困らないけど、いいですか

叱らない で、子どもに伝え、通じ合う、子育て。
大人の一人ひとりが、素にもどり、素でいられる大人たちが集って、
ありのままでいられる子どもたちを育てます。
生活の中の、ほんのちょっとした入り口を見つけだし、
そして、そこから、決して見失うことのない、
本当に願っている社会をつくりだそう、とするもの。

~新間草海(あらま・そうかい)/著~

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プログラミング学習の面白いこと。

〇やんちゃくんが、先生になれる。
〇教えてもらって、素直に「ありがとう!」と言っている。
〇失敗すると、笑い転げる。
 「先生、すっごくへんな動きになった~!!ぎゃははは」
〇意図したとおりに動くと、満足できる。
 「ちゃんとりんご消えた!!ゴリラがりんご食べたみたいにできた!」
〇なんで思い通りにならないのか、理由が分かると納得できる。
 「あ、そうか。それだ、それだ・・・」
〇すべてコンピューターのせいにできない。
 「勝手にこうなった~」⇒「プログラム変えたらOKだった」
〇集中して、45分なんてあっという間。


遊びの要素と、同じものがたくさん詰まっているようだ。

おとなしいタイプの女の子が、けっこう活躍して、みんなから
「〇〇ちゃん、来て!おしえて!」
と言われて、まんざらでもない表情。

国算理社、学級のこれまでの勉強とはまた違う面が見られる。

クラス全員、どんな大人よりも、たぶん、飲み込みは速い。
どんどん、やるからだろうなぁ。
とりあえず、触ってみる、やってみる、ということの価値か。

これはとても面白い現象だ。
チャレンジ力も吸収力も、ある。
それが、子ども。

スクラッチ

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2分の1成人式に向けて、ちょっとずつ進めている。

1)自分ってどんな人間か、思うこと
2)赤ちゃんの頃、保育園の頃、4年生までの自分
  をふり返ってみる
  〇どんなことが楽しかったか
  〇できてうれしかったこと
  〇みんなにしてもらえてうれしかったこと
  〇やりたくなかったこと
3)自分自身が成長したと思うこと
4)クラス全体が成長したと思うこと
5)友だちを見ていて、成長したと思うこと
  ⇒ 友だちのカードにメッセージを書こう
6)自分自身が成長する上で、光や栄養になってくれたと思うこと
7)将来の自分
8)10年後の自分に手紙を書こう


上の流れで、5)をやっています。

先週は一人ひとりのカードを作成し、真ん中に写真を貼りつけました。
そこに、お互いへ向けてのメッセージを書きました。

「〇〇くん、近頃は席を立たなくなったし、おしゃべりもずいぶん減ったね」

と書いてもらった子が、その日は本当に真剣な目をして勉強してて・・・



やはり、友だちに認めてもらうのがいちばん嬉しいのではないかな。

人間と言うのは、

そこが、なにしろ、いちばんの栄養なのでは。


自分の好きな、自分が親しさを感じている相手から、

認めてもらうこと。

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イオンシネマで映画を観ました。

入場の時間をほんの少し待っている間、ひまだったので、
見るともなしに、読むともなしに、お客様からのお手紙コーナーを見てました。

入り口に、あるんですよね。
お客様からの感謝の言葉、あるいは意見、感想の掲示コーナーが・・・。。


そこに、ひとつ、苦情がありました。
「映画を見た後、レストランで食事をしているとき、車のキーがないことに気付いた。たぶん、映画館の中で座席に座った時にかばんを置いたから、落としたと思った。そこで探してほしい、と頼んだが、すでに次の映画が始まっているから、探すのは勘弁してほしいと、断られた。
主婦にとっては夕方の時間は死活問題で、娘の水泳教室に迎えに行くこともできず、夕飯の支度もできない、とっても困った。次の映画が終了したら探して見つけてくれたが、なぜあの時、すぐに探してくれなかったのか」
とのこと。

クレームをそのまま聞いたとしたら、スタッフさんが懐中電灯で照らしながら、座席の周りを探すんだろうかナ・・。映画やってるし、その場で見てる最中の人もいるだろうにネ。


これは、映画館のスタッフの選択や判断、今現在、映画を見ている人の自由を認めないぞ、ということ。

eigakan


「なんでしてくれないのか!」

相手がしないことを、「わたしは責めることができる」と思い込んでいる。
なぜしないのか。相手はわたしの言うとおりにするのが当然、と思っている。
↑ これ、教室の先生と、なんだか似ている。


もっと極端な、他の事例。
たとえば、仮に、お店が臨時休業だったとする。
せっかくうなぎを食べに来たのに、店の入り口に「臨時休業」の貼り紙が、という場面・・・。

なんで、休んでるんだ!!

