもの経験年数や体力まで全て違う。
持病を持っている人か、あるいは、以前、腰を痛めたことがあるか。
履いている登山靴の種類も違う。歩幅も違うし、スピードも違う。血糖値が上がったり下がったりしやすい人なのか、普段から肉体的な労働仕事についている人なのかどうなのか。若い頃に雪山に登ったことがあるのかどうか。最近雪山に登ったのかどうか。

全然違う人の違うデータをもとに作ったガイドをみて、

「この通りやれば、真似をすれば、俺も登れる」

と、考える。

これは実はどうしようもない仕方のないことである。なぜなら、人間の脳は思い込むようにできているし、決めつけるようにできているから。
どうしてかと言うと、人間の脳は、省エネのため、複雑な情報をできるだけ簡単にまとめようとして覚える傾向がある。「要するにこういうことなんだろう」「ああ、分かった!」という処理の仕方は、人間が生まれ持ってたくさんの情報を処理するために見出した知恵なのであります。

そして、わかったと言うふうに自分を納得させないと、新しい新規の出来事に対してチャレンジする勇気も湧いてこないのが人間。本当はわかっていないのにわかったと言わなければ、不安遺伝子が邪魔をして実行できない。
だから、全人類が決めつけて思い込んで暮らしている。この事は誰も責めようのない事実なのです。

インターネットを通じて、気軽に誰もが山の情報を載せられるようになってから、雪山の遭難は飛躍的に増えてしまったと、前述の登山家がぼやいておられるのは、そう言うことのようです。

山岳ガイドは、遭難者が出たときに要請が出て現場に向かう。救助と言うのは、推理と安全確保と体力の勝負。救助隊員は、たとえ自分が30回以上登っている山でも、もしかしたら、はじめての体験をするかもしれない、と考えて準備をする。

万が一、万が一、万が一を考えて準備をする。
普段と違うロープの縛り方、紐の縛り方は絶対にしない。
決まった場所に必ず決まったものをしまう。
2つのものを同時に手に持って2つの作業をするような事はしない。炎の上で、何かする事は無い。机の端に、落としたら割れるものは絶対におかない。落としたら割れるものの上を、自分の肘や袖が通過することがない。体の向きを変えても、絶対に当たらないようにする。

要するに、訓練を積んでいるのである。

ふと思いついた都会のサラリーマンが、ネットで取り寄せた山の道具を持って、冬山に1人で登ってしまうのと、救助隊員が万が一を考えて準備を行うのとではレベルが違う。

世の中は今、専門家を軽んじる時代になっている。ありとあらゆる専門家とその知識や経験が、大切にされていない。
その代わり、簡単に書いた情報や、軽く紹介されたYouTube動画で、「こんな感じでやれます」と情報は拡散されている。

今や健康に関する情報も、専門家より、もしかしたらYouTuberの一言の方が重視されているかもしれない。

専門的な知見が軽く見られているのは、日本だけではなく、世界中の傾向らしい。インターネットの発祥元であるアメリカ合衆国においても、専門的な知識はどんどんとその社会的地位を落としていると言われている。先日、そのことをビルゲイツが嘆いていたようだ。「インターネットの発明により、私が思い描いて望んでいた未来とは、違う方向へ進んでしまっている」と。

専門的な知見よりも素人の感想のようなものが社会を動かす時代。

この傾向はますます強まっていくだろう。となると、現代の子育てでやるべき方向は定まってくる。

知識を教えるのではなく、研究的な態度の大切さを教える教育に方向転換するのだ。

正解はどれかを教えるのではなく、答えはこれだこれ1つだと、安易な考えに陥ることの愚鈍さを伝えるべきだ。

小学生に人気の、ヨシタケさんの描いた絵本に、「りんごかもしれない」と言う作品がある。
この絵本では、目の前にりんご、のようなものがあり、これはリンゴだろうか?と問いかけるところから始まる。

しかし、それがりんごだと言うふうに断言する事はなかなか難しい。
目で見たものは全て事実か、と、問うているのである。

事実とは何か。
目で見たものは事実と言えるか。
耳で聞いたものは事実と言えるか。
A = Bだと言い切れるだろうか。

こうした思考訓練を、すべての日本国民が、小学生時代から綿密に行っていけば、軽くて安くて、ペラペラの知識に、人生を翻弄されて無駄に過ごしてしまう国民は減るだろう。
しかし残念なことに文科省がこれを学校でやるとは思えないし、学校はすでにやるべきことでキャパオーバーしている。


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