2018年04月21日

5年国語光村『あめ玉』の授業 その4

さむらいが起きたとしたら、どこか。

この発問に、あれこれと意見が出る。


しばらくするとひとりの子どもが、
「かあちゃん、飴だまちょうだい。」
と手をさしだしました。


すると、もうひとりの子どもも、
「かあちゃん、あたしにも。」
といいました。


「あたしにちょうだい。」
「あたしにちょうだい。」
 ふたりの子どもは、りょうほうからせがみました。


子どもたちは、ちょうだいよオ、ちょうだいよオ、とだだをこねました。


このいずれか、に落ち着く。
これはどこであっても、間違いということはないから、
どの子も安心して自分の意見を言う。
㋓の意見が多い。何よりも、「だだをこねた」というところが、侍の耳には【五月蠅く】聞こえそうだから。

しかし、ここでまったく別の意見が出る。


最初から、ずーっと寝ていない。つまり、寝たふり。

という意見だ。


㋓派は、「だだをこねた声で起きて、ちょっと不機嫌な感じのところに、さらに子どもがだだをこねているので、こら、だだをこねるんじゃない、という意味で、ちょっと子どもをこらしめてやろう、と思い、すらりと刀を抜いたと思う」

なるほど、つじつまが合う。論理的にも、納得できそうな感じがある。

㋔派は、「そもそも、この船には、ほかに客が乗っていそうな気配が無い。つまり、乗客はこのさむらいと、母子だけであろう。だから、ちょっとさむらいとしては、寝るふりをしてるほか、所在なかったのではないか」
そしてプリントに、
『あれ、客はこの親子だけか。子どもといっしょになっちゃったな。まあ寝たふりでもしていようかな、グーグーグー』
と、さむらいの心境を書いている。


㋓派と㋔派が拮抗したので、それぞれで俳優を決めて、その場面を演じてもらうことにした。

㋓派は、子ども役が上手にだだをこねてうるさくなり、そこでイライラしながらさむらいが「なんだうるさいなあ」と起きるところを演じてくれた。
そこで、刀をすらり、と出す。うまく演じることができて、みんな納得。

㋔派は、船に乗ったときから、「あれ、親子連れか。まあいい。わしは寝たふりでもしていよう」と寝たふりをし、そのままだだをこねるシーンで目を開けて、うむ、わしの出番じゃ」と演じた。
これも刀をすらりと出すまで、うまく演じた。これも納得。

しかし、一点、㋔派に【物言い】がついた。


なんで親子連れだと、寝たふりをしようと思うの?


さきほど、「なんだ、子どもがいる船に乗っちゃったな」と演じた子が、懸命に説明した。
黒ひげの大男。ひげづらのおさむらいが、母と子だけの船に乗る。
そうした場合、すぐそばに同行するような形になったとしても、なかなか打ち解けて話しかける風にはならないだろう、という。
「すぐそばに座っていて、目が合ってもなんか話す雰囲気じゃないと思う。だから寝た」

ところが、このあたりの細かいニュアンスが、女子の数人にツタワラナイ。
「なんで寝たふりなのか、まだ分かんない」


ここで、時間切れ。
子どもたちに聞くと、次回の授業の発問は、
「さむらいは、なんで寝たふりをしたのか」

をするのだそうである。

ヤマブキのつぼみ2




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2018年04月18日

5年国語光村『あめ玉』の授業 その3

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さむらいは、いねむりをしていたか、していなかったか

これは、立場をはっきりさせる発問だ。

起きていたのなら、子どもが笑ったことも分かっただろう。
寝ていたのなら、子どもが笑ったことは分からないはず。
さむらいが、子どもたちに笑われたかどうか。そのことを、さむらい自身がどう感じているか。
どちらでもない、という答えが出にくい。