相手がうなぎを焼かないことを、責めて当然だと思っている。


ここで、もしうなぎ屋さんが、苦情を聞き入れて、臨時休業の貼り紙をはがして店を開き、うなぎを焼いてくれたとする。

うなぎ屋さんは、おそらく他の用事があったのに、お客さんのクレームを聞き入れてうなぎを焼くわけだけど、たぶん、

イヤイヤ

やるのではないだろうか。

してくれないのは迷惑だと感じる→しないことを責める→責められたことで、イヤイヤ仕事をする人間を増やす

イヤイヤやる人を世の中に増やすことになる。
これって、どうなの・・・。


うなぎ屋さんに向かって、

「いやいややるんじゃない!もっと喜んで、もっと楽しそうに、笑顔で働け!」

と説教する人がいたら、もっとこわい。


「なんで、してくれないのかッ!」

これは、根が深いねえ。

イヤイヤやる人を、この世から無くすのが、本来の方向なのではないか。

そう考えると、根本的に先生たちが子どもたちに対する時というのは、

「なぜ宿題をやらないのか!」

ではなく、

「いつ、どのようにして学んでいくか。どうする?」

という、共に計画する態度に変貌するしかない。

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わたしたちが本当に願っていることは、なんだろうか。

空


CAに本気でなりたい、と思っています、という相談があった。

「高卒からフリーターの24歳ですが、CAになりたいです。遅いのは十分わかっていますが、人生後悔したくないので挑戦したいです。なれると思いますか?」


「〇〇になりたい!」というのが、本当に自分の願っていることではない場合がある。
そんな馬鹿な、とも思うけど、案外とそういうことが多いのが人というもの。

あとで振り返ってみて、

「なんであのとき、自分はそこまでこれをやろう、と思ったのかなあ」
と不思議になることだって、ある。

自分のことなのに、ね。
自分では、「自分はCAになりたいんだ」と思い込んでいるけど、
実は、本心ではそうではない、という状態。
肝心の自分自身が、『本心』を理解しない、分かっていない。

自分の本心が分からないなんて、そんなこと、あるの?

けっこう、ある。
自分の本心が分からない、というのが、けっこうある。
だから、キャリア教育は難しい。


テレビのCMを見て、職業を決めているようなもの。
気分で決めている。
かっこいい俳優が言ったから、やっていたから、
だから商品を買う、だから、その商品を持つことに憧れる。
それと同じ。



なぜ、CAになりたいのか。

CAに憧れた、という。
お客さんを第一に考えて、きびきびと働く姿に憧れた、という。
困っている時に、助けてもらった、親身になってくれた。
だから、わたしもそういう仕事に就きたい、という。

ところが、自分自身がどんな人間なのか、ちっとも分かっていない。

自分のことを、知らない。

だから、あっという間に、CAがちがう職業にコロッと変わっていることがある。

「あれ?先週まで、CAとか言ってなかった?」

「うん。CAもよかったんだけど、もっといいの見つけたから」



もっといいの見つけたのはいい。
しかし、そもそも、自分のことが見えていないから、やはり同じだよね。


自分のことを知らないで、分からないで、調べもしないで、
それでキャリアを考えることなど、ぜったいにできない。

これからのキャリア教育は、職業の説明をする教育ではない。
自分のことを知ること。
人間とは何か、知ること。
社会と自分の接点を、楽しく、わくわくしながら考えること。

自分ひとりで考えていけるわけではないよ。
キャリアは自分のことをよく知る仲間と、いっしょになって、
自分はどんな人間なのか、じっくりといろいろ考え、
成長したところ、気づいたことを教えてもらうこと。
自分の成長は、自分では気づいていないこともある。

周囲の人たちからすると
自分はどんな存在で、どんなことが喜びなのか、いろいろヒントももらって
自分がなにを喜びとすることができるか、周囲の人たちとの関係もふまえて
経験もふまえて、あれこれと自由に考えていく中で、ようやく見えてくるもの。

こんなの、ひととの関係が濃い、学校教育の中じゃなければ、できないかもなぁ。
ひとりきりで考えていたら、ただの思い込みとイメージで決めることになるかもしれないし。

キャリアは
ひとりで考えていても、
なかなか・・・。


だから。
大事な決断は、
気の置けない仲間の助けが要る、ということではないかナ。

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ふだんの会話の中で、
子どもが、安倍首相のことをひどく言うことがある。




わたしは道徳で、「ビーフカレーは辛いか、ポチは悪いか」という授業をする。

麻布十番ビーフカレー


このカレーは、辛いカレー?

「いや、ぜんぜん辛くない、と感じる人もいそう」

じゃ、この犬は、こわい犬?

と、犬の写真を見せる。

「ううん。こわいと思う人もいるかもしれないけど、こわくない、という人もいそう」

だよね。

じゃ、この犬は、悪い犬?

「悪いこともするかもしれないけど、寝てるときはかわいい、と思うかもしれない」

だねー。

悪い犬って、24時間、ずっと悪いのかな。
悪い犬って、死ぬまでずっと悪いのかな。
Nくんが、この犬は悪い犬だと思っていても、犬の飼い主からみたらすっごく可愛かったりして。

悪いって、なんだろうかな。

「悪いってのは、なんかやってほしくないことをやってる犬に向かって、それをやってほしくない人が言うことじゃないのかな。だから犬がそれをやってもいいよ、と思っている人や、関係ない人とか、むしろやってほしい、と思う人は、悪い犬だなあ、とか、全然思わないと思う」

つまり、どういうこと?

「悪いってのは、事実じゃなくて、感想」




この人は悪い人?(トランプ大統領、インドのモディ、韓国のムン・ジェイン、エリザベス女王、メルケル、フィリップ、など世界の指導者たちの写真を軒並み、ずらりと見せる)

「うーん。ただのおっさんとか、おばさんにしか見えない」

これは実は、世界の指導者とよばれる人たちです。この人たちのやろうとしている仕事について、どんどんやってほしい、と思う人も多いかわりに、やってほしくない、と思っている人もいるわけね。いろんな立場の人がいて、世界は広いから・・・。そうすると、この人たち自身は、そもそも「悪い人」かどうか、決められるかなあ。

「味方になっている人からすると、いい人だし、敵になっている人からすると、悪い人に見える」
「いいと思うことをやってくれたら、そのときはいい人に見えるし、その人が急にやってほしくないことをやったら、悪い人、と思うかもしれない」



わたしは黒板に、いい人、悪い人の表を書く。(左がいい、右が悪い、という横一線の、単純な線分図)

今日、Aくんがこの人はいい人、と思っていても、明日はもしかして、その人がなにかよくないことを言ったとかを知ったら、悪い人だ、という方に、ちょっと評価が寄るかもしれないね。また、世界中の人がこの表をもっていて、それぞれ自分の考える「いい」「悪い」を、ここに書いていくとしたら、最後の結論として、この人はいい人です、悪い人ですって、実際の結論が出るのかなあ。

「出るわけない」

では、まとめ。

良い人だとか悪い人だとかというのは、わたしがどこから見ているかの感想で、その人が良い人だとか悪い人だとかいうことではない。



先日まで、安倍首相を糞みそにこきおろしている発言を繰り返していたNくんも、安倍首相の悪口を言ったあと、ちょっと首相をフォローする言葉を付け足すようになりました。感想だけど、と。

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先日、2分の1成人式の記事を書きました。(先日の記事はこちら)
ちょっとした反響があり、現役の若い先生からメッセージをいただきました。

「わたしも4年生担任です。わたしは、2分の1成人式では、将来の夢を考えることを主眼にしました」

なるほど。いいですねえ。
わたしと同じです。

「自分が将来、就きたいと思っている職業を一人ひとり考えて発表しあいます。そして、その夢を学級のみんなで応援しあおうと思います。具体的には、お互いにメッセージを書いて、贈りあいます。そして、作文を書いて、学年最後3学期の学習発表会で、おうちの方の前で読むつもりです」