子どもたちは、きれいに半分程度に分かれた。

「いねむりをしていた」派の根拠は、
ぽかぽかあたたかいので、そのうちにいねむりをはじめました。
という叙述にある。

だって、いねむりをはじめました、と、明記してあるじゃないか、というのだ。

いねむりをはじめた、と書いた以上、実際に寝たのだろう。
そうとしか考えられない、と主張する。


かたや、「いねむりしていなかった」派は、少し押され気味になりながらも、
いねむりをしていたはずのさむらいは、ぱっちり眼をあけて、

という叙述部分をあげる。

・・・はずの、というところが、ミソだ。

〇〇していたはず、というのは、ほぼ確定していたと思われている事実が、実はそうではなかった、という場合に使われる。
だから、作者である新美南吉自身も、「さむらいはいねむりをはじめた」とつい書いてしまった。だがしかし、そうであった「はず」のさむらいは、実は親子の様子をしっかりと分かっていて、大事な場面ではきちんと目をあけて、観察している。これは、「眠っていたはず」であろうが、実は「眠ってなどいなかった」ということなのだ、という。

いや、子どもが騒いだから起きたんじゃないの、という意見も出た。

なるほど、じゃあ、次に考える【学習問題】は・・・
さむらいが起きたとしたら、いつ起きたのか。

だね。

みんな、自分たちが発案した問題だから、意気揚々と取り組んでいきます。

あめ玉の表紙





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2018年04月17日

底が見えそうで見えない人間関係

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めったに教員仲間で飲み会などしません。
そもそも、飲みに行く時間が無い。
夜、9時10時から行ける店も近所には、無いし。(田舎のため)

ところがこの年齢にもなると、なんだか行く機会も出てくるものだ。

新卒の先生を囲んで、励ます会が行われました。
ベテラン2人と私、そして若手1人の4人。

そこで出た話題。
「子どもが荒れていても、先生が鈍感なら何とかなる」
というやつ。


これ、前からなんとなく、うすうす思っていたことだったけれど、
目の前の方がひと言、そんなようなことをつぶやいたから、

「あああ!!それ、思ったことある!」

と改めて、考え直す機会になった。



子どもと言うのは面白いもの。
先生が倒れないで踏ん張っていると、子どもはどこかで先生を頼りにする(一目置く)もののようです。

先生がクラスのことをあきらめてしまったり、
良くない(悪い)学級だと決定したり、
クラスに行きたくない、と思ってしまったりすれば、その直後に、
「先生はそう思うんか。そんだったら、俺たちも!」と信頼関係の紐を切ってしまいます。

ところが、先生がそう思わずに、
ひるむことなく学校へ来て、授業をして、いっしょに給食を食べて、
共に掃除をして、帰りまでとことんつきあう構えでいると、
「うむ。おぬし、なかなかやるな」と思うらしい。
迷惑をかけ、牛乳瓶を割り、ガラスを割り、トイレを壊し、やんちゃの限りを尽くしても、どこかで
「あの人は俺の先生や」と思うものだそうで。

そういう意味で、先生として必要なスキルの内の一つが、

鈍感さ、

なのかもしれない・・・。


いや、
もしかすると、これは、
先生と子ども、というだけでなく、
夫婦でも、兄弟でも、親子でも、いろんな人間関係に言えることかもな、とも思うね。


あんなやつ、もう、イヤッ!!

と思うところまでいきそうで行かない。

どこか鈍感で、どこかにぶくて、
どこか焦点が合わず、底が見えそうで見えない感じで、
相手のことが、よく、分からない感がただよってること。

お互いに、底が見えそうで見えない、ということ。

決定的な断絶、断崖、亀裂をつくらずに済む秘訣?



人間の底なんてものは、決して見ることのできないもの、と了解した先生。

智くなく、愚鈍で、鈍麻で、するどさのない、先生。

・・・であれば、教師と生徒というのはお互いに ❝ふんわか❞ するんじゃないか。

syabondama



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arigato3939 at 18:00|PermalinkComments(0)人間あれこれ 

2018年04月16日

5年国語光村『あめ玉』の授業 その2

主発問:『このおさむらいは、やさしいといえるだろうか』

やさしい派は、結局、このおさむらいは、親切を働いたのだから、という。
やさしくない派は、それにしてもやり方があるだろう、という。

結論は、

「このさむらい、本当は優しい人なんだけど、ちょっと馬鹿」

ということになった。


そこで、私が介入する。

「まあ、馬鹿、という即断しないで、もうちょっと深く考えよう」


子どもがいたら、ふつうは刀を抜く前に、声をかけるだろう。
ところが、このさむらいは、かけない。
わざとしたように、無言で刀を抜いて、近づいてくる。
子どもはこわがる。母親もこわがる。
さむらいは、この家族に、命の危険を感じさせる。すぐにも、斬られる、と思わせる。

どうしてか。


うーむ。
考え込む子どもたち。
なぜ、一見、いじわるにも思えるような態度を、さむらいはとったのか。
どうして、子どもをビビらせるような、行動に出たのか?
なぜなんだ・・・。


教科書の最初からずっと見直して、なにかヒントはないか、叙述から探していく。

すると、そもそも、このおさむらいのことを、子どもたちが最初、馬鹿にしていたシーンが浮かび上がる。
黒いひげをはやして、つよそうなさむらいが、こっくりこっくりするので、子どもたちはおかしくて、ふふふと笑いました。
 お母さんは口に指をあてて、
「だまっておいで。」
といいました。さむらいがおこってはたいへんだからです。
 子どもたちはだまりました。

ここが、さむらいと、子どもの関係を物語っている部分です。

ここに、なにか重大なヒントがあるかもしれない、と注目させます。
おさむらいと、子どもの関係・・・。

イラスト図を配ります。
おさむらいは、こっくりこっくり。(ところが片目は半分開いている)
子どもは、笑ってる。
そういう図を配ります。
吹き出しをつくり、そこに子どもたちが登場人物の心中の声を書き入れられるようにしておきます。

つぶやきを書かせると、
子ども「うはは。強そうなのに、寝ちゃったよ」「すごいひげだな。だけど寝ちゃったな」
さむらい「せっかく寝たいのに、なんだか笑い声がするぞ」「おれのひげを笑っているようだな」

と書く。

そこから、このさむらいの性格が見えてくる。

まとめ。
「このさむらいは、ひげのことを笑われたので、子どもをちょっとこわがらせてやろうかな、と思ったかもしれない」

もう一度、さむらいの性格を考えながら、物語を音読してみる。

最初に音読したときと、今読んだときと、読み方が変わったところがある?

「飴玉をだせ、のセリフを、前よりもこわそうに読みました」
「いねむりをしていたはずのさむらいは、ぱっちり眼をあけて、のところで、あれ?いねむりしてたはずなのにな・・・という感じで、意外な感じがするように読みました」

ん?どういうこと?

「このさむらいは、本当は、いねむりはしていなかったかもな、と思ったから」

さあ、二つ目の主発問。
「さむらいは、いねむりをしていたか、していなかったか」

討論開始、です。

amedama


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2018年04月14日

5年国語光村『あめ玉』の授業 その1

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新美南吉の『あめ玉』を読む。

まずは音読。
 お母さんはおどろきました。いねむりをじゃまされたので、このおさむらいはおこっているのにちがいない、と思いました。
「おとなしくしておいで。」
と、お母さんは子どもたちをなだめました。

全員で呼んでいる時、工夫している子を見つけて

「あ、工夫している子がいる」
と読ませる。
「おとなしくしておいで。」

全員が、お母さんの声になって、さむらいを起こさないような声に変わる。

「いいですねえ!お母さんの雰囲気が出てきました!」と全員をほめる。

つぎ、さむらいの飴玉を出せ、のあと。

お母さんがおそるおそる、飴玉を出す場面を、だれかに実演してもらう。
うまい子にやってもらった後、みんなでやってみる。
恐る恐る、飴玉を出す感じをみんなで味わう。
その後、