とのことでした。


しかし、その方が、ご自分で一点気にしていることがありました。

「もし、就きたい職業がクリアでない子がいた場合、その子は、夢に向かってがんばる、という作文がうまく書けないかもしれません」


たしかに。
書けない子もいるでしょうね。

「どうしたらいいでしょうか」

との相談のメッセージ。






担任が、教室の子どもたちに、
夢に向かってがんばる、という作文を書かせたいのかどうか
でしょうね。

〇〇になるために、がんばる

という人生の進み方もありますが、四年生段階で、職業を決める、というのは現実的にむずかしい子もたくさんいるわけで・・・。

夢というものを追いかける方法のひとつは、みなさんご存知の通り。
つまり、「ゴールをめざす」というわかりやすい方法です。
具体的には、『めざすゴールを先に明確に決めて、そこに向かって段取りを細かくステップ化し、毎日のルーチンをこなしながら目標に徐々に近づいていく』というものでしょう。

たしかに、こうして夢の追いかけ方を考えるのは、楽しくワクワクすることには違いありません。
ところが、4年生で職業を明らかにするのは、なかなかしんどい。
まず最初の条件、ゴールを明確化する、ということ自体が、なかなかの難題です。


そこで、こう考えたらどうでしょう。
先のゴールがまだぼんやりしているのだし、ほんわかしているのだから、自分には何ができそうか、ということを考える。
「ゴールを先に明確化し、めざす」というやり方ではなく、今ある、自分自身の実感や体験や興味関心をデータ化し、そこから具体的にこんなことがやれないだろうか、というふうに、まずは自分の側のデータをたくさん集めていく方法です。

わたしは、小学4年生なら、こちらのやり方の方が、合っているような気がします。

そう考えると、先のメッセージの中に書いてあった、

「自分が将来、就きたいと思っている職業を一人ひとり考えて発表しあい、その夢をみんなで応援するメッセージをおたがいに贈りあいます。そして、作文を書いて、学年最後3学期の学習発表会で、おうちの方の前で読むつもりです」

という部分の冒頭、

『将来就きたい職業を一人ひとり考えて発表』

を、そうはしないで、

「自分がどんなふうに周囲の人たちとつながっていて、影響を与えたり、喜んでもらったり、役に立ったり、してきたか。自分自身が相手に向けて、してあげたことを通じて自分の側のよろこびだと認識できた体験はあるか。また逆に、自分がしてほしいことをだれかにやってもらって、とっても嬉しかったことがあるか」

ということをあれこれと、小学校生活の中からさがしあてて、

「ぼくはどうも、こういうことをやってみんなに喜んでもらったことが、自分ではとてもいい体験だったように思う」

とか、

「ぼくが活躍できたことで、まわりが喜んでくれたことが、自分の励みになった」

とかということの事例を、たくさん集めたらどうでしょう。

そのことを、作文にして読み、

「もしかしたら、ぼくはこういうことをみんなの中でやっていくことが、人生のヨロコビになるのかもしれない。そういう仕事ができたら、人生が楽しいかもしれない」

と、書いたら良いのではないでしょうか。

(Aさんすみません、こんな回答でよろしかったでしょうか?)

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中国のむかし話を、子どもたちに読んで聞かせた。


それはアジアの昔話を集めた本でしたが、こんな話です。
『中国のある地方に、ワンという男が住んでいた。
ワンは木こりで、毎日、山にでかけた。
ある朝、家の玄関で慌てふためいた。肝心の道具である斧がなくなっている。
隣の家の男が盗んだに違いないと思ったワンは、考えれば考えるほど、そう思い込む。
そういえば、昨日の帰り道、畑をたがやしている隣人の表情が変だった。
隣人の奥さんも、先日、油を借りに来たが、家の中を不自然に見まわしていた。
半月ほど前から、妙によそよそしかったことにも、気づいて、
ワンは苦しくて仕方がなくなる。

「おれは、こんなに親切にしてやってきたのに!!」

ワンはどうやって仕返しをしてやろうか、と憤懣やるかたなく、
家にじっとしていられなくなっていつもの山に来る。
仕事場の切り株に座ったとたん、足元になにかが触れた。
落ち葉をかき分けてみると、そこに自分の斧が出てきた。

そうか、この木を切り倒したあと、そのまま置き忘れてきたのか。
笑いながら思い返すと、そういえば隣人の表情はいつもあんな感じだし、
奥さんが油を借りに来るのもいつものことだし、どこもへんじゃない。

ワンが斧をもって帰宅すると、畑に出ていた隣人が、いつものように
「調子はどうだい」と声をかけてきたが、まったくふだんと同じに見えた』


この話を読んで、事実と感想に分けてみる。
赤鉛筆で事実だけに線を引かせると、
どこもかしこも、赤線だらけになる。

ところが、赤線が引かれない場所がある。
ワンさんのセリフや、考えたことの箇所であります。
不安に思ったり、怪しんだり、あれこれと思い悩むところは、
赤線ではないわけ。

ワンさんが、苦しんでいるところに、今度は青い線を引かせる。
青いクーピーで線を引いていくと、ワンさんの思考はほとんど青、である。

「青い線のところは、事実なの?」

ちがーう。

「事実でないとしたら、なにかな」

感想。


子どもたち、国語の教科書で、事実と感想を分ける訓練を積んでいるから、
こういう質問には、パッと答えるのです。事実でなければ、それは「感想」なのではないかと・・・。




まとめを書かせると、ほとんどの子が、

「ワンさんが苦しんだのは、事実よりも感想で苦しんだ。
人間と言うものは、感想で苦しむものだ」


と書いていました。
「人間と言うものは、~なものだ」という言い回しは、いつも指導しているまとめの書き方です)

アワテフタメク

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そろそろ今の時期、2分の1成人式を考えています。
わたしはあまりよく知らなかったのですが、世間ではかなり有名になってきている行事らしいですね。
20歳の成人の、ちょうど半分、10歳になる4年生で、その儀式をやろうというわけです。
学年の先生たちと相談し、まあやってみよう、ということになりました。

どんな式にしようか・・・。
やはり、将来のことを考える、というのがいいね。

『2分の1成人式!これまでの10年を振り返る!』
タイトルはこれで決まり。

これまでの10年間で、どんなふうに周囲の人を助けてきたか。
なにをしてあげてきたか。
まわりの人からやってもらって、うれしかったことも集めてみよう。

自分は、どんなことをやって、人に喜んでもらってきたのかを考えてみると、
その先の将来の仕事も、だんだんとそこから見えてくるものがありそうだ。

考えてみると、不思議なんだよね。
人に喜んでもらったらなぜとなく、自分までうれしくなる。
これは、なんでだろう?
DNAに組み込まれているのかも?

自分の働きで、周囲が笑顔になったのを確認すると、DNAの自己保存本能が、「OK」と言うのだろうか。そういう信号が、脳内に発生するのかもしれない。

誰かになにかしてもらうと、人間の脳には、「よかった!」という信号が発生する。
これまた、ごく自然に発生するから、不思議で仕方がないことだ。

おいしいものをもらって、食べると、満足する。
そして、そのおいしいものを運んできてくれて、食べてよいよ、としてくれた人に、
好意が生まれるもの。不思議だけど。

おそらく、洞窟で暮らしていた狩猟採集時代からの本能だろうね。
自分が生きていくために、この人は信頼できる、と分かると、好意が生じる。
そして、その信頼を強くすることを考えて、今度は逆に、なにか自分が手に入れたら、先日自分においしいものを運んできてくれた人に、「ほい」とあげようとするだろう。
そして、おいしそうにそれを食べてくれたら、こっちも不思議なことに、うれしくなる。

弱い哺乳動物の人間は、そうして仲間との信頼を深めることで、餓死する危機を遠ざけ、厳しい自然界の中で生きていく知恵として用い、自分の寿命を延ばそうとしたに違いない。
生きていく力の弱い人類が、他の動物に襲われず、絶滅もしなかったのは、仲間をつくったから。

教室でも、だれかを笑顔にすることで、自分の中によろこびが生じる体験は多い。
その体験をみんなでいっせいにふりかえり、

自分はなにをすることで、まわりの人を喜ばせてきたか。
まわりの人が笑顔になることで、自分までうれしくなった経験があるか。
その体験をもとにして、将来の自分の仕事を考え始める。