 するとさむらいが、すらりと刀をぬいて、お母さんと子どもたちのまえにやってきました。
 お母さんはまっさおになって、子どもたちをかばいました。

のところを、何度か繰り返し、読む。
できるだけ、雰囲気を味わいながら、声の変化を出している子を褒めながら。

そして、

「ちょっと、先生はこのあたりが、納得できないんだけど、どこだか分かりますか?」

と軽く聞いてみる。

これが、ボクシングで言うところの、ジャブ、である。

この後、主となる発問をしたいのだけど、その発問を考える必然性をつくりたいので、ジャブをかましておくわけだ。

すると、子どもから、刀を抜くのが早すぎるわ、と意見が出てくる。

ちっちゃい子が目の前にいるんだから、刀なんて抜いたら怖いだろう。
だから、飴玉をお母さんに声をかけてまず受け取り、子どものいる場所から離れた反対側のへりに持って行って、それから刀を抜けばいいのに、と。
大人なんだから、周囲の安全確認をしろ、というわけだ。

「このおさむらいは、アホです。ちっちゃい子のことをもっと考えなきゃ」

お母さんだって、すっごく怖がっている。そのくらい分かるだろうに・・・。


そこまで引き出しておいてから、ようやく、じゃあ、みんなでこれを考えるか?といって、
主発問:『このおさむらいは、やさしいといえるだろうか』
するとやはり、やさしいはず、という意見の子が多くて、30人いる。
そんなにやさしくない、という意見の子が5人だ。

さて、いよいよここから、討論になる。

あめ玉



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2018年04月10日

花粉症に勝つ!!

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日頃、何かに打ち勝とう、とは思わないのだが、
花粉症にだけは、なぜか

「打ち勝つんだ!」

という強い気持ちが湧いてくる。

今朝は、なんだか寒の戻りで寒かった。
それにも関わらず、わたしはパンツ一枚で、リビングに仁王立ちになる。
なぜか?
乾布摩擦が効く、という記事を読んだからだ。
気分が乗ってきたので、ついでに水垢離までした。丁寧すぎるか・・・。まあ、いい。花粉と戦うには、それなりの精神状態が必要だ。私はリビングの真ん中で気合を入れながら、乾布摩擦をした。

乾布摩擦をして余計に鼻水が出て、くしゃみをしていたら
妻に「そんなかっこで・・・馬鹿じゃないの」と言われた。
妻には勝てないが、『花粉症には、勝ちたい!』と真剣に思う。



そこで、思い出したのだが・・・

実はわたしは20歳のころ、運命のいたずらであろうか、なかなか数奇な運命をたどる一人の行者と知り合ったのである。
彼は現在、行者のランクを超えて、仙人を目指すようになった。もちろん、人目を忍んでひそかに、だ。今は、世を忍ぶための仮の姿として、たまたま東京都内で鍼灸師をしている。しかし、あくまでもそれは、口に糊するためのナントカに過ぎぬ。実際彼は、イチローも驚くくらいの努力家である。今も、寿命500歳を超える長寿を実現するために、ありとあらゆる訓練を続けているのだ。

乾布摩擦をしているうちに彼のことを思い出したので、メッセンジャーで連絡をとってみた。

以前、電話で連絡をとったときには、たしか「体温を上げるのが一番大事だ」と言っていたが、花粉症を打ち負かすのにも、体温はやはり大事なのだろうか・・・。


すると、彼は、ちょうど折り悪く、鍼灸の仕事の真っ最中であったらしく、患者さんの腰に鍼を打ちながら、「今はちょっと・・・あとで返事するわ」と、気さくな応対。

数分待っていると、

「花粉症は体質改善だ。元から攻略せんならん・・・。じっくり返事してやるから、夜、PCから返事する」

と期待できる返事も届いた。

持つべきはやはり友だ、と安心し、夜を待った。




ふくろうの鳴く夜になり、風呂からあがって子どもを寝かしつけてから、ふるえる指でPCを起動。
メッセージを確認すると・・・。


キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

期待できる一行目に、すでに実用的なアドバイスが書いてあった。
「ビタミンDが重要だ」
その一言から、最後の行にいたるまで、わたしが摂取すべき食品群が、ずらりと明記してある。

・・・

師のおっしゃるには、どうやら腸活はいいようである。
それと、やはり昔から伝わっている酵素関連の栄養を摂ること、
太陽光線を浴びること、野菜、大豆、海藻、乳酸菌、ヨーグルトなどが大事なようであった。

それにしても、花粉症に打ち勝つための方策を、こんなにも丁寧に、
しかも断言して書いてくれるのは、ありがたい。

「これでひとまず、体質を改善しろ!きっと(人生がすっかり)変わる!」

なんと力強いお言葉であろう。
わたしは師のお住まいになっているはるか東方を臨みながら、何度も拝を繰り返すのであった。

私は本日、スーパーで次の物を購入した。

1)にがり
2)のり
3)ブラックベリーの実
4)海藻
5)マグネシウム錠剤
6)ビタミンD錠剤
7)野菜
8)味噌
9)納豆
10)糠漬けの漬物
11)さば缶
12)バナナ
13)パイナップル
14)紫蘇の葉
15)にんにく


金はかかったが・・・

師匠の教えに従うことができる素直な自分がいて、わたしは嬉しかった。

スーパーから出てくるときの足取りも、非常に軽かった!
そして、すぐに太陽の光を浴びた。20秒くらい。

心なしか、花粉がわたしの身体から、去っていくような気がする。

「ふふふ・・・」

この冬日の弱い太陽光線を浴びることで、体内に巣食う邪悪な花粉どもが焼き殺されて行くのだ。

ああ、断末魔の悲鳴が聞こえる!!

私はニタリ、と笑ってスキップして駐車場を横切る。

もう、花粉とはおさらば、だ。
くしゃみ、鼻水、鼻づまりと、永遠にサ・ヨ・ナ・ラ・・・。

いいこと、聞いたゼ!!

今はもう、師匠に歯向かったり、抵抗したりなんか、しない!ぜったいに!!


これでまた、花粉症改善に一歩、近づいた!
kafun_tachimuka_woman


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2018年04月08日

初任者のお茶くみ!

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初任者指導の先生に指導されたとかで、
朝、机の上に、湯呑みがおかれて、お茶がいれてあった。

「だれがいれてくれたのかな」
とつぶやくと、隣の先生が、
「なんだか、初任の先生がいれてくれたみたいよ。おどろきよね」

こんなこと、これまでにない動きだったから、へぇーっと思う。

初任者だからお茶?


「教室で子どもと話してた方がいいんじゃないの」

「うん。みんなそう思ってるんだけど・・・S先生が指示してるから、みたいよ」


初任者指導のS先生。
気をきかせて淹れてくれたのは嬉しいけど、朝は忙しいから、気をもむ。

やりたいことを我慢してないかな。
プリント刷ったり、子どもから提出物を集めたり、なんだかんだといろいろ。
気になることがたくさんあるだろうに、お茶くみなんてしなくても・・・

考えてみると、学校というのは、「〇〇するべき」というので動く文化。
だから、こういうことがたくさん多発する。

〇〇するべき、というのではけっして動かない文化であれば、こんなこと起きない。
いやいややる人もいないし、迷惑をだれも感じることがなくて済む。

こっちも気兼ねしなくて済むし、よけいな心配もしなくて済むし、「今日の授業だいじょうぶなんかな。こんなお茶くみなんてしてる余裕あるのかしらん」なんて、気を回さなくても済む。


なんだろうね。〇〇するべき、という文化。
考えてみれば、社会全体が、そういう病魔に冒されている、といってもいい。
ブラック企業の問題しかり・・・。

子どもはそんな「〇〇するべき」では動いていないから、もともとは人間にはないのだろう。
どこで身に着けたんかなあ・・・。やっぱ学校か!