それが、2分の1成人式(ハーフ成人式)。

half_seijinshiki

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「嫉妬」という感情を切り口に、自分を観察することができるのは古来から知られている。
かの有名な哲学者も、ルサンチマン、という言葉で、「嫉妬」に向き合っておりますナ。


さて、子どもは自分では、「嫉妬」なんてしたことない、という子もいる。
ところが、ちょっとした妬み、うらやましくて邪魔したくなる、などは
経験がある。
なぜか分からないが、イライラする、他の子の言動が気になる、
なぜか分からないが、あの子をちょっといじめたくなる、
なぜか、邪魔したくなる、
なぜか、あの子が笑顔だと、気になる。

つまり、うらやましい、ねたましい、ということ。


ただ、うらやましいなあ、というだけなら、陽的で自然、あっけらかん、としたもの。
でも、「なんだか邪魔したくなる」だと、それはちょっとネ。

そこで、自分の心の状態を観察しながら、
なんで自分がくるしくなるんだろうか、ということをいろいろと考えていく。

あの子が笑っていると、なんだか邪魔したくなる。

これも、自分がどういうときに、嫉妬するのかと考えていくと、
どうやら、自分が自分のことで満足していないとき、安心してない時に嫉妬するようだ。

クラスの色々な事例を集めて検討する。
(事例は、子どもたちに書かせるのが一番良い。匿名で事例として扱い、どの子も半分は自分のこととして、半分は友だちのこととして考えていくようにするのが配慮)

授業の最後に、

「では、友だちに嫉妬しているAくんに、自分だったら、どんな声がけしていけるかな」

と、これも書かせる。
道徳というのは、ある程度、自分と向き合う、ということだから、
やはり書かせるのがひとつの具体的な手立てとなる。

子どもたちは、Aくんに対して、

「自分が不安に思っていることをなくせるかどうか、考えたらいいよ」
とか
「相手の子がどんな状態だろうと、まずはAくんが自分自身の状態を良くしていこうとすることで、嫉妬は消えていくと思う」
とか、
あれこれと、アドバイスを始める。

この授業を、4月の1、2週目くらいまでにとりあえず、実践しました。

1年間、このことは子どもたちの常識となっています。
おかげで、わたしのクラスには、人間関係の複雑な問題は、生じていません。
(起きても、このことからときほぐしていきやすいし、時間がかかりません)

ihihi_girl

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まず、4月の学級で、一番最初に行う道徳の授業が、コレです。

いじめ。

これを考えないとね。



「いじめはいけない」と、教える教師は多いでしょう。

しかし、「教えたつもり」・・・では意味がない。



「いじめてはいけない!絶対!」
と、黒板に板書したところで、教えたことにはならない。
強い語調で、力強く教師が叫んだところで、ダメ。
教えたことにならない。

ポイントは、やはり、発問です。

ブラタモリ風、大人向けに発問すると、

『なぜ、いじめはいけないのか?』

となりますけれども。

直球すぎる!!





ここは、もう少し子ども向けにいきましょう。



『自分の機嫌がとても良く、安心して、満足しているとき、友だちのことを憎いと感じているか』



つまり、普通はなかなか、「人を殺したい」とか「あいつの顔面を殴って骨を砕きたい」とは、なかなか簡単には思わないもんです。本気でそういう計画を立てるようになるときは、かなり異次元の心の状態だ。

ここで、

機嫌のいいとき

と、状況を限定します。
すると、

ふだんは、そういえば、人の悪口とかは言わないなー

ということが、浮かび上がる。
結局は、人を悪く思うときというのは、異常な時、と判明する。
たしかに、一日中、人の悪口を言い続けることを想像したら、

「そりゃあ、ふつうじゃないな」

と、子どもでも思いますからね。

『自分の機嫌がとても良く、安心して、満足しているとき、友だちのことを憎いと感じているか』



ウラを返すと、

友だちを悪く言いたくなる時は、自分の中に、ある種の「寂しさ」を抱えているもの。



そうなると、次はかならず、

「ではなぜ、自分はさみしいのだろうか」
「さみしい時は、どうすればいいのか」

となる。

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