縄文時代18




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arigato3939 at 17:30|PermalinkComments(0)初任者あれこれ 

2018年04月06日

0点を取ってきた子を、責めるかどうか

.
100点にうれしがる私たち、という前回に引き続いて・・・

0点を子どもが見せたら、責めるかどうか・・・。

漢字テスト、0点という紙をみて、

「漢字が書けないと、ろくな大人にならんぞ!」と叱りたくなる、という。

なぜろくな大人にならない、と思うかを説明してもらうと、
〇本が読めないのではないか
〇就職できないのではないか
〇人といっしょに仕事することができないのではないか

という。

今、この漢字テストが0点だと、もうすでにその10年後、15年後のこの子の姿が、見通せるのですか、というと、

「え、少なくとも、その確率が高くなるのではないですか」

と確率論を言われる。


しかし、この子の中にある、他のすばらしい素質や力が引き出されて、うまく動いて、社会でも活躍し、他の人をたくさん助ける存在になることもまた、想像できるでしょう、というと、

「え、この子にそんな力なんて、ないと思います」

と、かなり乱暴に断定するネ。

0点の紙を1枚見て、「わたしは10年後のことが見通せるので不安」というのに、
友だちと仲むつまじく、心温かい雰囲気で一緒に遊んでいる姿をみて、「この子の10年後が楽しみ」とは言わないのであります。

テストは将来に影響するもの、将来の姿を直接うつしだすものじゃ!
ところがその一方、友だちと遊ぶことは将来には影響しない!・・・ってサ。
ケチだねえ。・・・というか、テストが大好きなんだな。この思考法。


0点をみて、この子はこういう子、とかなりキメツケで見る。
100点をみて、この子はこういう子、とみる。同じこと。
どちらも、他のもっと多くのさまざまな面を無視して、テストの結果だけから即断し、優秀な子だ、ダメな子だ、と決めてみる。
この子自身がもっている、さまざまな可能性、素質、個性、まだまだ表面にも現れても来ていないような能力、そうしたものは、すべて無視する、と決めた感じ。

そんな簡単に、無視しないでほしい、と子どもは思うだろうと思うね。

「ちゃんと、ぼくのことを見てよ!

テストの紙じゃなくてさ!」




すみれ




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arigato3939 at 19:00|PermalinkComments(0)子育てあれこれ 

2018年04月04日

100点をとってきた子をほめるかどうか

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100点をとってきた子をほめるかどうか。
これは多くの保護者会で話題になりましたが、みなさん、考えが違うようで・・・。


大人の我々は、その100点、という紙について、反射的に反応することが多いように思う。


100点ならよかったね、0点なら残念、と反射的に出てくる。
子どもも、そう思うようになる。
100点の友達をすごい、と言い、0点の子を馬鹿にする言動が出る。
「え、お前、こんな簡単なのも分からなかったの」と言う子だっている。
社会全体が、100点なら〇、0点は✖、と反応するから、それを覚えてしまう。



しかし、考えてみると、100点(という数字)が良い、というわけじゃないわね。
100点が欲しい、というわけではない。
その証拠に、答えを写しただけの100点は、みんな全員が「意味がない」という。
同じ100点なのに、意味が違う、と言うでしょう。


つまり、ほとんどの親は、100点をほめる、と思っているけれども、
その内情をよくつぶさにみてみると、数字の『100点』をほめたい、わけではない。
100点すごいね、と言っちゃうけれども、100点が良いわけではない。

息子さんが、学校が好きで、先生が好きで、学習に参加して、知的によく覚えて、いつも毎日、楽しく人生をすごすことができている、その様子が、100点、という紙にかかれた数字から、すーっと、うかがえるような気・が・す・るから嬉しいのだろう。確かなることは、何も無いわネ。
まあ、ぶっちゃけ、気のせい、ですナ・・・。

実は、100点を取らせるのはそんなに難しい事ではないです。
わたしは実際に、かなりの高得点を子どもたちに取らせますが、それはちょっとした技があって・・・で、実際に100点を取ると、子どもたちは「わああい!」と喜んでいますが、わたし自身はそのことについて、実際は醒めた見方をしています。

「すぐ忘れるもんなー。今回100点だからって、すぐ忘れるもんなー」

と思うことが多いかなあ。

子どもの姿の、表にでてきていて、見えやすい、見えた!と思いやすいところだから、
100点のテスト用紙をみて、つい反応しがち、ということだろう。

test100


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arigato3939 at 19:17|PermalinkComments(0)子育てあれこれ 

2018年04月02日

迷惑をかけるな、に代わる教育方針は

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迷惑をかけるから、廊下でしゃべってはいけない。
迷惑をかけるから、体育館でボールを蹴ってはいけない。
迷惑をかけるから、校長先生の話をきくときは、黙っていなければならない。
迷惑をかけるから、授業中に立ち歩いてはいけない。
迷惑をかけるから、掃除をしなければならない。
迷惑をかけるから・・・

さて、こういう『禁止規範意識』が、わりとへいきな子もいるかわりに、
こういう「しなければならないルール」の多さで、メンタルがまいってしまう子もいる。

ユニバーサルデザインを意識すれば、当然、この

「迷惑をかけるから・・・ルール」のあり様とはべつに、
どの子にとっても優しい、受容しやすい、指導の在り方、というものがあるだろうと思う。
(↑これは仮説ね)

本当は、しゃべりたいときにしゃべりたい。
でも、しゃべっちゃいけない。
本当は、体育館でボールを蹴りたい。
でも、蹴っちゃいけない。
本当は、校長先生がしゃべっているときに、何か言いたい。
でも、言っちゃいけない。
本当は、掃除をしないで、水槽の魚を見ていたい。
でも、見てちゃいけない。


『規則・禁止事項・命令』が身の回りにたくさんあるんだ、と、
頭の中で思うだけで、「ウワーッ!」と叫びたくなる子、いるんです。
かつての、子どもの頃の自分を考えても、よく分かる。
わたし自身は子どもの頃、ずっとこうでしたナー・・・
(世の中は広いから、まったく命令や規則に抵抗感を覚えない人もいるのかもしれない?)


で、問題なのは、
そういう子を見た時に、その子自身を見られなくなること。
その子の実際の姿、その子らしさが見えないでいること。

目に映る現象、その子の姿だけを見ている先生の目には、
「ルールを破って言うことを聞かず、勝手なことばかりやる子」
としか見えない。1年間、ひどい場合は2年間も3年間も、ずっとそうとしか見えない。

その子自身の本当の姿が見えないまま、

「言うことを聞けない子」

と見ているだけで、過ぎてしまう。

なぜかというと、あまりにも先生の中で、

「規則通りに行動すること」

が巨大化していて、そのことが重要すぎるので、それ以外が目に見えなくなる、ということ。

迷惑をかける、かけない、ということに学校教育がこだわりすぎていて、
「その子らしさ」を見よう、というエネルギーが湧いてないのではないだろうか。



廊下を歩くときにおしゃべりしたくなるのは、
本当は「おしゃべりがしたいからする」ではない場合が多いと思うね。
人の気を惹きたかったり、友だちに笑ってほしかったり、
自分がさびしかったり、なにかその後のことで不安があったり、など
その行為(おしゃべり)になる原因、過程もあるだろう。
自分ではどうにもならない気持ちがあって、不安やさびしさが募って・・・
ということ、あると思う。

そこを理解しよう、というふうにならずに、ダメだなおしゃべりする子!としか見ないのであれば、さみしさ、不安にますます拍車がかかるだけ・・・。


IMG_0903


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arigato3939 at 18:30|PermalinkComments(0)まるで逆さまな話